見出し画像

30歳、パリから日本への本帰国決意の裏側で|自分がこの世にいてもいい理由を、つくりたかった

この連載は、一度丸ごと私の人生を振り返り、一つの物語に再構築してみようという試みの第18弾です。続きものですが、1記事読切でお楽しみいただけます。

このお話は、今から7年前のこと。1年間のパリでの生活に区切りをつけ、日本へ本帰国する直前に1人で行ったモロッコ旅行でのこと。そこで書き綴った、40ページにも及ぶノートが参考資料として出てきます。たった1週間程度のことだが、異常な量を書いていました。そしてそこには、今の私が大事にしているコアや、ビジョンが、7年前にすでにびっしり。

前回の記事はこちら

物語の最初の記事はこちら


2019年8月31日。30歳、パリ。

DKNY。母から受け継いだワンピース。この街に来た時も、同じワンピースだった。そして今日も、私はこのワンピースを着ている。

パリ5区、プラス・モンジュ。白い壁と、窓から差し込む柔らかな光と、部屋の中央に鎮座する真紅のソファ。30㎡のあのアパルトマンで過ごす、最後の日だった。

部屋中を磨いて、掃除をして、鍵を返した。電気代を差し引いて、お金が返ってくるという。何の問題もなく、あっけないほど事務的に、私のパリの1年は終わった。

"──物を持ちたくないなあ、と思う "

日記にはそう書いてある。家具も、什器も、ラグも、ぜんぶ売るか譲るかした。日本から抱えてきたスーツケース2つ分だけになって、私は驚くほど身軽になった。

パリに来て、もうすぐ1年が経とうとしている。

何が変わった? 何も変わってない気すらする。

──でも、私の言葉をつむぐことで、次に進めていかないといけない。自分の力で。

引き渡しを終えた私は、モロッコへ向かう飛行機を待ちながら、そんなことを書いていた。

──

2019年9月、モロッコ、マラケシュ。18時。

窓の外に、同じ景色が11時間続いていた。

朝7時。正確には6時50分にホステルを出て、8人ほどが詰め込まれた小さなマイクロバスは、まだ走っている。今は18時。クーラーはない。電波もない。10時間以上同じ空間に居続けている。いやというほど汗をかいて、最後には一滴残らず出きったのか、汗まで諦めたようにかかなくなった。乾いた熱が車内にこもって、誰も喋らなくなってから、もうずいぶん経つ。

こんなにバス移動するのは、人生で初めてだった。

膝の上でノートを開いて、私はそう書いた。揺れるので、字が斜めに流れていく。窓の外は、さっきから同じ色の大地が続いている。時間の感覚が、少しずつ溶けていく。

このバスは、砂漠へ向かっている。

──


時間は少し前に遡る。

数日前、マラケシュに降り立った私は、いきなりタクシーでぼられた。盛大に。

楽しみにしていたモロッコ旅なのに、テンションはガタ落ちである。

タクシーに乗り込む前に値段交渉し、合意がなされた。乗り込むまでは友好的だった彼は、車が走り出した瞬間豹変した。中国人だと思われ「金、あるやろ」と言わんばかりに、「君をのせて市内に行ったあと、僕はここまで戻ってこないといけない。だから、取り決めた金額の、往復分のタクシー代をもらうよ」「君はお金がある。僕は貧乏だ。払う義務がある」と、訳のわからん理屈で相場の倍の値段を提示された。誰がそんな理屈納得できるか!と片道しか払えない、そう頑なに主張しても、「いや、市内は遠いんだ。往復分もらわないと困る」の一点張りだ。「遠ないわ!」と思わず怒りを込めて関西弁で言い返す。怒りは伝わるようだ。反撃される。

訳のわからない主張に心底腹が立った。そして、私は市内に着く前に途中で強引におろしてもらうよう伝えた。最初に取り決めた金額だけを押し付けるように支払い、目的地に辿り着いていないのにそれでもぎゃあぎゃあ騒ぐモロッコ人に、あてつけるように車のドアを思い切りガンッと閉めた。そして私は歩いて、ホステルまで向かった。怒りで頭が沸騰してしまいそうだった。

