目が合って、にこっ。ハッ!っていうお話 | ぽてぽたのよしなしごと #28
平日のある日、私はいつものように都内を電車で移動していた。
なるべくメトロを使いたい派だが(なんとなく)、この日はJRで移動していた。
乗り込んだ電車はそこまで混んでなかったので、私は運良く座ることができた。
ふー、やれやれ。
暑いな。揺れるな。
よし。図書館で借りた村田沙耶香さんの『信仰』を読むぞ。
面白過ぎて一気読みしちゃいそうで、もったいないなあ。
なんて思っていたら本を開く前に、私の隣の席に、背が高くてガタイの良い青年が座った。
浅めに座り、浅く組んだ足を投げ出すように前に出す。
長い足が、より前に出る。
恐らくノイキャン付きのイヤホンをつけていて、スマホの画面に見入り、周りはあまり見えていなそうだ。
私は彼が占有しているスペースを相殺する気持ちで、より縮こまってみる。
あまり意味がない。
ふんふん、なるほど。
そこまで混んでないし、その座り方でもいいかな、っていう判断なのだね、青年よ。
まあ、注意するほどじゃないか。
混んでないし。
ちょっと怖いし。
すこし気になるけど、注意するほどじゃないか。
人にあたっているわけじゃないし。
ちょっと怖いし。
私は自分の中で、ルールを決めた。
前に来た人にあたりそうになったら、その時に注意しよう。
こうやって決めてしまえばこっちのもので、安心して本を開いた。
本を開けば、さらにこっちのものだ。
私は、ノイキャン機能付きイヤフォンを標準搭載した人間なのだから。
スッと、本の世界に入り込む。
そのまま、2、3駅が過ぎただろうか。
電車の停止に合わせて、隣の足投げ出し青年が席を立った。
この駅で降りるようだ。
私はふと、足投げ出し青年が立った席を見る。
おや。イヤフォンのケースが落ちている。
きっと尻のポケットから落ちたんだ。
あんなに浅く座るもんだから。
私は足投げ出し青年のことを少し怖がっていたことを忘れて、反射的に立ち上がった彼の左腕を軽くタップする。
「これ、忘れていますよ」
と、イヤフォンケースを差し出した。
足投げ出し青年は、そのイヤフォンケースに一度目をやり、視線を私の顔に移す。
そして、にこっ。
「ありがとうございます」
イヤフォンケースを受け取り、丁寧に頭を下げた。
え?
あれ?
え、なんかごめん。
ずいぶん感じがいいじゃないか。
去り行く青年の後ろ姿を見ながら、私は脳内で謝る。
「足投げ出し青年」て、心の中でディスってたんだよ。
ごめんて。
暑いので、どうぞ気をつけて1日をお過ごしくだ……
プシューッ。
電車のドアが閉まる。
電車が動き出す。
ま、いっか。
イヤフォンケース、渡せたし。
私はまた、目を本に戻した。
* * *
おはようございます。
自分で「ぽたぽた」って打っちゃう時があるんです。
でおなじみの、ぽてぽたです。
人を見た目や雰囲気だけで判断してはいけない。
頭ではわかっているはずなのに、無意識にやっちまってることがあるんですよね。
恐ろしいことです。
自分が無意識にそういうジャッジをしてしまっている、ということは、逆にされていることもある、ということになります。
いずれにしても、恐ろしいことです。
この流れで恐縮ですが、同じ「ワイヤレスイヤフォン」「落とし物」というキーワードで面白い記事を書かれていたこの方を、ご紹介させてください。
万里さん
文筆家ではなくてダンサーさんなのですか?ほんとに?
と聞きたくなってしまいます。
私は、踊れる人は、それだけで尊敬します。だって、すごいもの。
それなのに万里さん、文章もお上手なんです。
これはギャップ萌えではなく、単なる掛け算ですね。
すごい×すごい=ちょーすごい、ということになります。
(算数が得意ではないので、この式が間違っていたら誰か教えてくださいね)
次から次へと面白エピソードが転がり込んできているように見える万里さんの、こちらの記事も秀逸でした。
誰かの落とし物を拾う。
それを、落とした人に渡す。
これだけのことが、こんなに面白くなる?という感じですね。
少し前ですけれど、「マーマレードたこ焼き」の夢の話も最高でした。
3回くらい吹き出し注意ポイントがあるので、笑い堪え力に自信のない方は家で読むことをお勧めしたいです。
本記事に登場する村田沙耶香さんの『信仰』は、マロさんの記事がきっかけで読みました。
あ、マロさん、最近お名前変わったんですよ。
丸海 マロ(まるみ まろ)さんですよ。覚えてくださいね。
マロさんの読書感想文がわかりやすくて「読みたい」と思わせてくれる内容だったので、ご紹介しますね。
『信仰』は短編集なのですが、一つ一つの話の濃さが、すさまじい本でした。
私が気になったところはありすぎて書けないのですが、強いて一つあげるなら6本目の『気持ちよさという罪』でしょうか。
この物語の主人公は、子どもの頃から大人にとって都合よく使われる「個性」という言葉が大嫌いでした。
しかし彼女は、大人になってから「多様性」という言葉に出会います。
多様性の中に収まった彼女には「クレージー」という新しいラベルが与えられ、彼女はそこにある種の安心感を見出します。
この現象を、本著の中では「多様性という言葉の気持ちよさに負けた」と書かれています。
すごいフレーズだと思いました。
個性という言葉には抗った彼女が、多様性という別の言葉になった瞬間、彼女自身が嫌悪感を感じていた言葉の罠にはまってしまう現象を、こんな風に表現できるとは。
ほんの一部だけ、引用します。
笑われて、キャラクター化されて、ラベリングされること。奇妙な人を奇妙なまま愛し、多様性を認めること。この二つは、ものすごく相反することのはずなのに、馬鹿な私には区別がつかないときがあった。
こんな風に相反するふたつのことを混同してしまうのは、現実の世界でも、あらゆる事柄について起きていることだと思います。
これは、主人公に限った話ではない。
私たちには、相反することの区別すらつかないことが、多くある。
恐ろしいけれど、そのように私は解釈しました。
私は少し前に、『正論をぶっぱなせ』と銘打って、『多様性の否定、それってブーメランで自分に刺さらない?』という記事を書きました。
この中で私は、「多様性という枕詞さえつければなんでも人に押し付けてOK、というのは、多様性の理解として明確に誤りである」ということについて書きました。
多様性とは相反するような意見にも「多様性」というラベルを貼るだけで、私たちは中身の区別がつかなくなってしまうことがあります。
もちろん村田沙耶香さんの本で書かれていた内容とは異なりますが、少しだけ似たものを感じました。
とても難しい「多様性」という言葉について、また違うアプローチから考えるきっかけになりました。
また、言葉はちゃんと理解して丁寧に使わないと、本当に恐ろしいものだと、改めて思いました。
『気持ちよさという罪』は締めの段落もすごく良いので、気になる方はぜひ、読んでみてくださいね。
最後は、なんだか小難しくなってしまいました。
マロさん、素敵な本のご紹介、ありがとうございました。
現場からは以上です。
じゃがいもでした。
🥔・🥔・🥔
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ぽてぽたの「よしな、仕事!」じゃないですよ。「由無し事」です。
