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#28「出雲神話のかたち」 続・高天原から見た出雲神話⑤ ー国譲りとは何だったのか <異説・国譲り>ー

 正直に告白すると、これまで国譲りについてはあまり関心をもってこなかった。出雲生まれ出雲育ちなもので、敗者が国譲りを語るのもどうかと思っていた。

敗者黙して語らず・・・

 しかし、こうやって出雲神話について考えてきて、文章の形にしようと思ったとき、やはり国譲りについて語らないのは片手落ちのような気がしてきた。そして調べていくうちに、これまで国譲りについて語られてきた以外の方法から、新たに国譲りについて語ることもできるのではと考えるに至った。よってここからはあくまで異説・国譲りとして読んでもらえればと思う。

「異説・国譲り」

 前回と前々回で国譲りに関する疑問のようなものを並べ立てた。

 これまで国譲りは2つの視点から語られてきたように思う。ひとつは古事記を譜面通りに読み、少々の争い(タケミナカタの抵抗)はあるものの平和裏のうちに国が譲られたという点。もうひとつは弥生時代の遺跡が痕跡を残すように、国譲りは各地で様々な抗争の後、高天原が葦原中つ国を平定したという点。大まかにこの2点から国譲りは論じられてきた。
 
 まず、ひとつめの平和裏の国譲りは誰もが疑問を抱いても不思議はないだろう。もし、平和裏に国譲りが行われたとしたら、のちの天孫降臨以降、再び各地を征伐していった物語は成り立たないはずである。

 これまで考察した限り、高天原の目的は昔のような交易交換比率に戻すこと、それはいいかえれば大国主命が創り上げた遠距離交易ネットワークの破壊が目的だったといえる。ということであれば、各地の勢力はそのまま残っていたことになるので、後に各地の勢力を一つ一つ潰していかないといけなかったと考えることもできる。しかし、それでは出雲だけが簡単に平和裏に国譲りを受け入れたというのは考えられないのではないか。また、そうなるともう一つの論点である抗争の末に国譲りがなったというのもおかしい。国譲りが終わったのちに、もう一度国譲りを行うようなものである。

 そこでいよいよ、それとは別の国譲りについて考察していきたい。そのためには古事記の事代主命の最後と天孫降臨の場所が鍵となる。

 高天原から遣わされた武御雷命は大国主命に国譲りを迫った。しかし、加茂岩倉遺跡から考察した結果、実際は既に大国主命は亡くなっていた可能性がある(よって国譲りより以前に、弥生時代に大国主命の神殿は建築されていたことになる)。

 それはさておき、武御雷命が事代主命に国譲りを迫ったところから始めよう。事代主命は国譲りを受諾し、自らは海底に身を隠したことになっている。弥生時代の世界観からいうと、事代主命は「常世の国」へいったことになる。

 しかしながら古事記にはどこにも事代主命が「常世の国」へ行ったとは書かれていない。これまで考察してきた限り、「常世の国」へ行くにも儀式のようなものが必要だったことが分かる。すると、その儀式は行われなかったということになる。加茂岩倉遺跡の銅鐸と同様、その儀式でさえ中断されなければいけなかったのだろうか。それはなぜだろう。

 次に話は移って天孫降臨の場面である。ここで武御雷命が葦原中つ国を平定したことを受けて、アマテラスとタカギムスビ神はアメノオシホミミを任命し、葦原中つ国を統治するように命令する。ところがアメノオシホミミはその命令を辞退する。というのも葦原中つ国の平定に手間取っている間に自分は老いてしまったと説明する。そこでかわりに自分の息子である邇邇芸命を任命するようお願いする。そして天孫降臨の場面、邇邇芸命の天下りとなる。

 邇邇芸命はいきなり「日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くじふるたけ)」に降り立つ。 高天原が朝鮮南部の海岸付近であることは以前に述べた。

 そのことを考える時、なぜ邇邇芸命は北部九州を拠点としなかったのかが大きな疑問である。少なくとも葦原中つ国を治めるなら、せめて豊後(大分県)のほうがまだ適当だったのではなかろうか。それなのにさらに九州南部に位置する高千穂を拠点としたのには何故であろうか。

 この事代主命の最後と天孫降臨の場租の2点を踏まえて、古事記のタケミナカタ、加茂岩倉遺跡、大岩山遺跡と中畑・古里遺跡、妻木晩田遺跡を考えたときに、一つの仮説が浮かび上がってくる。それは・・・


「ひょっとして弥生時代の加茂岩倉遺跡の祭祀が途絶えた時期に、大きな地震と津波が日本海側で起こったのではないか」


 これは東日本大震災を経験した今だからこそ考察できたことでもある。もし弥生時代の遠距離交易集団ネットワークがあのような地震と津波に襲われたとしたら、ひとたまりもなかったであろうことは予想できる。日本は地震列島であるから、毎年どこかで地震が発生し、十年に一度の大地震、さらには百年に一度の大震災に見舞われる。

 こう考えると、事代主命の最後や邇邇芸命の天孫降臨場所の説明がつく。地震と津波によって日本海側の遠距離交易は壊滅的な打撃を受けた。そのため助かった者たちは高台の丘陵地に環濠集落を築かなければならなかった。そして地震と津波の影響を受けなかった近畿を中心に大型銅鐸は発展していった。さらに、これでタケミナカタが諏訪で生き延びた神話の理由も説明できるのではなかろうか。武御雷命には誠に申し訳ないが、実際の国譲りというのはそういうものだった気がする。

 今後、弥生時代のある特定の時期に日本海側で大きな地震があったかどうか、地質学の観点から調べてもらいたいものである。


【あとがき】

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