29歳、全てを捨てて逃げたパリ。そこで待っていた、静かなる地獄
出発の最終搭乗アナウンスが流れた。 ゆっくり座席から立ち上がり、お気に入りのセットアップのシワを伸ばす。人生初めての片道航空券を手に、ゲートへ進む。行き先はパリ、シャルル・ド・ゴール空港。チケットに印字されている "PARIS CDG" の文字を見て、「かっこいいな」と思う私は、いつまでたってもお上りさんだ。
これからパリに住む。次に飛行機を降りたらそこはフランスだ。まるで実感が湧かない。買い付けに行く時のような気軽さで出国手続きを済ませた。片道切符。もう帰ってこないことだってできるんだな、という思いが頭に浮かぶ。
頬にかかった髪をそっと耳にかけた。その指先にイヤリングが触れる。落ち着いたゴールドの大きなイヤリング。耳たぶに感じる心地良いこの重さが私は大好きだ。そして、思った。
──このイヤリングが、私をパリに連れて行ってくれるんだな
──
パリに住もうと決めたのは、出発のたった5ヶ月前のこと。当時は周りにこう説明していた。
「日本から物理的に距離をとることで、じっくりとブランドと私自身に向き合いたい」
「フランス語を本腰を入れて勉強したい」と。
それも嘘じゃない。嘘じゃないけれど、本当の理由はもっと情けなくて、ドロドロとしたものだった。
私は、逃げたかったのだ。
自分のキャパシティを超えて膨れ上がってしまったブランドから。
「私の作ったものを」と求めてくださる熱狂から。
そして何より、
自分の傲慢さが引き起こしたあの炎上の焼け跡から。

──もうこれ以上、自分に嘘つけない。
日記にそう書き殴っていたくせに、私は最後の最後まで、パリに行く理由すら綺麗にラッピングして、お客様と、そして自分自身に嘘をついていたのかもしれない。
夢を追いかけて海を渡るんじゃない。 私は、自分を知っている人が誰もいない場所へ、ただ「蒸発」しに行くのだ。
──
機体がふわりと浮き上がる。 窓の外に遠ざかる日本の街並みを見下ろしながら、私は安堵していた。これでようやく、誰の目も気にせず息ができる──。
私は「無期限休止」をSNSに投稿した。できれば、私のことなんて忘れてくれれば、最高だな、と思いながら。
しかし、辿り着いた憧れの街パリで私を待っていたのは、安息の日々ではなかった。 それは、「言葉も通じない」「仕事もない」「何者でもない」自分と向き合い続ける、美しくも残酷な日々だった。
前回の記事はこちら
物語の最初の記事はこちら
2018年9月20日。29歳。
辿り着いたのは、パリ5区、カルチエラタン。プラスモンジュというメトロの駅。ソルボンヌ大学が近くにあり、学生たちの知的な喧騒と、古い石畳の街並みが広がるエリアだ。
私はそこで、月1200ユーロ(当時のレートで約18万円)のアパルトマンを借りた。

白い壁、窓から差し込む柔らかな光、そして部屋の中央に鎮座する、真紅のソファ。 日本で積み上げてきた家具も、人間関係も、すべて処分してスーツケース2つだけで来たけれど、ここには私が欲しかった「美しい生活」のすべてがあった。日本での家具をすべて捨て、身軽になった私は、「やっと解放された」というウキウキした高揚感に包まれる。
──
到着してすぐ、私はSaint-Augustin寺院に向かった。

静寂の中で、私はノートを開き、震える手でこう書き付けた。

どこにいっても、どこに住んでも、私はずっと、いつも「何か違う」「ここじゃない」「自分の居場所じゃない」って思っていた。でも、ようやく見つけた。
私の居場所はパリなんだ──。
はじめて、「居場所」のように思える場所に出会えた。そう感じられた。ここなら、私は生まれ変われる。日本での炎上も、バッシングも、自分の傲慢さも、すべて過去のものとして消し去ることができる。
日記を書きながら、涙が頬をつたう。正当な理由で来れたわけではない。でも。嬉しかった。居場所と思える場所に出逢えたことが。

