「やせ薬」騒動を見て思ったこと ― 整えるより「いじる」を選んだ社会の話
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2026年6月、糖尿病治療薬「マンジャロ」をめぐる騒動がニュースを賑わせました。
ニュース見ました?
これ自分の専門領域に近い話だから、ちょっと前から気になってチェックしてたんですよ。
本来は糖尿病の薬なんですけど、SNSで「これ打てば痩せる」って広まって、若い人たちが個人間で売買してて。
で、とうとう警察が書類送検しちゃったし、厚労相も会見でパトロール強化って言うし、製薬会社も「美容目的で使わないでください」って声明出して。
インフルエンサー絡みの炎上もあって、一気に動きましたよね。
これ見ながら、なんかずっとモヤモヤしてたんです。
「違法だからダメ」「副作用が怖いからダメ」って話はもちろんあるんですけど、僕が気になってるのは、もっと根っこのほう。
なんで人って「薬を飲むだけで痩せる」とか「注射一本で痩せる」にこんなに飛びつくんだろう、と。
なんで今の社会、こんなに「手っ取り早く」ばっかりになっちゃったんだろう、と。
そして僕らは、いつから自分の身体を「整える」じゃなくて「いじる」もんだと思うようになっちゃったんだろう、と。
今日はそのへんの話を、ちょっと語ろうと思います。
今日の話を始める前に。
もしまだ読んでいない方がいれば、まずこちらを先に読んでみてください。
僕がこのnoteに書くことは、すべてここから枝分かれしています。
「整え、抑え、定め、続け、共に生きる」という考え方が根っこにあって、今日の話もその枝葉の一つになるものです。
普段はこちらのマガジンで考え方を執筆・更新しています。
あと、少しだけ。
なぜ書くのかを話させてください。
僕はバツなし、子なしのアラフォーです。
命を縦に繋げられないと悟ったとき、横に広げることを選びました。
血を継ぐことはできない。
でも、言葉と思想を誰かに手渡すことはできる。
先祖たちが命を繋いできたように、自分は言葉を繋ぐ。
それが、noteを続ける理由です。
読んでいただけましたか。
では、本題へ戻ります。
マンジャロは「やせ薬」じゃない
最初に、事実だけ整理しておきます。
マンジャロは糖尿病治療薬です。
日本で承認された効能・効果は「2型糖尿病」のみ。
美容目的・痩身目的での承認はされていません。
成分はチルゼパチドという合成ペプチドで、血糖値を下げる作用と、副次的に食欲を抑制する作用があります。
臨床試験では、2型糖尿病患者で5.8〜10.7kgの体重減少が報告されています。
ただしこれは「糖尿病患者を対象にした試験での副次的な結果」であって、健常者にとっての痩身薬として承認されたわけじゃないんです。
副作用として悪心・嘔吐・下痢・便秘が高頻度で起きます。
重大な副作用として、低血糖、急性膵炎、胆嚢炎、腸閉塞、アナフィラキシーが添付文書に記載されています。
これを医師の管理下にない状態で、SNS経由で1本6,000〜7,000円で買って、自分で打つ。
何が起きるかわからない。
でも、今日書きたいのは医学的な話じゃないんです。
なぜ社会がそこまで「手っ取り早く痩せる」に飛びついたか、という話です。
なぜ人は「注射一本」に飛びつくのか
考えてみてください。
「食事を整えて、運動を続けて、睡眠を確保して、3ヶ月かけて5キロ痩せる」と、「注射一本で同じ5キロ痩せる」。
冷静に考えれば、前者のほうが圧倒的に健康的です。
筋肉量が落ちない。
生活習慣そのものが変わる。
リバウンドしにくい。
副作用もない。
でも、現代の多くの人は後者に飛びつきます。
なぜか。
時間がかかるから、です。
3ヶ月かけて整えるより、一本打って一週間で結果が見たい。
コスパとタイパが優先される社会では、「時間をかけて整える」という選択肢が、どんどん不利になっていく。
「これ、自分にもわかる」って人、多いんじゃないでしょうか。
新しい服を買うために頑張ろうとか、夏までに痩せたいとか、そう思うときに「3ヶ月コツコツ」より「いますぐ何とかしたい」が先に来ますよね。
手っ取り早さに惹かれる気持ち、僕も完全には否定できないです。
パーソナルトレーナーとして仕事をしていると、よく聞かれる言葉があります。
「楽して痩せる方法、ないですか?」
…言われたことある、と同業の方々が首を縦に振りまくっている姿が見えます。
これ、本気で楽を求めてるというより、「整える」という選択肢を本気で取れる体力が残ってないんだろうな、と感じることが多いんです。
