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雑談 同じ部屋にある二つの椅子 アメリカでは 前編

薩摩英国留学生とお雇い外国人のシリーズで、トーマス・グラバーを取り上げた回がある。長崎で商会を構えた男が、晩年、鹿児島の川で釣り糸を垂れていたという話を、フライフィッシングの記述とともに書いた。

書いているうちに、ふとあの映画を思い出した。『リバー・ランズ・スルー・イット』。ロバート・レッドフォードが監督した1992年の作品である。
久しぶりに見直したくなって、配信サービスを立ち上げた。検索窓に題名を入れたが、提供されていない。
仕方なく画面を閉じようとしたところで、「あなたへのおすすめ」の欄に別の映画が並んでいるのが目に入った。『モーターサイクル・ダイアリーズ』。2004年公開、若き日のエルネスト・チェ・ゲバラが南米を旅した実話を描いた作品だ。そういえば、この映画の製作総指揮もロバート・レッドフォードだった。

ゲバラについては、以前別のコラムで一度書いたことがある。フライフィッシングからレッドフォードへ、レッドフォードからゲバラへ。観ようとした映画は観られず、観ようとしなかった映画の方に呼び戻された。

ロバート・レッドフォードは昨年、二〇二五年九月十六日、ユタ州サンダンスの自宅で亡くなった。八十九歳だった。半世紀かけて自分が育てた山中の村、自身の名と結びついた独立映画祭の本拠地で、静かに息を引き取ったという。
ほぼ同世代の俳優兼監督に、クリント・イーストウッドがいる。一九三〇年生まれ。レッドフォードより六歳上で、今年九十六になる。しかし彼はまだ撮影所に通っている。新作のプリプロダクションに入っていると報じられた折、「年を取れば腕が落ちる監督もいるが、自分はそうではない」と語っていた。
二人はどちらもカリフォルニア生まれで、俳優として頂点に立ち、その後監督業に移り、長く映画界の真ん中にい続けた人だ。世代も近く、互いを友人と呼んでいた。しかし、映画への向き合い方、人生の重心の置き方は、見事に逆向きだった。
アメリカという国に二脚の椅子があるとして、イーストウッドは中心の椅子に最初から座っていて、一度も降りなかった人である。レッドフォードはその椅子があることを知ったうえで、わざわざ少し離れた所にもう一つ別の場を作り、自分はそこに移った人である。
同じ職業、同じ世代、同じ国、しかしアメリカのどこに座るかが違った。

クリント・イーストウッドが俳優として世に出たのは、一九五〇年代末のテレビ西部劇『ローハイド』だった。馬の上で牛を追う若者の役。世界中の家庭の小さな画面の中で、彼は最初から「アメリカの男」の典型として登場した。一九六〇年代にはセルジオ・レオーネのドル箱三部作で「名無しの男」を演じ、葉巻をくわえ、目を細めて銃を抜いた。一九七一年からの『ダーティハリー』シリーズでは、ルールを無視してでも犯人を撃つ刑事を演じた。アメリカの中心線にある椅子に、彼は最初から座っていた。
転回点があるとすれば、一九九二年の『許されざる者』だろう。長年カウボーイを演じてきた本人が、カウボーイ映画の終わりを撮った。賞金稼ぎだった老人がもう一度銃を取り、その代償として自分自身を取り戻せなくなる物語。撃つ側の罪を、撃つ側だった監督が描いた。アカデミー作品賞と監督賞を獲った。中心の椅子に座ったまま、椅子の脚の組み方を分解してみせた最初の作品だ。
それ以降の彼の監督作は、若い頃に演じてきた像への返答として並んでいる。『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』では、アメリカの戦争を加害と被害の両側から撮った。『ミリオンダラー・ベイビー』では強さを引き継いだ後の罪を、『チェンジリング』では制度の暴力を、『アメリカン・スナイパー』では英雄の家族が払う代償を撮った。「アメリカの男」を体現してきた本人だからこそ、その代償を撮る権利を持っていた。外から批判する評論ではなく、内側に座ったまま脚を点検する作業だった。
そして晩年、彼の関心は戦場や法廷を離れ、もっと小さい単位,家庭に降りてくる。
『グラン・トリノ』の頑なな退役軍人。妻に先立たれ、息子たちとは口を利かず、近所のモン族の少年に親代わりのような距離で寄り添い、最後は彼を守るために自分を差し出す。『人生の特等席』の老スカウト。視力が衰えはじめても球場に通い続け、長らく疎遠だった娘が同行することで、ようやく親子の何かが繋ぎ直される。『運び屋』に至っては、家族をないがしろにし続けた九十歳の老人が、麻薬の運び屋に身を落とすことで、ようやく自分が逃げてきたものに向き合う。
これらの映画は、若い頃のダーティハリーや名無しの男の延長線上にいる男たちが、年老いて家族の中で失敗してきた事実に直面する話である。撃つ男、強い男、口の少ない男のその像をそのまま生かしながら、しかし家庭ではそれが通用しなかった、と認める方向に話を運んでいる。
椅子は変わっていない。座っている男が老いて、椅子に座り続けた結果としての自分を、ようやく正面から見るようになった、というだけだ。
イーストウッド自身も、その椅子から降りようとはしない。九十五歳になった今もカリフォルニアの撮影所を回り、新作の準備に入っている。一本の映画にかける撮影日数は短く、リハーサルはほぼ無く、テイクは一回か二回で済ますことが多いと言われる。同じスタッフと長年組み続け、その日のうちに帰る。撮るという行為そのものを生活のリズムにしてしまっている人の働き方だ。
彼にとって映画製作は、特別な催事ではなく日常の継続であり、椅子に座り続けることそのものなのだろう。