しかし現実は、美しい街並みとは裏腹に、残酷なほどシビアだった。
とりあえず語学学校に行こう、そう決めて入学したのは、7区にある私立校「エコール・レトワール」。学費は8ヶ月で約79万円。決して安くはない自己投資だ。 しかし、私のフランス語レベルは、正真正銘の「ゼロ」。振り分けテストは白紙で出した。何もわからなかった。
振り分けられたクラスは、一番下のレベルの「A1」。
先生が何を言っているのか、一言もわからない。
「アー、ベー、セー、デー (A, B,C ,D)」と、まるで幼稚園児のようにアルファベットの発音から始まる授業。先生に「こんなにわからない状態できた子ははじめて」とびっくりされる。特に、日本人は結構勉強してから来るらしい。自分でもあまりのできなささに絶望する。
──
日本ではブランドオーナーだった。たくさんの顧客様がいらっしゃり、仕事を回し、業務委託でお仕事を依頼する方がいて、それなりに「できる自分」で生きてきた。けれど、ここでは私は「何もできないアジア人」でしかない。むしろ、落ちこぼれの枠に、しっかりとはまった。
言いたいことがあっても、言葉が出ない。 脳みそには思考があるのに、口から出るのは幼児のような単語だけ。日本語なら簡単に言えることが、フランス語では全く出てこない。使う筋肉が、脳の回路が、まるで違うのだ。
──
最初の数ヶ月は、なんとかやっていた。元々、めちゃくちゃ勉強嫌い、というわけでもない。しかし、3ヶ月を過ぎたあたりから、明らかに周りのクラスメイトと、私との進捗のレベルに差が開き始めた。
そして、半年ほど経った、ある日のテストでのこと。
クラスメイトたちが次々と答案を提出して教室を出ていく中、私だけが最後の最後まで残っていた。最後の問いはいつもエッセイ(小論文)だ。テーマに対する意見は決まっているのに、上手い表現ができなくて苦戦する。何度も書き直す。わからない。どうしても、うまく書けない。悔しさで視界が歪む。
30歳を目前にして、テストができないことで泣きそうになるなんて。しかも自分が得意だと思っていた文章で。言語が変わると、途端に苦手分野になるなんて。日本語だったら、私はとても流暢に書けるのに。大人になってから、こんなに「できない自分」に直面したのなんて、いつぶりだろうか。
震える手で必死になって、白いところがなくなるまでぎっちりとエッセイを書く。やっとのことで仕上げ、「遅くなってしまってごめんなさい」と先生に答案用紙を手渡す。声まで震えた。Anne(アン)という、わたしをゼロから見守ってくれている先生は、私の珍しい態度に「Hitomi、全く問題ないのよ。おつかれさま、よく頑張ったね」と優しい声をかけてくれて、その優しさに涙が溢れた。もっとスムーズに書けるようになりたい。もっと、みんなみたいに話せるようになりたい。なんで私だけこんなに覚えが悪いんだろう。
Anneがまだ私に何かを言ってくれていたけれど、これ以上ボロボロ泣いている姿を見せるわけにもいかず、「Merci Anne, bonne journée(アン、ありがとうございます。良い1日を)」と言いながら私は逃げるように教室を出た。
かつて持っていた「プライド」や「自信」といったメッキは、パリの乾いた風に吹かれてボロボロと剥がれ落ちていく。傲慢さなんて、とっくの昔に跡形もなく砕け散っている。あるいは、パリに来て正解だった。万能感に包まれていたところからの、何者でもない自分になる圧倒的無力感。死にたいくらい、自分に自信がなくなっていった。
──
学校が終われば、私はただの「無職」に戻る。宿題をやるしても、わからないから何時間もかかる。終わるころには、あっという間に夜。脳がぐったりと疲れ、何もする気にならない。
日本にいた頃のように、メールの通知も来なければ、誰かからお仕事のことで相談されることもない。スーパーでハイネケンの大瓶を買い、適当なアペリティフを買って、部屋で飲む。
貯金残高は、確実に減っていく。それなのに、私は世の中に何ひとつ価値を生み出していない。 ただ空気を吸って、パンを食べて、ワインを飲んで、寝て、学校へいって、食べて、飲んで、寝る。
私、何も生み出してない──。
その事実は、じわじわと私の精神を蝕んでいった。
