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属性から個人へ



血統とジェンダーは、なぜ薄まってきたのか


「勝負脳史」では、人間がなぜ勝ち負けに興奮するのかを考えた。


「共生史」では、そこから少し視野を広げてみた。




人類は、競争し、奪い、支配しようとする一方で、助け合い、育て合い、誰かと一緒に何かをつくってきた。

二つの波を、同時に運んできたのである。

では、今回はもう一度、人間一人ひとりに戻ってみる。僕たちは、生まれた瞬間から、いくつもの「属性」を与えられている。

誰の子どもなのか。どこの家に生まれたのか。男なのか、女なのか。長男なのか、長女なのか。

どんな血を引いているのか。
かつては、それらが、その人の人生をかなりのところまで決めていた。

名前、財産、身分…


ところが、どうも現代では、その力が少しずつ弱くなっている。これは人間社会の「進歩」なのだろうか。

それとも、人間社会を動かす単位そのものが、変わってきたということなのだろうか。
その辺の考察である。

血統という「波A」の装置


昔の社会では、血統はかなり重要だった。王は王の子に。土地は一族へ。
(日本でも、「天皇家」の話題になるのは、この血統の話。)

地域では、家や屋号名前は、そのまま権利や信用につながる。つまり「どこの誰の子であるか」が、「何を持つことができるか」…である。

考えてみれば、前コラムで言う所の、これは「波A」と非常に相性がいい。

競争し、所有し、支配する。

その力を、個人ではなく一族単位で保存する仕組みだからだ。

一人の人間が得た権力を、その人が死んでも終わらせない。子孫へ残せるからだ。子へ。孫へ。さらに、その先へ。

血統とは、権力や所有を時間の中で延長するための仕組みでもあったのだろう。

だからこそ、王たちは「血」を守ろうとした。

血を守ろうとした王たち


その象徴の一つが、ヨーロッパの王侯貴族に見られた近親婚である。

スペイン・ハプスブルク家は、その極端な例としてよく知られている。

近年の遺伝学的研究では、16世代、3,000人を超える系譜を分析し、世代を重ねるにつれて近親交配の程度が高まっていったことが示されている。

最後のスペイン・ハプスブルク家の王、カルロス2世は、その象徴的な存在だった。

もちろん、彼の身体的・生殖上の問題をすべて近親婚だけで説明することはできない。

ただ、ここには一つの皮肉がある。「血を守る」ことによって、一族の力を守ろうとした。

ところが、その血を守ろうとするほど、外との交わりが減っていく。

内側だけで完結しようとする仕組みには、そんな矛盾もあったのかもしれない。


「外の人」が社会をつくる


ここで、クロード・レヴィ=ストロースの親族論が面白くなってくる。

人間社会では、近親婚を避け、集団の外側と婚姻関係を結ぶことが、集団同士を結びつける役割を果たしてきた。

もちろん、レヴィ=ストロースの議論そのものには、その後さまざまな批判もある。

だから、これを人類史の「答え」として読む必要はない。僕が面白いというか、摂理じゃないかな、と思うのは、もっと単純なところだ。

社会は、内側だけで完結していないし、外が必要とされる。

「外の人」と関係を結ぶことで、社会そのものが広がっていく。

一族と一族。村と村。地域と地域。そして、知らない誰かと誰か。

つまりー人間は、血のつながりだけではない関係を、ずっとつくってきた。


一族から個人へ


近代になって、この変化はさらに大きくなっていく。

社会学者ウルリッヒ・ベックが論じた「個人化」という考え方がある。これは単純に「家族がなくなった」という話ではない。

これまで家や階層、性別などによって、ある程度決められていた人生の道筋が、少しずつ個人自身の選択に委ねられるようになる。

どこで暮らすか。どんな仕事をするか。誰と結婚するか。結婚しないのか。どんな生き方をするのか。

もちろん、自由になった分だけ、自分で決めなければならない。自由と同時に、リスクも増える。

それでも、大きな流れとして見るなら、これはつまり

「生まれによって決められる人間」から、

「自分で選択する人間」へ。

社会の重心が少しずつ動いてきた、と考えることはできる。

一族から大家族家へ。

大家族から核家族へ。

そして、
家から個人へ。

これは厳密な歴史法則ではないが、流れは明らかだと思う。

僕が歴史を眺めるために置いてみた、一つの補助線である。


ジェンダーもまた、属性だった