仕事で疲れ切って、家のことに追われて、自分のための時間がない。
その状態で「3ヶ月かけて整えましょう」と言われても、無理なんですよ。
だから「楽な方法ないですか」という問いは、怠けじゃなくて悲鳴に近いのかな、と思うのです。
そこにマンジャロのような「注射一本で痩せる」という選択肢が現れると、飛びつくのは当然。
整える時間も気力もない人に、悪魔の囁きのように、近道が差し出されたら、選んでしまうでしょう。
ここに、問題の根っこがあります。
個人の意志の問題じゃなくて、社会の構造の問題なんです。
「整えるための時間と気力」を奪う社会と、「整えなくても結果が出る」と謳う商品が、両側から個人を挟んでる。
「整える」と「いじる」は、まったく違う
身体との付き合い方には、二つの方向があります。
「整える」と「いじる」。
整えるは、身体本来の働きを取り戻す方向です。
呼吸を深くする。
睡眠を確保する。
食事のバランスを取る。
運動で代謝を上げる。
身体が持ってる自然な機能を、本来のかたちに戻していく。
いじるは、身体に外から介入する方向です。
注射で食欲を抑える。
薬で代謝をいじる。
手術で物理的に変える。
身体本来の働きとは別のスイッチを外から押す。
この二つは、似てるようで根本的に違います。
整えるは、続けるほど身体が強くなる。
いじるは、続けるほど薬や介入への依存が強くなる。
整えるは、自分の身体に対する信頼が育つ。
いじるは、自分の身体への信頼が薄れていく。
僕が提唱する予防的人間学でいう「整える」は、前者の道です。
地味で、時間がかかって、すぐには結果が出ない。
でも積み重なると、自分自身の力で立てるようになる。
マンジャロを美容目的で使う、というのは、「いじる」を選ぶ社会の縮図だと、僕は感じてます。
「いじる医療」が当たり前になると
身体を「いじって」変える発想が当たり前になると、自分の身体への向き合い方が変わります。
具体的にどう変わるか。
一つ目、自分の身体への信頼が薄れます。
「自分の身体は、外から介入しないと変わらないもの」という前提で生きるようになる。
本来、身体は適切に整えれば自分で回復する力を持ってるのに、その力を信じなくなる。
二つ目、不調に対する反応が「外部解決」中心になります。
眠れない→睡眠薬。
食欲がない→食欲増進剤。
痩せたい→痩せる薬。
不調であるのが当たり前になり、すべての問題は薬や介入で解決するもの、という認識になっていく。
三つ目、身体との関係が「商品化」されていきます。
自分の身体を、お金とサービスで「いじって」改善する対象として扱うようになる。
身体は自分そのものではなく、改修可能な「持ち物」になる。
この変化は、自分でも気づかないうちに進みます。そしてその先で何が起きるか。
自分が、自分の身体の主役じゃなくなる、ということです。
本来、身体は自分のもの。
なのに、その身体をどうするかを医者や薬や商品に委ねてしまっている。
自分は決定の場にいなくて、外側で決まった結果を受け取るだけ。
気づかないうちに、自分の身体に対する主導権を、外に明け渡している状態です。
これは健康問題というより、人間としての在り方の問題です。
「インフルエンサー商業主義」への違和感
もう一つ。
今回の騒動で気になったのが、医療用医薬品を商品としてインフルエンサーマーケティングに乗せた構造です。
インフルエンサーマーケティングは医療用医薬品に限りません。
商品やサービスを人気インフルエンサーをアンバサダーに立てて宣伝する。
本人もダイエット目的で使った経験をYouTubeで語る。
視聴者は「あの人が使ってるなら大丈夫」と思って手を出す。
これ、商品の問題じゃなくて、人間関係の問題だと思ってるんです。
インフルエンサーの影響力は、フォロワーとの「信頼関係」でできてます。日々の発信、ライフスタイルの共有、人間性の表現。フォロワーは、その積み重ねを通じて「この人なら」と思うから、影響を受ける。
その信頼を、医療用医薬品の販売に転用する。
これが何を意味するか、考えてみてください。
本来、医薬品の処方は、医師がその人の体質・既往歴・他の薬との相互作用を含めて判断するものです。
インフルエンサーが「私もやってます」と言って、フォロワーがそれを真似する構造は、この医療プロセスを完全にすっ飛ばしてる。
患者の健康のために専門性を持って処方する医師と、己が利益のために無責任に拡散する一部のインフルエンサー。
問題が起きた時に誠実に対処してくれるのは、どちらでしょうか?