フランスにいても、こんなふうに怒ることはなかったし、なにせ喧嘩なんてフランスでしたことがなかった。でも、肌の色で、見た目だけでここまで値踏みされると、こんなにイラっとくるのだ。そんなことを、私はこの街で知った。

私もだいぶ丸くなったかな、と思っていた。全然だった。前回と言い、今回と言い。モロッコのことを好きになりたいのに、全然好きになれない。

──

ただ、その日、私はひとつだけ、自分でも意外な発見をしている。

切れながらタクシーに揺られていて、ふと窓の外を見たら、まったく景色が入ってこないのだ。

本当に何も見えない。ピンクの壁も、市場のざわめきも、椰子の並木も、全部が目の前を素通りしていく。そして口から出てくる言葉が、全部ネガティブなものになっていく。ここは汚い。ここは面倒だ。信用できない。

人は感情によって、同じ景色も、同じ出来事も、受け取り方が変わる。

頭では、そんなこと何度も聞いたことがあった。でもその日、私はそれを身体で確認してしまった。同じマラケシュを、機嫌のいい日に走っていたら、私はきっと「なんて美しい街だろう」と書いていたのだと思う。

私が見ている世界は、いつだって、私の感情でできているのだ。

──

泊まることにしたのは、活気のあるホステルだった。

いろんな国の人が、共有スペースで喋り、笑い、誰かと誰かを紹介し合っている。すごいのは、全員が、誰かと話していることだ。すごすぎる。コミュ力おばけのヨーロッパ人。

同じ部屋だった黒人の女の子が、私に話しかけてくれた。

そこで私は、絶望的なことに気づく。英語が、一言も出てこないのだ。

この1年、私はフランス語だけをやってきた。A1のクラスで、幼稚園児のようにアルファベットから始めて、テストのたびに泣きそうになりながら、なんとかB2のクラスを卒業し、それでようやく少し話せるようになったところだった。その代わりのように、もともと得意でもなかった英語は、私の中から完全に消えていた。

彼女は英語しか話さない。私はフランス語しか出てこない。彼女の親切な問いかけに、私は曖昧に笑うことしかできなくて、会話は数往復で終わった。

自分の引っ込み思案さを、思い知る。出会った人と一緒にどこかへ行く、なんて、私にはムリだ。

何より、英語はすごい。フランス語でグローバルに行くのは、ムリなことを痛感する。

やれやれ。

パリで1年、あんなに必死にやって、それでもまだ、私は世界の入り口で立ち往生していることに気づき、呆然とする。この1年は、いったいなんだったのだろう。

──


──そして、この11時間のバスである。

電波はない。誰にも連絡ができない。調べることもできない。今日どこに着くのかも、何時に着くのかも、正確には知らない。ただ、揺られている。

電波のない生活は、思った以上に不安で、思った以上に、どうしようもない。

日本にいた頃の私は、通知を切ることすらできなかった。パリに来てからは、通知が来ないことに苦しんでいた。そして今、私は物理的に、誰からも届かない場所にいる。

不思議なもので、その状態がしばらく続くと、人は考えるしかなくなる。逃げ場がないから、自分の内側を掘るしかない。

その11時間は、強制的に自分と向き合わされる時間だった。

18時に、私はノートにこう書いている。

これを、ここに、今のタイミングで来たのには、意味があると思うから。今、ここにいる時間を楽しもう。(私の好きな)非現実っちゃ、非現実だ。

そして、そのすぐあとに、(それは旅を終えてから書き足したのだが)こう続けている。

でも──楽しめなかったのは、私の理想の非現実世界じゃなかったからだ。

その一文に黒い線を引いて、それから私はペンを赤に持ち替えて、下にこう書き足していた。

 私は非現実世界を作りたい。

砂漠へ向かうバスの中で、書いた文章。ただこの赤い一行が、このあと私の中で、まったく別の形に育っていくことになる。それはもう少し先の話だ。

──

11時間以上バスに揺られ、やっとのことで砂漠に着くと、人数分のラクダが待っていた。

一人ずつ、コブの間に座る。ラクダ引きの人に手綱を引かれて、私たちはとことこと、砂の中へ入っていった。アルケミストの世界だ、とぼんやり思う。

どれくらい歩いたのか、正確にはわからない。3時間か、4時間か。歩き出したときはまだ明るくて、着いた頃には、もう夜だった。ラクダの背は思ったより高くて、硬い。揺れるたびに、地面がゆっくり遠ざかったり近づいたりした。