血統とジェンダーは、一つ共通しているところがある。

生まれた瞬間に与えられる、ということだ。男だから、こうする。女だから、こうする。長男だから、こうする。嫁だから、こうする。父だから。
母だから…

それぞれに「役割」があらかじめ用意されているかのように。

もちろん今でも、性別や家族という属性はなくなっていない。

ただ、「男だからこう」

「女だからこう」

「長男だからこう」

という説明だけでは、その人を説明しきれなくなってきた。

僕は、「属性が消えていく」というより、属性だけでは、その人を説明できなくなってきたと考えたほうが自然だと思っている。
ここから少し長い(笑)


遠くの親戚より、近くの他人


これを考えていたとき、僕自身の経験を思い出した。付き合いの薄い親戚の人が亡くなったときと、日常的にやりとりしていた仲間や友人を亡くしたときでは、悲しみ方がまったく違う、ということ。


これは、僕自身の経験に過ぎないが、でも、考えてみれば当たり前なのかもしれない。

「親戚だから悲しい」「友人だから悲しい」

というより、「その人と費やした時間、会話、関係の濃度」のほうが、僕たちの感情には大きく影響する。

人間関係についての研究を見ても、親族か友人かという分類だけではなく、接触の頻度や心理的な近さ、信頼や相互性といった要素が、人間関係の強さを左右することが指摘されている。

つまり、関係の近さは、血縁だけでは決まらない。ということだ。


「家族ガチャ」という言葉


最近、「親ガチャ」「家族ガチャ」という言葉を耳にする。

この言葉が面白いのは、家族を否定しているからではない。

むしろ、「家族は、自分で選んだものではない」
ということを、はっきり言葉にしたところにある。

生まれたときに、たまたま与えられた環境。自分では選べなかった関係。そこから、自分自身を切り離して考えるための言葉が生まれた。

もちろん、家族には家族にしかない強さがある。
血縁だからこそ支えられることもある。

だから、「家族だから大切」という考えを否定する必要はないが、ただ、その反対側に、

「大切だから、家族のようになる」

という関係もあるのではないか。



それでも「関係」は消えない


属性が薄まっていく。血統だけでは、人を説明できない。性別だけでも、人を説明できない。

家族という言葉だけでも、その人との距離まではわからない。では、最後に何が残るのだろう?

僕は、「関係」なのではないかと思う。

誰と出会ったのか。誰と話したのか。誰と笑ったのか。誰と仕事をしたのか。誰と何かをつくったのか。誰と遊んだのか。誰かのために、何かをしたのか。

そして、誰かが自分のために何かをしてくれたのか。生まれたときに与えられたものではなく、生きている途中で、自分たちでつくっていくもの。

それが「関係」なのかもしれない。



「勝負脳史」では、

人間には「勝ちたい」という衝動があることを考えた。

「共生史」では、
その一方で、人間には「一緒に何かをしたい」という衝動もあるのではないか、と考えた。

そして今度は、その「一緒に何かをしたい」という関係が、血縁や属性を越えて広がってきたのではないか。今回の考察は、そんな仮説にたどり着いた。

生まれたときに、僕たちにはいくつもの属性が与えられる。しかし、属性が薄まった先にあるのは、果たして?自由なのか。孤独なのか。それとも、新たな「何か」が、属性に変わりうるものとして生まれるのか、このあたりをこれから、考えていきたい。


少なくとも、こうしたテーマや課題があるからこそ、人類の歴史は続いている。


モノコトフロー研究所





この文章を書くときに考えていたもの

クロード・レヴィ=ストロース『親族の基本構造』

血縁だけで閉じるのではなく、「外」との関係によって社会が広がっていくという視点を考えるための補助線として。



ウルリッヒ・ベック『危険社会』

近代化によって、人間の人生が従来の社会的な枠組みから切り離され、個人自身が選択を迫られるようになる「個人化」を考えるために。

ロビン・ダンバー『友達の数は何人?』

人間にとっての「近い関係」とは何なのか。血縁だけでは説明できない、人間関係の距離を考えるきっかけとして。

吉本ばなな『クラウディクラウドファンディング』


家族という、もっとも近いはずの関係を、一人の個人の側から見つめ直した話題のnote。


血縁と「近さ」は、本当に同じなのだろうか。

そんな問いを考えるきっかけにもなった。


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