そしてもっと深い問題は、「人を信頼する」という人間関係の核心を、商業利用してる点です。
信頼って、人間が他者と生きていく上で最も大切な土台です。
それを商品の販促に使う構造が当たり前になると、「人を信じる」ということ自体に、どんどん不信感が混ざっていく。
予防的人間学でいう「共に生きる」とは、長期的に相手の健康と幸福に責任を持つことです。
商業的なインフルエンサーマーケティングは、その逆方向です。
短期的な売上のために、信頼を消費する。
僕は別に、インフルエンサー全体を批判してるわけじゃないです。
発信の力で社会を良くしてる人もたくさんいる。
でも、医療や健康という「人の生命に関わる領域」で、商業的な信頼利用が無自覚に行われることには、強い違和感があります。
本来必要な人に、薬が届かない
今回の問題で僕が一番怒っている話をします。
マンジャロは糖尿病治療薬です。
本来、これを必要としているのは、2型糖尿病に苦しんでいる患者さんたちです。
血糖コントロールがうまくいかず、合併症のリスクと日々向き合っている人たち。
中には、これまでの治療では効果が不十分で、ようやくマンジャロにたどり着いた人もいる。
その人たちにとって、マンジャロは「美容」でも「ダイエット」でもない。生活と命に関わる薬です。
ところが、美容目的での使用が拡大すると、何が起きるか。
供給を逼迫します。
実際、GLP-1受容体作動薬の世界的な需要急増によって、糖尿病患者への供給不足が報告されてきました。
本来は処方されるべき患者さんが、薬を手に入れにくい状況に陥る。
その薬が、SNSで「やせ薬」として転売されている。
必要としている人の手から、本来なら必要じゃない人の手に、医療資源が流れている。
これ、医療資源の倫理問題として、もっと真剣に語られるべきだと思うんですよ。
「自分のお金で買うんだから自由」という意見もあるかもしれません。
でも、医薬品は普通の商品とは違います。
製造量にも、医療保険制度にも、限りがある。
誰かが「美容目的」で使うことで、本当にその薬が必要な誰かが治療を受けられなくなる、という現実があるんです。
特に「医師の管理下にない個人間売買」は、二重に悪質です。
違法ルートで流れた薬が、本来の流通経路を圧迫する。
SNSで6,000円で売られている1本のために、糖尿病患者に届く1本が減る。
薬が手に入らなくて、医療を諦めてしまう人が生まれてしまう。
安易な考えが、本当に必要な患者が医療を受ける機会を遠ざけている。
医療現場の負担を増やす。
医療費を圧迫する。
これを「自由」と呼ぶのは、僕には到底無理です。
予防的人間学でいう「共に生きる」は、自分の選択が他者にどう影響するかを意識することでもあります。
自分の身体を「いじる」ために医薬品を選ぶ行為が、誰かの治療機会を奪っているかもしれない。
この事実から目をそらすことはできません。
日本の医療は、ほとんどが「対症療法」でできている
マンジャロ問題の根っこには、もっと大きな話があります。
日本の医療制度の構造そのものが、「崩れてから治す」設計になっている、という話です。
生活習慣病を例に挙げます。
高血圧、糖尿病、脂質異常症。
これらの多くは、長年の食事・運動・睡眠・ストレスの積み重ねで起きます。
でも、病院に行くのは数値が悪くなってから。
薬を処方されるのは、すでに身体に不調をきたしてから。
予防の段階で介入する仕組みは、今の医療制度にはほとんどありません。
なぜか。
予防には保険がつかないからです。
「病気でない人」を診ることに、医療制度は対応していない。
だから医療の現場は、「崩れてから治す」ことに最適化されてる。
これは医師個人の問題じゃないです。
制度の構造の問題です。
そしてその制度の延長線上に、マンジャロ問題があります。
「太ってきたな」と感じた人が、自分で整えるという選択肢ではなく、「注射で痩せる」という対症療法に向かう。