ロバート・レッドフォードは、ハリウッド黄金期の最後を飾る二枚目俳優として登場した。一九六九年の『明日に向かって撃て』で世界に名前が知られ、その後の『スティング』『追憶』『大統領の陰謀』『華麗なるギャツビー』などで、輝く金髪と整った顔立ちの「アメリカの良心」のような存在感を作り上げた。アメリカの中心の椅子に最初から座る権利を持っていた、と言っていい。彼自身、その状態を「ある日突然ハンサムだと言われるようになって戸惑った」と振り返っている。子供の頃はくしゃくしゃの赤毛にそばかすで、ハンサムだと言ってくれる人など一人もいなかったのだという。
転回点は、一九八〇年の『普通の人々』だった。俳優としてピークにいた彼が、初の監督作として選んだのは、息子を事故で失った家族が壊れたまま元に戻らない、という地味な物語だった。アカデミー作品賞と監督賞を獲った。中心の椅子から横にずれて、家族の小さな部屋を撮ることを選んだ最初の作品である。

それ以降の監督作は、いずれも家庭や個人の静かな崩壊と再生を扱った作品が並ぶ。『リバー・ランズ・スルー・イット』『モンタナの風に吹かれて』『クイズ・ショウ』。声高に主張する映画ではなく、川辺で、牧場で、地味な日常の中で何かがゆっくり修復されていく類の話である。本数は監督として九本ほどで、寡作の部類に入る。
なぜ寡作だったか。理由は彼自身が語っている。残りの時間が、彼の場合は別の場所に注がれていたのだ。


一九八一年、レッドフォードはユタ州サンダンスにサンダンス・インスティテュートを設立する。独立系映画作家のために、企画から完成までを伴走する仕組みだった。一九八五年にはユタ州の地方映画祭を引き取り、サンダンス映画祭として育てた。これは、自分が監督として撮るのではなく、ほかの作り手たちが自分の映画を撮ることのできる場を作る、という仕事である。彼は自分のキャリアを「俳優・監督」と「映画祭主催者」の二本柱と明言しており、後者を本業の片手間ではなく、対等の比重で語っている。
設立の動機を、彼はあるインタビューでこう語っている。「私は幸運にも、チャンスを貰うことができたが、そうした幸運に巡りあっていない人たちに、たくさん会った。それで、彼らが自分たちの物語を伝えることができる場所を生み出すことができないだろうか、と考えた」。
なぜそこまでするのか、という問いに、彼はもう一つ、子供時代の話でも答えている。学校の机の下で隠れて絵を描いていた少年だった彼を、ある日先生が見つけた。叱られると思ったその時、先生は彼に絵を見せなさいと言い、そのあと「取引をしない?」と申し出た。授業に集中するなら、毎週水曜日にイーゼルと新聞を用意してあげる、思いついたことを描いて発表しなさい、と。彼はこれを「人生のターニングポイント」と振り返っている。
サンダンスは、この先生の取引を、制度として拡大して再現したものに見える。場を用意して、新聞紙を渡して、発表させる。机の下に隠れていた才能を、誰かが見て、椅子に立たせてくれる。レッドフォードは、自分が一度受け取った構造を、別の場所で別の人々に手渡し続けた。

晩年、彼は俳優としては二〇一八年の『さらば愛しきアウトロー』で引退を宣言した。しかし監督作だけでなく、製作総指揮として他の作り手の映画を支える仕事は続いた。二〇〇四年の『モーターサイクル・ダイアリーズ』、二〇一九年の『ザ・マスタング』。これらは彼の名前が前面に出てくる映画ではない。クレジットを丁寧に読まないと気づかないような位置に、彼の名はある。撮らなくなった後も、撮らせる側に回り続けたのだ。
二〇二五年九月、ユタ州サンダンスの自宅で彼は亡くなった。撮影所ではなく、自分が作った場の中で、ということになる。

長くなったので続きはまた。

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