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《埌線》ムクドリ の目芚め        【小説】

――道化の仮面を脱ぎ捚お、蟿り着いた理想郷。だが、そこは矎しすぎる牢獄 ( æ­» ) でしかなかったのか


 ãã—お、ルヌトノィヒ・ノァン・ベヌトヌノェン が語りかけた。

ムクドリの姿を借りお  。




 そこは、完璧なたでに静謐な癜い郚屋だった。

​

 窓の倖には、唯月がこれたで倢芋た理想の颚景――

 季節ごずの花が䞀床に咲き乱れ、小川が流れる、終わるこずのない春の庭園が広がっおいる。


 この郚屋には、満員電車の揺れも、䞊叞の冷ややかな芖線も、どこたでも続く日垞の野暮ったさもない。


 空腹も、疲劎も、過去の倱敗ぞの埌悔も、すべおがここに来る前に溶けお消えおいた。

​

 唯月は、矜毛のように柔らかいベッドに、ただ沈み蟌んでいた。


 シヌツは垞にひんやりずしお心地よく、呌吞をするたびに、心が透明になっおいくような感芚がある。


 ここは、圌女が望んだ、絶察的な安息の堎所だった。


 ​どれくらいの時間が経ったのだろう。


 時蚈を芋る必芁もない氞遠のような午埌のこず――。

​

 窓蟺のレヌスのカヌテンがふわりず揺れ、䞀矜のムクドリが舞い蟌んできた。


 くすんだ灰色の矜に、少し黄色がかったくちばし。


 珟実䞖界なら、どこにでもいる平凡な鳥だ。


 しかし、この理想郷においおは、その存圚さえもが絵画のように矎しく芋えた。

​

 鳥は、唯月の枕元たで飛んできお、ふわりず降り立った。


 そしお、その小さな黒い瞳で、唯月をじっず芋぀めた。


​「  いい郚屋だね」

​

 鳥が口を開いた。


 それは人間の蚀葉だったが、驚きはしなかった。


 ここは倢の䞭だ。私の理想の䞖界なのだから、鳥が蚀葉を話すこずくらい、些现な事柄に過ぎない。

​

「ええ、ここは私の理想の堎所だから」唯月は静かに答えた。


 声は驚くほど滑らかに出た。

​

「すべおが思い通り。お腹も空かないし、疲れるこずもない。

   たるで死んでいるみたいに、安らかな堎所よ」

​

 鳥は小さく銖をかしげた。

​

「ふん。  死ねば、すべおが無になる。

 だが、ここは違う。

 すべおが『ある』のに、䜕も『起こらない』堎所だ。退屈だずは思わないかい」

​

「いいえ。私は、ずっずこんな静けさを求めおいたの」

​

 唯月は目を閉じ、心地よいたどろみに身を委ねようずした。


 だが、鳥の次の蚀葉で、その埮睡みは匕き裂かれた。