しばらくラクダに揺られたその先に、テントがいくつも張られている場所に到着した。ご飯が食べられて、眠れる、砂の中のキャンプ。私たちはそこで一晩を過ごす。

グループの中で、一人旅は私だけだった。カップル、親子、老夫婦。フランス人、スペイン人、アメリカ人。

アジア人も、私だけ。

──

私たちを先導していたのは、モロッコ人のおじいさんだった。

アラビア語と、少しのフランス語しか話さない。ボロボロの服を着て、私たちがラクダに揺られているあいだ、彼はずっと先頭を歩いていた。手綱を引きながら、砂の上を、自分の足で。

そのおじいさんが、一人で来ている私のことを、やたらと気にかけてくださった。

言葉は、ほとんど通じない。それでも一緒に写真を撮って、身振りで何かを伝え合って、笑った。朝には、朝日を見に行こう、と起こしに来てくれた。

「こっちを見てごらん」

そう言って、地平線の向こうに登る息を呑むような日の出を指さした。それはあまりに美しく、言葉を失って私はしばらく立ち尽くしてしまった。

言葉が通じないというだけで、ホステルであんなに落ち込んでいた私が、言葉がまったく通じない相手と、いちばん心を通わせていた。今思うと、笑ってしまうような話だ。

おじいさんは、アルケミストのセイラムの王様のように見えた。小説の中の彼の顔は見たことがないけれど、きっとそうだ。その人と撮った写真が残っていないことが、この旅の唯一の心残りである。

──


砂漠は、あまりにも広かった。

砂はどこまでもサラサラで、裸足で歩くとスルスルと私の指の隙間を通り抜けてゆく。遠くには何も見えない。地平線というものが、本当にただの線として存在していた。夜は震えるほど寒く、昼は焼けるように暑い。

何もない場所の、何もない美しさ。

その真ん中に立って、隣で笑っているおじいさんの、擦り切れた服と、今にも壊れそうな彼の履き物を見て、私はふいに気づいてしまった。

私は、いろんなものを持っているんだな──

──

おかしな話だと思う。

物を持ちたくないな、とノートに書いたのは、ほんの5日前だ。家具も、什器も、ラグも売って、捨てて、スーツケース2つ分になって、私は身軽になったつもりでいた。持ち物なんて、もうほとんどないと思っていた。

でも、違う。

日本に生まれたこと。日本のパスポートを持っていること。朝に出て翌日の夜に戻る、この長い長いツアーに、当時の金額で40ユーロを払えること。

30時間以上離れたこの場所まで、来られてしまうこと。

バスの窓から見えていた、モロッコの名前もわからない田舎で暮らす、道端の人たち。彼らは人生の中で、旅ができるんだろうか。

私は、できている。しかも、それを当たり前だと思っている。

その事実は、何もない砂の上にセイラムの王様のように見えるおじいさんの横に立った瞬間に、急に重さを持って私の肩に乗ってきた。おじいさんはそんな私の頭の中のことなんてわかるわけもなく、私にあたたかいしわをたっぷり蓄えた表情で微笑みかける。

──

その夜、私はテントの外に一人出て、ラグの敷かれたキャンプファイヤーの近くに寝転び星空を見ていた。

星を見に来たはずだった。誰かに、砂漠の星はすごく美しいと聞いて、それだけの理由でここまで来たのだった。

でも、私が見ていたのは星ではなかったと思う。

私に、何ができるんだろう──

そればかりを、何度も何度も、空に問い、砂の上で転がしていた。

✴︎


1泊2日のサハラ砂漠での旅を終えマラケシュに戻った私は、イヴ・サンローラン美術館を訪れた。

砂漠から帰ってきたばかりの身体は、まだどこかにほこりっぽい砂を残したまま、ひんやりとした展示室に立っていた。数日ぶりの屋根のある場所。数日ぶりの、電波。皮膚に貼りついていた乾いた熱が、少しずつ剥がれ落ちていく感覚。

