40年間の末路 第29章 車ドロボー ドキュメンタリー小説|自叙伝|50代
真那は出産後1週間で退院したものの、体力の回復が遅かった。乳腺炎を起こし、倦怠感がひどく、車を運転して通院や買い物に行くのもままならなかった。
真那の車は大きなSUV車だったため、
「軽じゃないと乗れない」
と、仁美はゴネた。
そこで僕の軽ワゴン車と真那のSUV車を一時的に交換することにして、自動車保険も本人限定から本人・配偶者限定へ一部契約を変更した。
そして仁美が僕の軽ワゴンで、真那の買い物や通院に付き合うことにした。
双子の孫たちが退院する前の、4月30日の土曜日、真那と旦那は長男を連れて、車で十分ほどの旦那の実家に出かけた。
真那家族が出かける直前、仁美は近所を散歩していた。
帰宅すると、旦那の車はあるが、軽ワゴン車がなかった。
普通なら、真那たちに「車乗って行った?」と連絡を入れるか、旦那の車が残っているので、すぐに気づくはずだ。
だが、仁美はスマホを取り出すことすらしなかった。
当時の仁美の脳内は違った。
「私に無断で、私の車を盗んだ」
仁美の中では『想定外の行為=悪意を持った攻撃』へと瞬時に変換されてしまうのだ。
カチリと音を立てて、歪んだ被害妄想のスイッチが入った瞬間だった。
三十分ほどで真那一家が帰宅し、玄関を開けた瞬間、仁美が真那に詰め寄った。
「なんで旦那の車で行かなかったの?!」
「近いし、小回りが利くから旦那が軽ワゴン車に乗りたいって……」
「だから黙って勝手に乗って行ったのね。それってドロボーと一緒でしょ」
「勝手に車使ってごめんなさい」
真那は、抱いていた長男を落としそうになるほど両腕を震わせながら謝罪した。
「ごめんで済んだら警察は要らないわよ。通報するからね」
「もう二度と乗らないから赦して……」
産後の肥立ちが悪く、ただでさえ青白い真那の顔が、恐怖でさらにワッと強張り、過呼吸寸前の荒い息が、静まり返った玄関に響いた。
そして真那が涙ながらに謝り、その日はどうにか収まったように見えた。
だが夜になっても仁美の怒りは冷めなかった。一睡もしないまま朝を迎えた。
日曜日の朝、真那の旦那が犬の散歩から戻ると、玄関先で仁美が待ち構えていた。
「あんたが娘を騙して車を盗んだのね」
「借りたつもりで、盗む気はなかったです」
「黙って借りたんじゃ、盗んだのと同じでしょ?
盗んだ後で元に戻せば警察も許してくれると思ってるの?」
「お義母さん、本当にごめんなさい」
真那の旦那も、軽い気持ちで身内の車を借りただけで『警察』や『ドロボー』という言葉が飛び出すとは思わず、完全にすくみ上がっていた。
「もうこんなドロボー家族とは絶交よ!」
二人の騒ぎを聞いて、真那が二階から降りてきた。
「ママ、止めて。今はママの協力が必要なの。
車の件は謝るから赦して」
真那は泣きながら懇願しても、仁美は振り上げた拳を下ろさなかった。
「こんなに協力してあげてるのに、なんで私を傷つけるの?」
と、言い捨てて、仁美は真那の家を飛び出した。最寄り駅まで歩き、電車とバスを乗り継いで宇都宮のアパートへ戻った。
真那から電話が来たのは、仁美がアパートに着く直前だった。経緯を聞き終えると同時に、アパートのチャイムが鳴った。ドアを開けると、目が血走った仁美が立っていた。
「どうしたの、そんな顔して」
「聞いてよ。真那たちが車を盗んだの!」
「その件はさっき真那から聞いた。謝ったんでしょ」
「あんな謝り方じゃ全然ダメよ。絶対に警察に通報してやる」
「そもそも真那達は自動車保険の対象外だったので、
事故なく帰宅できて良かった。
それに軽ワゴン車は僕の車で、仁美の車じゃない。
だから二度と乗らないよう注意すれば終わりでしょ?」
「それじゃ私の気持ちが収まらないわよ」
「それに来週には双子たちが退院したら、
真那たちはもっと大変になるから、
仁美の助けが必要なんだよ」
「そんなの知らないわ!真那たちのせいよ!」
どれだけ正攻法で説明しても、仁美の怒りは収まらなかった。
しかし仁美が一向に通報する気配がないので、最寄りの警察署に先に相談に行くと、
「家族間では刑法上の窃盗は成立しません。
そもそも実害もないので、民法上も難しいでしょう」
と警察官に言われた。
帰宅して警察の言葉をそのまま伝えると、仁美は反省するどころか、妙にギラついた目でこう切り返した。
「つまり、家族のお金を盗んでも罪には問われないのね?」
——一瞬にして背筋に、氷水を流し込まれたような戦慄が走った。
車の話が、なぜか唐突にお金の話へとすり替わっている。論点がずれているとかそういうレベルではない。
彼女の歪んだ思考回路の前に、僕が用意した法律や正論は、何の意味もなさなかった。
目の前にいるのが長年連れ添った妻ではなく、全く言葉の通じない未知の怪物のように思えて、僕はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
結局、翌日の月曜日に僕がSUV車に乗って真那の家まで行き、事情を説明しながら、真那家族に謝罪した。そして仁美の荷物を、軽ワゴン車に乗せて宇都宮に戻った。
その後、仁美は双子と一度も対面しないまま、真那家族との縁を、自ら断ち切り、現在に至っている。
たかが車一台、30分無断で使われたくらいで、産後の体が回復しきらない娘の家を飛び出して、仁美の役割を放棄したのは常軌を逸している。
車泥棒と言いがかりをつけ、謝り方が悪いと、激怒する仁美は母親としても人としても、明らかに精神的に尋常ではなかった。
第1章はこちらから
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