これも、対症療法的な医療文化が当たり前になった結果です。
予防医療への転換が必要だ、というのは、医療界の中だけの話ではないんです。
社会全体の身体観・健康観の問題なんです。
日本人が積み上げてきた「整える知恵」を、思い出す
ここで少し、東洋医学と日本の古典の話をします。
日本には、長い時間をかけて積み上げられてきた「整える知恵」があります。
東洋医学では、病気の状態を「未病(みびょう)」と「已病(いびょう)」に分けます。
未病は「まだ病気じゃないが、健康でもない、整ってない状態」のこと。
已病は「病気として診断される状態」のこと。
東洋医学が大切にしてきたのは、未病の段階で整えることでした。
気の流れを整える。
陰陽のバランスを取る。
季節と身体を調和させる。
食事を養生として扱う。これら全部が、「崩れる前に整える」という思想の表れです。
整えることは、身体と精神の両方に影響します。
知識だけじゃなく、判断する力である智慧も必要です。
「自分にとって本当に必要なものは何か」を見極める力。
マンジャロを「やせ薬」として欲しがる前に、本当に必要なのは何か、を考える智慧。
これらの智慧は、現代社会では薄れてきてます。
情報の速さ、結果の早さ、効率性。
すべてが「いじる」方向を加速させてる中で、「整える」という地味な選択肢が見えにくくなってる。
でも、薄れただけで消えたわけじゃない。
日本人の中に、これらの智慧はまだ残ってる。
思い出すかどうかの問題です。
アンチドーピングを提唱する立場から、伝えたいこと
ここで、僕の立場をはっきりさせておきます。
僕はパーソナルトレーナーとして、そしてメンズフィジーク競技者として、アンチドーピングを提唱する立場にいます。
スポーツの世界で「ドーピング」というのは、薬物や禁止物質を使って、本来の身体能力以上の結果を出す行為のことです。
短期的にはパフォーマンスが上がる。
試合に勝てる、記録が出る。
でもその裏で、自分の身体は確実に壊れていく。
そして何より、フェアじゃない。
なぜドーピングが禁止されているか。
健康被害だけが理由じゃないんです。
「自分の身体の力で結果を出す」というスポーツの根本的な価値を、ドーピングは壊してしまうから禁止されているんです。
僕がフィジークの大会に出るとき、ナチュラルであることにこだわってきました。
ナチュラルというのは、ステロイドや筋肉増強剤などを一切使わず、食事・トレーニング・休養という、自分でコントロールできる要素だけで身体を作ることです。
正直に言うと、薬を使えばもっと早く結果は出ます。
短期間で身体は変わる。
でも、それは僕の身体じゃなくなる。
僕が積み上げてきたものじゃなくなる。
だから使わない。
そういう視点でマンジャロ問題を見ると、これは医療の問題であると同時に、ドーピングと同じ構造の問題に見えるんです。
「自分の身体の力で痩せる」のではなく、「薬の力で痩せる」を選ぶ。
短期的には結果が出る。
でも、自分が積み上げたものじゃない。
やめたら元に戻る。
続ければ副作用のリスクと一生付き合い続けることになる。
スポーツのドーピングと、美容目的のマンジャロ。
形は違うけど、構造は似てます。
「自分の身体の力で結果を出す」という、人間として一番大切な部分を、薬に明け渡してしまう行為。
ここで、僕からの提言です。
自分の身体で結果を出した人にしか味わえない感覚があります。
「自分はこれを、自分の力でやり遂げた」という感覚です。
これは、薬で結果を出した人には絶対に手に入らない。
お金を払っても、注射を打っても、永遠に手に入らない感覚です。
なぜなら、それは「結果」じゃなくて「過程」の中にあるからです。
毎日地味な選択を続けて、ちょっとずつ変わっていく、その過程の中にしかない感覚。
スポーツでも、美容でも、健康でも同じです。
整える側を選んだ人だけが、自分への信頼を育てることができる。