撮影は禁止だった。だから私は、鞄からノートを取り出して、開いた。

展示の主役は、もちろん服だ。けれど一角に、コスチュームジュエリーのコーナーがあった。ガラスの向こうに、金色の、大ぶりの、堂々としたものたちが並んでいる。その脇の壁に、サンローランの言葉が掲げられていた。

Comme Mademoiselle Chanel, je n'aime les bijoux que faux.
"シャネルのように、私は偽物の宝石しか愛さない──"

私は立ち止まった。もう一度読んだ。それから、フランス語のまま、その一文をノートに書き写した。書き写しながら、まだ足りない気がして、英語の訳も並べて書いた。そして無意識に、赤いペンに持ち替えて、枠で囲む。

2019年9月の当時の日記

私はその一文に、とてつもないエネルギーをもらった。光を放って並ぶその文字の連なりから目が離せなかった。

──

ノートを閉じようとして、私は閉じられなかった。

気づいたら、耳飾りの絵を描いていた。しずくの形。大ぶりの丸。ストーンを囲む金の枠。パールと、黒のビーズと、リボン。一つ描くと次が浮かんで、また次が浮かんで、手が止まらない。展示室の静けさの中で、私はひたすらペンを走らせていた。

日本にいた頃、ブランドをやっていた頃、何度も味わったあの感覚だった。

そういえば、と思う。

私はもう1年近く、この感覚を忘れていた。

──

その夜、私はノートに「マラケシュでの旅を終えて」と見出しをつけて、思ったことを片っ端から書き出している。

まず、こう書いた。

完成されたものしかないマラケシュ。そして、Touristも多い。わざわざ私が何かを作る理由はない、と思った。

ここには、すでに美しく仕上がったものが、旅行者に向けて整然と並んでいる。私が入り込む隙間はない。そう感じた。

でも、と続けて、私はこう書いている。

でも、ここには、技術がある。

そこから、思考が動き出した。

もっと田舎に行きたい。もっと奥の、もっと素朴な、伝統工芸みたいなものを知りたい。それを、私の手でアクセサリーにリデザインできたら。ビジューがぎっしり縫い込まれたバッグ。小物。ジュエリーのような小物。想像しただけで、すごく可愛いだろうな、と思った。

こういうものを、途上国の技術でやりたい。

そしてその下に、私はこう書き足している。

(そうすれば現地の方に)たくさん、お支払いできる。

我ながら、この一行を書いたとき、胸が詰まった。

縫製の会社にいた頃、10万円で売られる服を縫いながら、社宅代を引いた手取り9万円で暮らしていた。だからこそ、トップス500円、ワンピース1000円で売られているものの向こうには、必ず泣いている誰かがいる。そのことを、知識ではなく体感として知ってしまったから、自分がブランドをやるときには正当な対価を支払う、と決めたのだった。

砂漠を挟んで、その決意が、もう一度、別の形で立ち上がってきていた。

そして私は、あのバスの窓からの景色を思い出していた。

道端に人がいる。子どもがいる。同じ景色が、何時間も続く。あの人たちは、この国から出たことがないんじゃないか。ふとそう思ったら、日本を見せてみたくなった。「旅行」というものを、教えてみたくなった。

旅って、先進国だけのものだよなあ。

そう書いたあと、私はこう続けている。

すごい。本当に私はめぐまれてる。
このコップにあふれた水を、どんどん、人に還元していこう。

──

そこまで書いて、私は突然、13歳の自分を思い出した。

中学1年のときに、あるドキュメンタリーを見た。「もしこの世界が100人の村だったら」。画面の向こうに、私と同じ年頃の女の子たちがいた。私は、自分でもびっくりするほど、泣いた。