「生産していない人間」は、社会にとって不要な存在なんじゃないか。お金をかけて学んでいる語学だって、誰よりも落ちこぼれている。テストの点数が良くても話せなかったら意味がない。 かつて仕事で忙殺されていた頃は「何もしない贅沢」に憧れていたはずなのに、いざ手に入れた「何もしない日々」は、贅沢などではなく、終わりのない拷問のようだった。私がFIREにも定年退職にも1mmも全く興味がないのは、間違いなくこの経験をしたからだ。
──
アルコールの量は日に日に増え、アルコール中毒一歩手前の状態まで堕ちていた。学校のない日は昼間から飲み始める始末。
ある日、私は部屋の中で、わけもわからず、たまらなくなって叫んだ。
「うわああああああああ!」
誰にも届かない叫び声が、赤いソファのある部屋に吸い込まれて虚しく消える。「うあああああああ!!」まくらを口に押し当て何度も叫ぶ。なんで自分がこんなことをしているのかもわからない。勝手に涙が溢れてきて、止まらない。
通りからはムフタール通りの賑やかな観光客の声が聞こえる。こんなにも人がたくさんいるのに、わたしはどこまでも孤独だった。炎上して逃げてきた日本よりも、言葉の通じないこの美しい街の方が、よっぽど孤独だった。
──
──もう、限界だ。
2019年の4月のある日、思い切って私は日本のオンラインカウンセリング「cotree(コトリー)」に申し込みをした。人生初のカウンセリング。私の周りで「カウンセリングを受けた」なんていう人は、聞いたことがなかった。精神病にでもならないと無縁だと思っていた、そのサービスの扉をひらく。
画面越しに現れた日本人カウンセラーさんに、私は堰を切ったように話し始めた。 言葉が通じない辛さ、無能感、去年までとの自分のギャップ、自分の落ちこぼれ度合い、そして何より「社会の役に立っていない」という強烈な罪悪感。
一通り話を聞いてくださった後、カウンセラーさんは優しくわたしに寄り添ってくださった。「しんどいんです」というと、「しんどいんですね」という。「もうこんなの嫌なんです」というと、「嫌なんですね」という。おうむ返し。知識の浅い私でも、"型"で話されている、と気付き、腹が立つより虚しくなる。5000円払ってこれなのか。カウンセラーさんはただ、私を肯定してくれるだけだ。
違う。私はその先の解決策が欲しいんだ。どうすればここから脱出できるのかが知りたい。
私は、「カウンセリングが傾聴だけなのだとしたら、カウンセリングを飛び越えていいので、客観的な第三者視点を含んだ解決策を得る時間にしたい」とダメ元で伝えてみる。後々知ることになるが、こういうのはコーチングが行う分野であり、カウンセラーさんの領域ではない。
するとカウンセラーさんは、私の声を聞いたのかなんなのか、すうっと息をすって、落ち着いた声で、でも確信を持って、こう言った。
「圓尾さん。仕事をしてみてはどうですか?」
……は? 仕事? こんな状態で?
「圓尾さんは、何かを生み出し、それが誰かの役に立つことで満たされるっておっしゃってましたよね」
ハッとした。
その言葉は、暗闇に差した一筋の光のようだった。
そうか、私、働きたかったんだ。
稼ぎたいんじゃない。「誰かに必要とされたい」んだ──。
カウンセリングで「アドバイス」は御法度らしい。しかし、私のもどかしさを感じ取ってこの言葉をくださったあの時のカウンセラーさんに感謝しかない。私は一筋の光を、逃さなかった。そうか。ならば、やることはひとつじゃないか。
──
今までの無力感が嘘みたいに、行動力がみなぎった。2019年5月に、8ヶ月通った語学学校が終わると同時に、私は準備を始めた。
「パリで、個展をやる」
かつてあんなに批判され、逃げるように辞めようとしたブランド。でも、今の私を救えるのは、ジュエリーを作ることしかなかった。私ができる仕事は、それしかない。
そう決断したその翌日に、Instagramでライブ配信をした。「7月20日にパリで個展をやります」そう宣言をして、自分を追い込む。約1年ぶりのブランドの販売に対して、コメント欄が沸く。そんなみなさんからのお声が嬉しくて「クラウドファンディングにも挑戦します」と私は口走っていた。想定外の言葉だったが、自分の言葉に久々にワクワクした。
不思議なことに、仕事の準備を始めると、死んでいた心がみるみるうちに生き返っていくのがわかる。夢中になって書きまくる。

