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#27「出雲神話のかたち」 続・高天原から見た出雲神話④ ー国譲りとは何だったのか <遺跡についての疑問>ー

 出雲神話を調べていくと、どうやらこの神話は縄文時代以前のものではなく、少なくとも縄文後期、もっと大胆に言えば弥生時代から始まった物語のように思える。もちろん、出雲神話から調べているので間違っている可能性もある。だから出雲神話を出雲の中から眺めてみるという限定的な視点でのみ語っていると思っていただきたい。

 出雲神話、その中でも特に大国主命の物語は弥生時代の出来事であったとこれまで考察してきた。その中でも加茂岩倉遺跡の銅鐸群は大国主命の国造りに大きく関係していたと考えた。

加茂岩倉遺跡

 加茂岩倉遺跡の祭祀はこれまで考えてきた限り、唐突に終焉を迎えた感がある。加茂岩倉遺跡を訪れた人々なら誰でも、銅鐸群のすぐ傍に銅鐸群と同じくらいの大きさの穴が掘られていたことに気付く。それは次に行うはずであった祭祀跡のように見える。しかし、その場所は二度と祀られることがなかった。何故なのであろう? それが国譲りの一つの光景を示しているのであろうか。

大岩山遺跡と中畑・古里遺跡

滋賀県野洲(やす)市は、日本最大級の銅鐸が出土した大岩山遺跡や、県内最古・最大級の弥生時代の大型建物跡が見つかった中畑・古里(なかはた・ふるさと)遺跡など、古代の祭祀や社会の発展を物語る重要な遺跡が数多く残る地域です。
野洲市における主な弥生時代の遺跡と注目すべきポイントは以下の通りです。

1. 中畑・古里遺跡(なかはた・ふるさと遺跡)
発見されたもの
: 弥生時代中期末~後期初頭(約2000年前)の大型掘立柱建物跡。
規模と重要性: 長辺約18m、短辺約7m(床面積約126平方メートル)で滋賀県内で最古かつ最大級の規模です。近畿地方でも最大級の大きさを誇ります。
祭祀空間: 一般的な集落から離れた場所で見つかっており、壺などが入った穴(祭祀土坑)も出土していることから、神聖な祭祀の場だったと考えられています。
詳細情報: 発掘調査の詳細は、滋賀県文化財保護協会の公式ページなどで確認できます。

2. 大岩山遺跡(おおいわやまいせき)銅鐸の出土: 野洲市の大岩山からは、日本最大の銅鐸を含む多くの銅鐸が発見されています(出土数は島根県に次ぐ全国第2位規模)。
古代の聖地: 大岩山一帯は古墳の宝庫でもあり、弥生時代から古墳時代にかけて祭祀の拠点だったとされています。

野洲川の下流域一帯(守山市や野洲市周辺)は、日本の稲作の黎明期における遺跡(野洲川遺跡群)が数多く集中している歴史的に非常に重要なエリアです。

AI参照


 「古事記」によると国譲りの際、タケミナカタは諏訪から出ないことを条件に助命を許された。日本海側から見て、諏訪地方と同様、この野洲地方も日本海から離れた琵琶湖南岸に位置する。日本海側では野洲に見られるような大型の銅鐸祭祀は行われず、大型銅鐸祭祀は近畿地方を中心に広がっていった。なぜ、日本海側でも銅鐸祭祀は巨大化しなかったのであろう。これも国譲りが関係しているのであろうか? 

妻木晩田遺跡

 最後は鳥取県の妻木晩田遺跡である。

 妻木晩田遺跡は標高90~120mの丘陵に築かれた弥生時代の大規模高地性集落である。この場所は弥生時代後期から古墳時代初頭まで利用されていたという。大山の麓にあることから古代出雲の重要な交易拠点だったのではとも言われている。さて、この遺跡の不思議なところは誰が見てもわかるように高地に環濠が築かれている点にある。弥生時代には環濠集落が次々と作られていった。

環濠集落(かんごうしゅうらく)とは、集落の周囲に濠(ほり)をめぐらせた日本の伝統的な集落形態です。外敵からの防衛や保水・灌漑、洪水対策などを目的に、主に弥生時代から中世・戦国時代にかけて全国各地で形成されました。

環濠集落の歴史と主な目的
弥生時代
:水稲農耕の普及とともに大陸から伝わりました。収穫物や水資源をめぐるムラ同士の争いから身を守るため、防御施設として発展しました。
中世・戦国時代:土豪や農民たちが自衛のため、また洪水対策や農業用水の確保を目的に濠をめぐらせました。現在も奈良盆地や大阪周辺など、近畿地方に多くの面影を残しています。

代表的な遺跡と見学スポット【弥生時代の代表例】吉野ヶ里遺跡(佐賀県)
日本最大級の規模を誇る弥生時代の環濠集落跡です。二重・三重の濠や逆茂木(さかもぎ)などの防御遺構が復元・整備されています。
【弥生時代の代表例】池上曽根遺跡(大阪府泉大津市・和泉市)
弥生時代の巨大な掘立柱建物や環濠が見つかっている日本最大級の遺跡です。

AIより

 妻木晩田遺跡を語るときに、まず初めに語られるのが弥生時代後期の戦乱についてである。それは国譲りとの関係で語られることも多い。妻木晩田遺跡が丘陵地に築かれたのは外敵からの防衛のためであるということである。はたしてそうであろうか。防衛のためであれば、何も海岸付近に大きな集落を築かなくても、もっとほかに地形を利用した方法がいくらでもあった気がする。例えば、「出雲国風土記」にある大国主命の生活拠点とされていた三屋郷でさえ、妻木晩田遺跡と比べ、地形的に合理的な防御機能を有しているように思える。

『出雲国風土記』には、雲南市にある「三刀屋(みとや)」という地名の由来として、大国主命(おおくにぬしのみこと)の御門(みと・神の家)がここにあったことが記録されています。現在は由緒ある三屋神社としてその歴史を今に伝えています。

風土記に記載されている具体的な情報は次のとおりです。
地名の由来
風土記の中では、この地は「三刀矢(みとや)」という漢字で書かれていました。「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)=大国主命の御門(門や宮殿)がここにある。ゆえに三刀矢という」と地名の由来が解説されています。
三屋郷(みとやのさと)
かつての出雲国飯石郡(いいしぐん)にあった郷(村)の名前です。現在の島根県雲南市三刀屋町三刀屋周辺にあたります。

このように、みとやの地は古代から神話と深い結びつきを持つ場所として知られています。

AIより

 はたして妻木晩田遺跡は国譲りと関係しているのであろうか。それとも何か別の要因が働いて、このような高地性集落を築くことになったのであろうか。

 それではいよいよ次回は、今回と前回を合わせて(あくまで)自分なりに考えた国譲りについて考察していきたい。


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