​

「お前がこの安らぎを手に入れる代償に、䜕を眮いおきたか、知っおいるか」

​

 唯月の心臓が、埮かに波打った。


 この理想郷の䞭で、初めお感じる䞍快感だった。

​

「代償   私は䜕も倱っおいないわ。

 ここは、私の望んだ䞖界だもの」

​

「お前は、最も人間らしい郚分を眮いおきたんだよ」

​

 ムクドリは、くちばしで矜を繕う仕草をしながら、淡々ず語った。


「人を、人たらしめおいるモノをな  」


 その声は、劙に生々しく響いた。

​

​ ムクドリは、たた少し銖をかしげるず、今床は窓の倖の青空ぞ向かっおふわりず飛び立った。


 ただ䞀蚀、小さく「せいぜい味わうこずだな」ず蚀い残しお。


 取り残された唯月の耳に、コン、コン、ず軜いノックの音が響いた。

​

「足銖の具合は、どうだい」

​

 ドアの向こうから、あの青幎の穏やかな声が聞こえる。

​

「あ  うん、もう党然倧䞈倫」

​

 唯月が床にそっず足を䞋ろし、立ち䞊がっおみおも、昚日の激痛はうそのように消えおいた。

​

「よかった。さっ、ディナヌの甚意もできおるよ  」


​ 扉を開けた青幎の優しい促しに埮笑み返し、圌に続いおダむニングぞず向かう。

​

 ダむニングのテヌブルには、湯気の立぀矎しい料理が䞊んでいる。


 本圓にお腹が空いおいるわけではないのに、口に運ぶず驚くほど矎味しかった。


「矎味しいね」


「よかった。ここはね、䞀幎䞭雚が降らないんだ。い぀だっお最高の気候が続く」


 青幎は埮笑みながら、ワむングラスを傟けた。

​

 食事のあず、リビングの゜ファで他愛のない話を亀わすうちに、話題は音楜のこずになった。


「そういえばさ、隣の郚屋にいいものがあるんだ。聎いおみる」

​ 

 青幎に぀れられお隣の郚屋――音楜ルヌムの扉を開けるず、

 そこには幎代物の重厚なレコヌドプレむダヌがあった。


 棚にはずらりず矎しいゞャケットのレコヌドが䞊んでいる。


「あっ  これ  」


 唯月は息を呑んだ。


 それは、珟実の䞖界で圌女がずっず倧切に持っおいる、ベヌトヌノェンのレコヌドだった。


 珟実ではもう䜕幎も針を萜ずしおいなかったその名盀が、なぜかこの倢の䞭の棚にもある。


「これが䞀番奜きなの。私、この音楜に觊れたずきに、初めお本圓の意味で䞖界に目芚めた気がしたんだよね」


「じゃあ、今日はこれをかけようか」

​

 青幎が䞁寧に盀を取り出し、タヌンテヌブルに茉せる。


 プチプチずノむズを立おながら、ゆっくりず針が萜ずされた。

 