当時の私は、転校したばかりで、友達もろくにできなくて、一人ぼっちだと感じていた。学校が嫌だった。家にも居場所がなかった。世界は私にどこまでも冷たいと思っていたし、不満だらけだった。

でも、あの画面を見た瞬間、思ったのだ。

私、なんて恵まれてるんだ──

彼女たちに、何かできることはないか。そう思って、パソコンを立ち上げて、私は毎日クリック募金をした。1日1回、ボタンを押すだけの募金だった。それでも、何かをしている気がした。

そして、いつしか、やめてしまった。

自分の支援がどれくらい役に立っているのか、まるで手ごたえがなかったからだ。押しても押しても、何も返ってこない。13歳の私にできることはそれくらいしかなくて、それくらいでは何も変わらないのだと、どこかで悟ってしまった。

その日から、17年が経っていた。

「でも」と私はノートに続ける。

でも、大人になって、自分のお金で、13歳の私には実現しなかった場所を、この目で見ることができるようになった。

私には、もう、条件が揃っているように思えてならない。

ページの上で、13歳の自分と30歳の自分が、手を繋いだような感覚があった。13歳の私が、希望の光に満ちた目で、30歳の私をじっと覗き込む。ねえもしかして、あなたは画面の中の世界に立っているの?

あのとき画面ごしにしか見られなかった世界を、今の私は、自分の足で歩ける。歩けているのだ。あのとき画面ごしにしか差し出せなかったものを、今の私は、自分のリアルな手で作り出せる。

支援、というより、リスペクトを込めて。一緒につくりたい。

生まれた場所で経済圏が違うだけで、こんなにも差がある暮らしって、すごくヘンだと思うから。

シンプルに、一緒に何かしたい。私にできることを、私にできる形で。彼らの少しでも力になれれば。

彼らに、仕事をつくること。

──

そこからの筆は、自分でも呆れるほど速かった。

2020年の1月に行こう。1ヶ月くらい、行こう。現地で作って、持って帰ってきて、どこかで見ていただく。日本とフランスを、まぜて。

美しいものをつくる。私の手ではできなくても、彼らの技術をもって、作る。

行き先の決め方まで書いてある。「フランス語圏 / 途上国 / ゴールド」で検索して、出てきた国へ行ってみよう、と。

我ながら雑である。でも、その稚拙さが当時の熱をそのまま保存していて、今読むと少し笑ってしまう。

アクセサリーに手を出したのはラッキーだった、とも書いている。途上国にも、アクセサリーはすごく美しいものがある。イヴ・サンローランが民族衣装にオマージュを捧げていたように。私はゴテゴテしたものが、幸いにも、大好きだ。それをほどよく引き算して、日本の人たちの気分に合うものをつくる。

そして、こうだ。

ぜったい、できる。これだ。これだ!!!!

感嘆符。パリで死にたいくらい自信をなくして、精神を病み、部屋で枕に叫んでいた人間が、砂漠から戻ってきて、ノートに感嘆符を誇らしげに四つ並べている。

──

最後に、私はページの頭に戻って、ひとつの問いを立てている。

「私は何のために作るのか?」

その下の一行目に、こう書いてある。

 自分がこの世にいてもいい理由をつくるため

4年前、ブランドを始めて3日目の深夜2時に、27,000円のヘッドドレスが売れた。見ず知らずの誰かが、私の作ったものにお金を払ってくださった。あのとき私は、「わたしもこの世にいてもいいのかもしれない」と、生まれて初めて思えたのだった。

同じ言葉が、4年かけて、裏返ってくる。

いてもいいと思わせてもらう側から、
いる理由を、自分でつくる側へ。

その下には、こう続く。

手に取ってくださった方の日々に、ちょっとでも多くの嬉しいポイントをつくること。褒められて、気分が上がって、自信が持てる。そういう時間をつくること。

日本という恵まれた国に生まれて、いろんな力をもらったからこそ、生まれた時点で恵まれない、苦しい、と思う人たちに、できることがしたい。

フランス語をやったのは、このためかもしれない。

そして、囲みの中に、たった一行。

生み出す側も、手に取っていただく側も、
関わって下さる方みんなが、夢を持てる場所をつくる。

ビジョン、と自分で見出しをつけて、私はそれを書いていた。

砂の上に座って「私に何ができるんだろう」と転がしていた問いは、マラケシュに戻って、美術館の一室と、静かな夜のあいだに、答えを返してきた。あまりに具体的に。あまりに勢いよく。あまりにも、ありありと。

