40年間の末路 第32章 飯坂の夜 ドキュメンタリー小説|自叙伝|50代
8月のお盆が過ぎると、仁美はついに宇都宮のアパートを出て、埼玉に住む長男・光太郎宅へ引っ越した。
宇都宮のバイト先は今回も退職を慰留されたので、9月に入り僕も宇都宮郊外にある1Kの激安アパートに引っ越し、実家との二重生活を続けた。
旅行の一週間前に当日のスケジュールを確認すると、仁美はいつのまにか光太郎の家を家出して、いわきの実家に帰っていた。
光太郎の奥さんの沙穂ちゃんとの口論が原因だったらしい。想定内だったが、一カ月足らずでの家出は想定よりもかなり早かった。
ただ、いわきの実家を起点にして、義父母の留吉や雅子と会うのは、バツが悪かった。しかもいわき経由だと本来のルートに比べてかなり遠回りになったので、待ち合わせ場所は最寄りのJR泉駅へ変更を、仁美にお願いした。
9月18日の日曜の朝、宇都宮を出発し、常磐道でいわきへ向かい、10時に泉駅前で仁美と合流した。
途中の南相馬のサービスエリアでランチを済ませ、福島市内の農園カフェで名物の桃パフェを堪能してから、17時に飯坂温泉の老舗旅館にチェックインした。
仲居さんに案内されたのは、客室露天風呂付きの特別室だった。
学生結婚の上、授かり婚だったため、新婚旅行らしい旅行はできなかった。最後の旅行くらいは、と少々奮発し、仁美の希望を最優先にした。
特別室は12畳の和室にキングサイズのツインベッド。これまで行った温泉旅行で一番広く、最高級の部屋だった。
客室の露天風呂は4,5人が入れるくらいの大きな檜の樽風呂で、眼下に川が流れ、眺望も抜群だった。
早速、二人で露天風呂に入った。
仁美と一緒に温泉に浸かるのは、三重転勤が解かれた2013年以来、9年ぶりだった。
湯煙の向こうに夕暮れの川面が光り、せせらぎが響いている。
これ以上ない贅沢な空間のはずなのに、樽風呂の中で保たれた僕と仁美の距離は、実際の何倍も遠く感じられた。
すると仁美が少しずつ近づいてきて、やがて肩が触れた。
「パパの温もり、久しぶり……」
浮気発覚後、関係修復のために僕から何度もスキンシップを求めたが、年に一、二回しか応じてもらえなかった。そのため直近の二年間は誘うことすら諦めていた。
「ねぇ……ハグして…」
仁美から求めてきたのは、18年ぶりだった。
「うん…いいよ…」
口ではそう応じながらも、私の心は驚くほど冷めていた。
差し出された仁美の身体を抱き寄せた瞬間、かつて愛おしいと感じていたはずの仁美の香りが、どこか見知らぬ他人のもののように余所余所しく感じられた。
脳裏に「今さら何なんだ?」という冷ややかな声が響いた。
だが、ここで仁美の機嫌を損ねては、最後の旅行が台無しになる。
3年ぶりに仁美を抱き寄せた。
「もう、これが最後なのね……」
「離婚してもゼロからやり直したい気持ちがあるなら、友達から始められるよ」
「ホントに?」
「仁美の気持ち次第だよ」
調停離婚を宣告した時とほぼ同じセリフだった。違うのは「やり直し」に否定的だった仁美の反応が、懐疑的になったくらい。
ただ、覚えていないのか、信じていないのか、わからなかった。
今回の離婚は、婚姻関係を一度リセットし、過去の全てを清算した上で、普通の友達からやり直すための、前提条件だった。
離婚はこれまでの関係の終点であると同時に、新たな関係の出発点でもある。それができるかどうかは、すべて仁美次第だった。
しばらく露天風呂で寛いだあと、宴会場に向かった。夕食では豪華な鮑の酒蒸しや新鮮な刺身が並んだ。
かつてなら手を叩いて喜んだであろう仁美は、ワインのグラスを揺らしながら、どこか虚ろな目で微笑んでいた。
僕は生ビールの後に冷酒を頼み、仁美はワイン1杯でほろ酔いになった。
部屋に戻ってからは、和やかに昔話に花を咲かせた。いつもは仁美から不快な記憶ばかりをぶつけられていたが、この夜だけは二人でいい思い出の欠片を一生懸命かき集めた。
そして21時、早めに床に就いた。
キングサイズのベッドに、それぞれ分かれて横になった。
すると一時間後、仁美が隣のベッドから潜り込んできたので、目を覚ました。
「どうしたの?」
「最後の夜だから、パパの温もりをもっと感じたい」
求めに応じて再びハグすると、突然仁美が唇にキスをしてきた。
意表を突かれ、咄嗟に身を引いた。
「ダメ?」
仁美が上目遣いで、目をウルウルさせていた。
ここで一線を越えてしまえば、これまでの決意がなし崩しになる。
情に流されてはならない。
「……ごめん。これ以上はできないよ」
私は静かに、しかしはっきりと首を振った。
仁美は涙をボロボロ零しながら
「わかったわ」
と、声を震わせながら言葉を絞り出し、きつく抱きしめてきた。
これが演技でなく仁美の本心だとしても、また何か気に入らないことがあれば、手のひらを返して喚き散らすのはわかっていた。
だから僕の下半身はピクリとも反応しなかった。
外では川のせせらぎと、露天風呂のお湯が織りなす平和なハーモニーが、秋の夜長に静かに流れ、仁美をハグしたまま夜が明けた。
第1章はこちらから
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