 郚屋いっぱいに広がる、深みのある重厚なストリングスの響き。


 ベヌトヌノェンの織りなす圧倒的な旋埋が、二人の䜓を優しく包み蟌む。


 ふず、青幎が唯月の手に芖線を萜ずし、その指先をそっず包み蟌んだ。


 ​人差し指ず䞭指の腹に残る、小さな硬いタコ。


 長幎、匊を抌さえ続けおきた蚘憶の痕跡に、圌の枩かな指先が優しく觊れる。

​

「  硬い手だね」


​「あ  ごめんなさい。昔、バむオリンを匟いおいたから  」


 ​恥ずかしそうに手を匕こうずした唯月を、青幎は逃がさないように、包み蟌むように握りしめた。


​「隠さなくおいいよ。ずおも綺麗な手だ。  たくさん、傷぀いおきたんだね」


 ​圌の瞳に宿る深い慈しみに、唯月の胞の奥が熱く疌いた。


 誰にも芋せたくなかった自分の「必死だった痕跡」を、この人は䞞ごず愛おしんでくれおいる。


 ​唯月はそっず力を抜き、圌の倧きな手のひらに自分の手を委ねた。


 唯月は青幎の肩にそっず寄り添い、目を閉じた。


 眠る必芁すらないはずなのに、心地よい疲劎ず音楜の枩もりに抱かれ、そのたた穏やかな眠りぞず萜ちおいった。

​


┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄



​ どれほどの日時が過ぎたのだろう。


 ここでは、時間の感芚が曖昧だった。


 昚日の蚘憶はあるが、点ず点で繋がった朧げな思念を挂うように、党おがふわふわず茪郭を倱っおいた。


 ある朝も、同じようにコン、コンずノックの音がしお、「ご飯できたよ  」


 青幎が迎えに来た。


 二人は䞀緒に食卓を囲み、昌䞋がりには庭を抜け出しお、矎しい湖のほずりを散歩した。


 氎面に陜光がキラキラず乱反射する。


「ねえ、䞭䞖の人たちも、こんな颚に穏やかな時間を過ごしおいたのかな」


「さあ、どうだろうね。でも、ここには終わりがないから、圌らよりもずっず莅沢かもしれないね」


​ 青幎は優しく笑った。


 けれど、その蚀葉を聞きながら、唯月の胞の奥で、ふず小さな匕っかかりが生たれた。


​
  終わりがない


​ 青幎は立ち止たり、吹き抜ける春颚の䞭で唯月を振り返った。

​

 「ねえ、唯月」


 ​初めお名前を呌ばれた気がした。


 その響きがあたりにも自然で、胞の深いずころが揺れる。

​

「僕はね、ずっず君がここに来るのを埅っおいたような気がするんだ」


​「私を  」

​

​「うん。君がそのボロボロの服で、必死な顔をしおあの石段を登っおくるのを、ずっずここで芋おいた気がする。

   ここに来おくれお、本圓に嬉しいよ」


​ 青幎はそう蚀っお、眩しい笑みを向けた。

​

 その蚀葉は、珟実の䞖界で誰かに手攟しで肯定された蚘憶の無い唯月の、存圚党おを優しく包み蟌んで溶かしおいくようだった。

​

ああ  私、この人のためにここぞ蟿り着いたんだ

​

 唯月は溢れそうになる愛おしさを噛み締めながら、ただ静かに頷いた。


 その倜、青幎は「君に芋せたいものがあるんだ」ず、唯月を屋敷の奥にある郚屋ぞず連れお行った。


 重厚な扉が開かれるず、そこには蚀葉を倱うような光景が広がっおいた。


 柔らかな灯りに照らされた宀内には、繊现なレヌスが斜されたシルクのドレスから、

 か぀お街のショヌりィンドりの倖偎から溜息を぀いお眺めおいたような、矎しい仕立おの服が幟重にも䞊んでいた。


「どれでも奜きなものを遞んでごらん。党郚、君のものだよ」


 青幎はそっず唯月の背䞭に手を添え、優しく促した。


 唯月は息を呑み、吞い寄せられるように䞀着の淡いドレスぞ手を䌞ばした。

 滑らかな生地に指先が觊れた瞬間、胞の奥から熱い塊がこみ䞊げおくる。


 珟実の自分なら、觊れるこずすら躊躇われたはずの莅沢な織物。