──
2019年7月20日。30歳を迎え、ブランドも、ひっそりと、4周年となった日。
私はパリの一角で、1日限りのイベントを開催した。

誰も来ないかもしれないという不安をよそに、そこには信じられない光景が広がっていた。
日本から飛行機に乗って来てくれた方々。アメリカから、ヨーロッパ各国から、足を運んでくれた方たち。SNSを見て、「ずっと待っていました」と言ってくれる人たち。
当日の様子はこちら↓
50人限定募集のクラウドファンディングも、数分で完売となった。
かつて私が書いたノートの一節が、現実となって目の前に現れた。
「誰かに求められているということは、
ブランドがあってもいいんだと思えることにつながる」
1年ぶりに味わう、「ありがとう」という言葉の響き。
1日限りのイベントが終わったとき、私はロテルのH/Mという私と同じイニシャルのお部屋の大きなベッドに倒れ込んだ。目を閉じて今日の景色をひとつひとつ、丁寧に振り返る。こんなに求めていただけているんだ。こんなに、必要とされているんだ。1年近くブランドを休止していたのに、こんなにもたくさんの方が、しかも、いろんな場所からお越しくださった。それらの事実を味わう。全身に活力がみなぎるのを感じる。
自分が作ったものが、誰かを笑顔にする瞬間。
その時、ようやく私の呼吸が戻った気がした。
──
私はマドレーヌ寺院で「私の居場所はParisだ」と書いた。
でも、私の居場所は、パリという土地そのものではなかったみたいだ。
「誰かに求められ、価値を提供する」という営みの中にしか、私の居場所はないのかもしれない。
自分の生み出したものに対するたった1回の「ありがとう」が、私を人間にしてくれる。そのことに気づいた時、私は本当の意味で、日本へ帰る準備ができたのだと思う。
「もう一度、やろう」
パリの空の下、私は静かに、しかし力強く、自分自身と握手をした。
逃げるために来たこの街で、私はもう一度、自分の足で立つための覚悟を手に入れたのだった。
<つづく>
今日の文章が「よかった」とか「次も読みたい」、と思っていただけたら「スキ」を押していただけますと、執筆の励みになります。
そして、フォロワーさん1000人突破しました!本当にありがとうございます。2025年、年内に1000人、を目標にしており、夢物語でしたが、たくさんの方に見ていただけて、それがまたモチベーションになっています。いつもお読みくださる皆様、本当にありがとうございます!
▼この連載はこちら
▼この連載の人気回はこちら
▼記事を書いた人について興味を持ってくださった方へ、自己紹介はこちら
▼Instagramは毎日更新中
stand.fmフォロワーさん5700人突破しました。一番私の思考の深いところをお話ししているのがstand.fmのメンバーシップ配信。よければお待ちしております。
▼Threadsは毎日更新中
