薩摩英国留学生からお雇い外国人へ 番外編フライフィッシング
川は流れて グラバーを再び
グラバーの稿を書いていて、ある一行に手が止まった。
日本にフライフィッシングを伝えたのは、彼だという説がある。
それで思い出したのは、釣りの話ではなかった。
ロバート・レッドフォードの映画である。
『リバー・ランズ・スルー・イット』。
一九九二年、若き日のブラッド・ピット。
あの映画の釣りの場面は、釣りをしない人間にこそ響く。
スポーツとしての釣りでも、魚を得るための釣りでもない、
少し違う次元で撮られている。
モンタナの川、斜めに差し込む光、空中で弧を描くライン。
あの数分間だけで、
フライフィッシングが何か神聖な営みのように見えてくる。
原作はノーマン・マクリーンの自伝的中編。
冒頭の一文がよく知られている。
「我が家では、宗教とフライフィッシングのあいだに明確な区別はなかった」
長老派の牧師だった父が、息子たちに聖書と同じくらいの真剣さで毛鉤の振り方を教えた、という話だ。
スコットランドの長老派の土地で育った男が、アジアの湖で毛鉤を投げる。
グラバーは中禅寺湖の大崎に別荘を建てた。
コロラドからカワマスの卵を取り寄せ、湯川に放流した。
日光の山中に、十九世紀末のスコットランドの夏が再現された。
その所作の奥に、ノーマン・マクリーンの父が息子たちに教えたのと同じ種類の静かさが、あったのかもしれない。
親子で並んで湖に立った日があっただろうか。
西六番別荘の建造は一八九三年。倉場富三郎が二十三歳のときである。
アメリカ留学から戻った直後の時期に重なる。
父と並んでラインを振った日があってもおかしくはない。
記録には残っていない。
けれど、なかったとは言い切れない。
父は湖で魚を釣った。
息子は海の魚を描き留めた。
残ったのは二十巻の図譜である。
『日本西部及び南部魚類図譜』。
長崎近海の魚類を、地元の絵師に描かせて編纂した大冊。
学術書としても、博物画としても、今も価値を失わない仕事だ。
水の中の生き物を見つめる、という同じ営みのなかで、
父は釣り上げ、息子は描き留めた。
手に入れる人と、記録する人。
夕食になるものと、書物になるもの。
映画のラストで、老いたノーマンは一人で川に立っている。
弟も父も、もういない。
水の音だけがする。
独白は、こう続く。
「今、私の愛した者はすべて、この川の水に溶けている」
あれは釣りの場面ではない。
失われたものを数え直す時間の場面である。
ここで、もう一つの川が浮かんできた。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、
かつ消えかつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし。
ノーマンの川と、鴨長明の川。
モンタナのブラックフット川と、京の鴨川。
八百年以上の時差と、地球半周の距離を挟んで、同じ川を見ている。
同じ、というのは、両方とも「流れ去るものを見つめる人」の側に立っている川だ、ということだ。
面白いのは、どちらも若い頃の川ではない、ということである。
鴨長明が方丈記を書いたのは五十八歳前後。
京を離れて、日野の山中の方丈の庵で、振り返りながら書いた。
ノーマン・マクリーンが原作を書いたのは七十代。
父も弟もすでに失ったあとの時間だった。
失ったものが多くなってから、水を見る。
失われたものが、水と同じ振る舞いをしていることに気づく。
若いうちは、水は飲むものであり、浴びるものであり、泳ぐものである。
老いてから、水は眺めるものに変わる。
日本の無常と、マクリーンのカルヴァン主義。
教義としては、ずいぶん遠い。
片方は諸行無常、片方は予定説。
人の意志がどこまで及ぶか、という根本のところで反対の立場に近い。
それなのに、川のほとりに立つ老いた男の姿においては、驚くほど近い。
どちらも、自分の意志ではどうにもならないものを前にして、
ただそれを見ている。
抗わず、逃げず、しかし受け入れ切るのでもなく、ただ見る。
長明は「住む人もこれに同じ」と続ける。
水も人も、同じように流れ去る。
ノーマンは「私の愛した者はすべて、この川の水に溶けている」と言う。
愛した者たちも、水と同じになった。
表現は違う。
水の前で人間が取りうる最後の姿勢は、
案外ひとつしかないのかもしれない。
グラバーが中禅寺湖のほとりで釣りをしていたとき、
彼はスコットランドの長老派と、
仏教の国の湖の両方を、身体のどこかに持っていたはずである。
毛鉤を投げるという所作は、たぶんどちらの宗教にも属さない。
ただ水を見て、水に向かって糸を投じる。
魚が来れば釣り、来なければ見つめているだけ。
その時間の中で、無常も予定説も、小さな違いに過ぎなくなる。
長老派の青年として故郷を出た男が、アジアの湖で水を見つめている。
方丈記を読んでいたとは思えないが、
あの時間の質は、鴨長明の庵にあった時間と、
そう遠くないものだったかもしれない。
『リバー・ランズ・スルー・イット』を観た夜から、
いつか自分も毛鉤を振ってみたい、と思った時間がある。
釣果を求める釣りではない。
弟ポールの華麗な釣りでもない。
兄ノーマンの、観察し、引き返し、川の前にただ立っている釣り。
あの兄の側の時間を流れる河辺で過ごしたい。
グラバーが日本にフライフィッシングを伝えたかどうか、
正確な典拠はやや弱い。
けれど、晩年の彼にとって、湖はもう、釣る対象だけではなくなっていた。
それで十分である。
書き始めにあった「フライフィッシングを伝えた男」という素朴な紹介は、
書き終わるころには、別の像に置き換わっている。
武器を売り、船を売り、密航を手配し、
ビールの会社を作り、三菱の顧問になった人物の、
その晩年に残ったのは、湖と毛鉤と、水を眺める時間だった。
息子は海の魚を描き、二十巻を残した。
二人がそれぞれの水のほとりで何を見ていたのかは、
もう、こちらの想像に任されている。
追記。
倉場富三郎の『日本西部及び南部魚類図譜』は、長崎大学に残された後、長く専門家の手の中にあった。
近年、季刊大林の六十三号「漁」のグラビアで、衆鱗図、ブロッホ、シーボルト、ヘッケル、北斎、広重と並んで紹介されているのを見た。
二百年にわたる魚類図譜の系譜の中に、富三郎の二十五年の仕事は、当然のように置かれていた。
シーボルトが長崎で日本人絵師に描かせ、ライデンに送って体系化したものを、半世紀後、日英混血の長崎人が、同じ長崎で、同じ手順で、自分の図譜にまとめた。
オランダ人の博物学者が開いた水路に、もう一度、長崎側から水が流された。
息子の仕事は、孤独な営みではなかった。
父の毛鉤の先にあった水と、
シーボルトが集めた標本と、
北斎が粗削りに描いた銚子の波と、
同じ系譜の上に置かれていた、ということだけが、後になって分かる。
今日はここまでで。
『日本西部及び南部魚類図譜』を検索して見つけたページを引用したい。
大林組のコンテンツだ。
https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_63_gravure.html