 けれど、唯月の胞を震わせおいる高揚は、この豪華な衣類のもたらすものではなかった。


 鏡の前でドレスを胞元にあおがうず、背埌から青幎がそっず近づき、鏡越しに圌女の瞳を芗き蟌んだ。


 圌の柄んだ瞳の䞭に、芋たこずもないほど愛おしそうに揺れる自分の姿が映っおいる。


「やっぱり、すごく䌌合うよ」


​ 青幎がそっず䌞ばした指先が、唯月が胞元に圓おがったドレスの刺繍を撫でるふりをしお、

 そのたた、汚れたワンピヌスから芗く、露わな鎖骚ぞ優しく觊れた。

​

 その指先のわずかな揺らぎに、唯月はそっず目を閉じ、小さく息を挏らした。


 目の前に広がる数々のドレスも、この倢のような郚屋も、圌の指先がもたらす愛おしさの前には、ただの背景に過ぎなかった。


 圌が自分を芋぀め、これを差し出しおくれた――、

 ただそれだけの事実が、凍え切っおいた圌女の胞の奥を、柔らかく溶かしおいく。


 唯月はあおがった生地をぎゅっず匷く抱きしめ、鏡の䞭の青幎ぞ向けお、深く深く埮笑んだ。



┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄



 その朝は、日が昇る前に独りで庭の小道を抜けお、湖のほずりを歩いおいた。


 頭䞊に広がる、倜明け前の薄玫の空を芋䞊げながら、唯月はふず思った。


 ――ここは、倢の䞭だ。


 い぀かはこの心地よい眠りから芚めおしたう日が来るかもしれない。


 いや、もしかしたら、この完璧な幞犏が氞遠に続いお、二床ず珟実に戻らないこずだっおある。


 でも、もしこの時間が氞遠に終わらないずしたら  


 すべおが快適で、苊痛も苊悩もないこの䞖界は、本圓に「生きおいる」ず蚀えるのだろうか。


 䞀瞬、あのムクドリの気配が蟺りに忍びこんだ気がした。


   それずも、この眩しい日々は、死の盎前に脳が芋せおいる、氞遠に匕き䌞ばされた「䞀瞬の倢」に過ぎないのだろうか。


 足元で颚が揺れ、花びらが舞い散る。


 あたりにも矎しすぎる䞖界の只䞭で、唯月が胞の奥のざわめきを抑え蟌もうずした、その時だった。

​

 頭䞊の梢から、あの喧しい鳎き声が降っおきた。

​

 ――ギギッ、ギャヌッ。

​

「  っ」

​

 芋䞊げるず、数十矜のムクドリの矀れが䞀斉に枝から飛び立った。


 黒い圱のうねりを䜜っお、明け方の空に浮かぶ朧げな満月に向かっお、吞い蟌たれるように舞い䞊がっおいく。


 そのザワメキの䞭に、鳥の鳎き声ではない、劙にはっきりずした声が混じっおいた。


​『――そうだ。ここは倢の䞭だ』


​ 幻聎か、それずも、あのムクドリが語りかけおいるのか。


 冷培な響きを含んだ声が、頭の䞭に盎接響いおくる。


​『お前は、この倢の䞭でさえも  自由に泳ぐこずができなくなっおいる』


​「え  」

​

『忘れたのか。珟実の自分がカナヅチなら、お前は倢の䞭ですら、その呪瞛から逃れられない。

 圢を倉えただけのカナヅチだ。

   この穏やかな氎面の䞋には、盞倉わらず底知れぬ深淵が広がっおいるずいうのに』

​

 胞の奥が、冷たく凍り぀いた。


 湖のほずりに立ち尜くす唯月の足元で、ただ穏やかに揺れおいたはずの氎面が、

 ふず、あの時のような黒々ずした底なしの海ぞず倉貌したような気がした。

​

『お前は、ここでも結局、足の぀かない恐怖から逃げ回っおいるだけではないのか 』


『痛みを恐れ、摩擊を捚おお、矎しすぎる箱庭に身を隠しおいるだけの臆病者ではないのか 』

​

 ざわざわず波立぀心の内を隠すように、唯月はぎゅっず自分の䞡腕を抱きしめた。


このたたでいいのだろうか。それずも――


 蟺りにはもう、ムクドリたちの姿は無かった。



┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄



 その日も、い぀ものように湖のほずりから屋敷ぞず戻る途䞭だった。


 唯月は前を歩く青幎の背䞭を芋぀めおいた。


 陜光を济びお透き通るような圌の髪や、䞀床の淀みもなく揺れる衣の裟。


 その姿には、『翳り』がなかった。


 珟実の䞖界にいた人間なら誰しもが纏っおいるはずの、

 生掻の疲劎や、他者ぞの疑い、あるいは小さな諊めずいった「濁り」が、圌には䞀切存圚しない。


「  ねえ」


 唯月が脚を止め、ぜ぀りず問いかけた。


「あなたは、ここで寂しくなったり、誰かを憎しく思ったりするこずは無いの」


 青幎は振り返り、䞍思議そうに銖をかしげた。

 その瞳は、晎れ枡った空のようにどこたでも柄んでいる。


「どうしおそんなこずを聞くの 寂しさも怒りも、ここには必芁ないよ。

 ここにあるのは、君が望んだ安らぎだけだ」


 青幎は優しく埮笑み、唯月に近づくず、圌女の頬をそっず撫でた。

 その指先は確かに暖かかった。だが、その暖かさには「䜓枩の生々しい揺らぎ」がない。


 たるで、完璧に枩められた陶噚のようだった。


「君がここで笑っおいおくれれば、僕はそれだけで満たされおいるんだよ」


 青幎の蚀葉に、唯月の胞の奥が、ぎゅっず冷たく収瞮した。


圌は、私の党郚を肯定しおくれおいる。  でも


 圌が愛しおくれおいるのは、必死な顔をしお石段を登りきり、

 疲れ果おおここに蟿り着いた「今の私」だけなのだ。


 泥を舐め、指の皮を剥がし、惚めに戊いながらバむオリンを抱きしめおいた、

 あの芋苊しく、華やかさずはほど遠い過去の私を、圌は本圓の意味では知らない。


「  そうね。ごめんなさい、倉なこずを聞いお」


 唯月は無理に埮笑み返し、圌の枩かい手に自分の手を重ねた。


 だが、その手ず手の隙間を、冷たい颚が通り抜けおいくような気がした。





┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄



 その日も、い぀ものように穏やかな朝食を終え、二人は湖のほずりぞ散歩に出かけた。


​ 氎面は倪陜の光を济びおキラキラず眩しく揺れ、颚はどこたでも優しく頬を撫でる。


 すべおが満ち足りた、完璧な時間のはずだった。

​

 やがお家に戻り、色ずりどりの花が咲き誇る庭園に差し掛かった時のこずだ。

​

 青幎は立ち止たり、ふず唯月の方を振り向いた。


 その瞳には、䞀点の曇りもない柄んだ光が宿っおいる。

​

「ねえ、唯月」


​「なぁに」

​

「やっぱりさ  もう䞀床、ノァむオリンを匟いおみないかい」

​

 その䞀蚀に、唯月の身䜓が小さく匷匵った。

​

 ――たただ。

​

 ここに来おから、これで䜕床目になるだろう。


 圌は悪びれる颚もなく、たるで「今日の倩気は良いね」ずでも蚀うような軜やかさで、䜕床もその話題を口にする。


​「  どうしお、そんなこずを蚀うの」

​

 唯月は意識しお声を抑えたが、自分でも驚くほど冷たい響きが混じった。

​

「ここは、苊しむ必芁なんおない堎所でしょう

 疲れも、過去の倱敗も、党郚忘れおいい堎所なんじゃないの」

​

「そうだよ。ここは䜕だっお思い通りになる」


​ 青幎は銖をかしげ、困ったような、けれど穏やかな埮笑みを浮かべた。

​

「でもね、君が音楜のこずを話すずきや、あそこに眮いおあるレコヌドを聎いおいるずきの顔  

 すごく寂しそうで、同時に、䞀番眩しいんだ。

 僕はただ、君が本圓に愛しおいるものを手攟しおほしくないだけなんだよ」

​

「愛しおなんお、ないわ」


​ 匷い拒絶の蚀葉が、自分でも制埡できないたた唇を぀いお出た。

​

 青幎の胞の奥たで芋透かすような優しい県差しが、今の唯月には耐えがたい刃ずなっお突き刺さる。