✴︎

数日後、私はモロッコを発ち、最後の1週間をパリで過ごした。

かつて「私の居場所はParisだ」と震える手で書いた街を、今度は落ち着いた気持ちで歩いた。もう、ここが居場所だとは思っていなかった。居場所は土地の名前ではなく、営みの名前なのだと、この1年が教えてくれていた。

そして、9月19日。

パリに降り立った日から、ちょうど365日目に、私は日本へ帰る飛行機に乗った。

スーツケースは、来たときより少しだけ重かった。きっと、砂漠の砂と、書き殴られたノートが入っていたからだ。

もう一度、ここから始める。始めるんだ。

そう覚悟を定めて、背筋を伸ばす。
そして「よし」、と心を決めて、日本の地に降り立った。


<つづく>



執筆後記


前回の「人生の物語」の連載を更新してから、随分と月日がたってしまいました。でも、今また書こう、と思いいたり、筆をとりました。きっと、そういうタイミングが来たのだと思います。

今日書いたのは、パリ帰国の直前のこと。この数日間の写真を、私は一枚も持っていません。この時期、スマホをお風呂に落として壊してしまい、7月から9月末までのデータが、クラウドも含めて全部消えてしまったからです。当時はかなり落ち込みました。

その代わりに残っていたのが、今回引用したノートです。パリの家を引き払ってから帰国するまでの2週間、私はそこにものすごい量を書いていました。今回7年ぶりに読み返して、正直、かなり動揺してしまうほどに。

砂漠で「私に何ができるんだろう」と考えた、というところまでは覚えていたのです。でも、その答えを自分が出していたことを、私はすっかり忘れていました。しかも、行き先の決め方まで書いてある。

そして、13歳のクリック募金のことも、遠い記憶の彼方に忘れていました。手ごたえがなくてやめてしまったこと。あれをやめた罪悪感みたいなものが、17年かけて、私の中でずっと発酵していたのだと思います。

もうひとつ気づいたのは、腹を立てている箇所だけ、日記がきっちり関西弁になっていることでした。感情が高ぶると、標準語をつくろう余裕がなくなるみたいで、我ながら笑ってしまいました。その怒っていた日に「人は感情によって、同じ景色も、同じ出来事も、受け取り方が変わる」と書いているのも、なんだかおかしい。今の私が人に伝えていることの原型が、こんなところに転がっていました。

このあと、2020年の1月に途上国へ行く、と私は書きました。ご存知の通り、2020年の1月というのは、そういうことが一切できなくなる直前です。この計画がどうなったのかは、また先の回で書きます。

今日いちばん書きたかったのは、「自分がこの世にいてもいい理由をつくるため」という一行です。この連載の第4弾で、初めて商品が売れた夜に「わたしもこの世にいてもいいのかもしれない」と書きました。同じ言葉が、4年かけて、受け身から、「自分の手でつくるもの」に変わっていた。当時の私はまったく意識していなかったはずですが、こうして並べてみると、人生というのは本当に、後から線が繋がるものだなと思います。

もし今、あなたが何かの途中にいて、手ごたえがなくて、意味がわからなくて、投げ出しそうになっているとしたら。その点は、たぶん、まだ線になっていないだけです。だから大丈夫。時は、必ずやってきます。

探し求める限り。

今日の文章が「よかった」とか「次も読みたい」と思っていただけたら「スキ」を押していただけますと、執筆の励みになります。いつもありがとうございます。

人生の物語、また執筆再開しようと思います。ご覧いただけましたら、幸いです。



人生の物語、次の記事はこちら




いいなと思ったら応援しよう!