バンコク、五感に響く食の冒険 その6
ミシュランの名店より心に響いたのは、生活の匂いが漂う街角の味。効率的な旅の果てに、かつての冒険心を呼び覚ましてくれた
40年前の放浪時代から通い続けるバンコクのMBK。家族との思い出が詰まったこの場所で、娘に受け継がれた旅人の矜持を再確認
➔ 『バンコク、五感を高める食の冒険 その5』 はコチラ
バンコク、五感に響く食の冒険 その6
朝8時ドンムアン発のエアアジア。
沖縄への早朝便を利用するため、最終日は空港近くのリムジンサービスがあるホテルに泊まるのが、ここ3年ほどの恒例となっていた。
慌ただしいバンコク市内とは異なり、このドンムアン界隈には地方特有、のんびりとした空気が流れている。
排気ガスと熱気に混じって、どこからか漂ってくる生活の匂い。それらが、旅の終わりが近づいていることを告げていた。
旅の締めくくりに選んだのは、宿の近くにある一軒の食堂だった。
同じような佇まいの店が数軒並ぶ中、何の予備知識もなく、ただふたりの勘だけを頼りに入った店。
年季の入った壁に、色褪せた料理の写真が所狭しと貼られている。

椅子を引き、席に着く。情報という先入観を捨て、自分の嗅覚だけを信じてみる。ただそれだけで、どこか心地よい解放感があった。
独身だった頃、私は一円でも安くを生きがいに世界を彷徨ったバックパッカーだった。
エアコンのない安宿で蚊に刺され、出てくるまで何だか分からない料理を恐る恐る口に運ぶ。そんな予測不能な日々が日常だった。
いつからか、「せっかくの旅だから」と星の数やレビューばかりに目移りするようになっていた。
今回の旅でも、バンコク市内のミシュラン・ビブグルマンの名店を巡り、洗練された空間で期待通りの美味しさを享受した。
けれど、それは本来の「冒険」とは程遠いものだったのかもしれない。
氷で薄まるビールと、ありのままのタイ
小柄なおばさんがテキパキと注文を取り、手際よく料理を仕上げていく。
厨房からは中華鍋とお玉が激しくぶつかり合う「カン、カン!」という乾いた音が響く。
それは、この小さな食堂をか細い腕で支え続けてきた生活の音そのものだった。
ビールを頼めば、何も言わずとも金属製の小さいバケツに入った氷が出てくる。
グラスに注いだビールはあっという間に結露し、大粒の水滴が指を伝ってテーブルへと滴り落ちていく。
時間が経つにつれて氷が溶け、氷で薄まっていく。

店の奥では、おじいさんが1歳ほどの子供をあやしていた。
若い女性客がその可愛いらしさに抱き上げようとするが、子供は今にも泣き出しそうな顔をしておじいさんの胸に顔を埋める。
その内、店が忙しくなるに連れ、その子のお母さんも出てきて厨房を手伝う。
そんな光景を目にして、テーブルを埋める客たちの間に自然と笑顔が広がる。
会話はなくとも、そこに流れる穏やかな空気だけで、料理が運ばれる前からすっかり満たされてしまった。
「辛いな」
運ばれてきた「空芯菜炒め」を口にして私が呟くと、元妻は「それがタイでしょ」と短く返し、氷で薄まったビールを喉に流し込んだ。
あの頃、まだ地図も持たずに彷徨っていた感覚が鮮明に蘇ってきた。
想像以上の激辛料理に大汗をかきながら悶絶した、あの「正解のない味」。
忘れていた旅の原風景が、目の前の元妻の笑顔と、この店の空気によってゆっくりと手繰り寄せられていく。
湯気とともに立ち上るのは、ナンプラーのコクとニンニクの強烈な香り。

市内の観光客向けのマイルドな味とは一線を画す、真っ赤な唐辛子の容赦ない刺激。
痛烈に舌を焼くその辛さは、自分の中で眠っていた「タイ」を強烈に呼び覚ました。
おじいさんのあやす声、鍋の音、トゥクトゥクの排気音。そこに漂う生活感のすべてが、ミシュランの星では決して味わえない、ありのままのタイを完成させていた。
運ばれてくる皿を、ただ黙々と口に運ぶ。特別な会話などいらなかった。
店を包むほのぼのとした空気と、飾らない料理の味が、五感の隅々まで満たしていく。


ただの旅人に戻れた場所
「こういうので良かったんだよね、結局」
元妻がグラスの水滴を指で拭いながら呟いた。
効率や情報を確認するだけの旅の終わりで、ようやく「ただの旅人」に戻れた気がした。
最後の一口を飲み込み、ビールで流し込む。喉を通る感覚とともに、胸の奥に溜まっていた「正解探し・確認の旅」の疲れが、すっと消えていった。
店を出ると、湿った夜風が頬を撫でた。 情報に流され、失敗を恐れる旅はもう終わりにしよう。
次にどこかへ行く時は、またあの頃のように歩き出してみようか。
宿へと続く夜道を歩きながら、ふたりは心地よい余韻の中にいた。
タイを出国する直前、最後の最後に、本当の旅の感触が、確かにそこにはあった。

バンコクの下町、このホテルを拠点にビールと食の冒険へ!
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