「やればできる」という自己効力感は、お金じゃ買えません。
薬じゃ手に入りません。
僕がアンチドーピングを提唱するのは、薬を使う人を批判したいからじゃありません。
自分の身体で結果を出すことの価値を、知ってほしいからです。
それを知ってる人が増えれば、社会全体の身体観が変わると信じてます。
自分の身体は、自分にしか整えられない
最後に、一番言いたいことを書きます。
自分の身体は、自分にしか整えられません。
医者でも、トレーナーでも、薬でも、注射でもない。
最終的に、自分を整えるのは自分自身です。
これ、当たり前のようでいて、現代では忘れられがちです。
「専門家に任せる」「お金で解決する」「商品で改善する」が、デフォルトの選択肢になってる。
でも、ちょっと考えてみてください。
毎日の食事を選ぶのは誰ですか。
寝る時間を決めるのは誰ですか。
運動するかどうかを決めるのは誰ですか。
呼吸の質を決めるのは誰ですか。
全部、あなた自身です。
我々トレーナーは「こうするといい」とアドバイスはできる。
医者は「この薬がいい」と処方できる。
でも、最終的に「やる」「やらない」を選ぶのは、自分しかいない。
注射一本で痩せたとしても、その後の食生活が崩れてれば、リバウンドします。
マンジャロを使い続ければ、副作用とのリスクも高まる。
手っ取り早い解決は、必ず「その後」を自分で整えないと、続かない。
僕がトレーナーとして見てきた中で、長く健康を保ってる人って、誰一人として「特別なこと」をしてません。
地味な選択を、毎日積み重ねてるだけ。
寝る、食べる、動く、休む。それを淡々と。
派手な近道を選んだ人は、必ず後で大きな代償を払ってる。
だったら最初から、整える側を選んだほうがいい。
地味で、時間がかかって、すぐに結果が出ない道。
でも、自分の身体に対する信頼を育てて、長期的に健康を保てる道です。
予防的人間学でいう「整える」は、特別なことじゃないです。
今日の呼吸を整える。
今日の食事を整える。
今日の睡眠を整える。
それを続ける。
それだけです。
薬や注射より地味です。
でも、確実に自分のものになります。
マンジャロ問題が、僕らに教えてくれたこと
マンジャロをめぐる一連の騒動を、ニュースとして消費するだけでは、もったいない。
この問題は、現代社会の歪みを、医療と身体という最も身近なところに映し出してくれた。
「整える」を捨てて「いじる」を選んだ社会の姿。
手っ取り早さに飛びつくしかなくなった個人の姿。
信頼を商品化する商業構造の姿。
本来必要な人へ届くべき薬が、必要じゃない人に流れる医療資源の歪み。
そして、自分の身体への信頼を失っていく僕ら自身の姿。
これらを見て、「だからやせ薬は危ない」で終わらせるんじゃなくて、「じゃあ自分はどう判断するのか、どう生きるか」を考えるきっかけにしたい。
今日から試してほしいことが一つあります。
何かを変えたいと思ったとき、「整えるか、いじるか」を一度自問してみてください。整えるは時間がかかります。
いじるは早いです。
早いほうを選ぶ前に、一拍置く。
その一拍が、自分の身体との関係を、少しずつ取り戻す入口になります。
そして、できれば、整える側を選んでみてください。
「やせ薬」騒動が映し出したのは、薬の問題というより、僕らが自分の身体への信頼をどこかで手放してしまった、という現代の姿でした。
失ったものを取り戻すのは、注射でも商品でもなくて、毎日の地味な選択の積み重ねです。
身体は、整える時間さえあれば、ちゃんと応えてくれます。
先祖たちが何百世代もかけて磨いてきた、僕らの身体です。
信じてあげるところから、もう一度始めましょう。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
それではまた。次の記事でお会いしましょう。
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