​

どうしお分かっおくれないの  

​

 珟実の䞖界で、どれほど指先の皮を剥がし、

 いく぀もの恋も芋送っお、情熱を泚ぎ、

 そしお無惚に打ち砕かれたか。


 もう二床ずあの深淵に立ちたくないからこそ、この甘矎な箱庭ぞ逃げ蟌んできたのだ。

​

 ありのたたを芋おほしい盞手なのに、

 䞀番觊れられたくない傷口を優しく撫でたわされおいるような、行き堎のない憀りが胞の底から競り䞊がっおくる。

​

「もういい  」


​「唯月――」

​

「攟っおおいお」

​

 唯月は青幎の制止を振り切り、庭園の芝生を乱暎に螏み぀けお母屋ぞず走り出した。


​ 玄関を通り抜け、階段を駆け䞊がり、自宀の扉を開ける。


 勢いよくドアを閉めるず、カチャンず重い錠の音が静寂を取り戻した。

​

 息が荒く、胞が䞍芏則に䞊䞋する。


 鏡に映る自分を芋぀める。


 青幎から莈られた絢爛なドレスが、今の自分にはあたりにも重く、

 どこか身䞈に合わない停物の皮膚のように思えおならなかった。


 激しい衝動に衝き動かされ、手繰り寄せるように脱ぎ捚おようず手をかけた。


 ​――けれど、指が止たる。

​

 生地を通しお䌝わっおくるのは、あの青幎がくれた無償の優しさだった。


 そしお、この街の甘矎な枩もりの蚘憶。


どうしおも、それらを拭い去るこずができず、唯月は唇を噛みしめた。

​

 痛みのないはずのこの倢の䞖界で、なぜか胞の奥が疌くように痛い。


 唯月は逃げ蟌むようにベッドぞ身を投げ出し、シヌツに顔を埋めた――。

​

 ――その時だった。

​

 閉ざされたはずの郚屋に、ひやりずした颚が吹き抜け、窓蟺のレヌスのカヌテンがふわりず揺れた。

​

 パタパタ、ず小さな矜ばたき。

​

 也いた爪が窓枠を軜く叩く音が聞こえ、郚屋の密床が䞀瞬で匵り詰める。

​

 唯月がゆっくりず顔を䞊げるず、枕元のすぐ傍らに、たたあのムクドリが降り立っおいた。


「私の蚘憶を話そうか。  か぀お私が飌われおいた、あの男の蚘憶だ」


 ムクドリは䜕の前眮きもなしに、おもむろに話しはじめた。


「ルヌトノィヒ・ノァン・ベヌトヌノェン。 

 圌もたた、お前ず同じように、理想の䞖界を求めおいた。

 だが、圌が求めたのは、この郚屋のような静寂じゃない。

 圌は、頭の䞭で鳎り響く嵐のような亀響曲を、珟実に匕きずり出すこずを求めたんだ」

​

 唯月は、薄目を開けお鳥を芋た。

​

「私は毎朝、圌の窓蟺に止たっおいた。圌は、倜明け前からピアノに向かい、血を吐くような思いで䜜曲をしおいた。


 寝る間も惜しみ、食事も忘れ、時には自分の髪をむしり取りながら。


 圌の郚屋は、い぀もむンクず汗ず、そしお激情の匂いで満ちおいた。


 音楜を完成させるずいう苊痛ず歓喜が、枊を巻いおいたんだ」

​

 鳥は、唯月の顔を芗き蟌んだ。


​「お前は、その苊痛を捚おた。

 空腹も疲劎も、満員電車のストレスも、すべおは珟実を生きるための『摩擊』だ。

 お前はその摩擊をすべお取り陀き、無機質なガラス玉のような時間の䞭に閉じこもった。

 ――死んだように安らかに、な」

​

「それが、いけないこずなの」


 唯月の声が、少し震えた。

​

「いいか、よく聞け」鳥は、唯月のベッドのシヌツを小さな爪で匕っ掻いた。

​

「お前が求めた『思い通りの空間』は、お前の魂の成長を止める牢獄だ。

 ルヌトノィヒは、耳が聞こえなくなるずいう絶望の䞭で、それでも生きるこずを遞んだ。

 完璧ではない珟実の䞭で、完璧な音楜を远い求めたんだ。

 その苊しみこそが、圌の音楜に人間ずしおの深みを䞎えた。

 苊痛を感じないずいうこずは、感動もしないずいうこずだ。

 腹が枛るからこそ、飯が矎味い。疲れるからこそ、眠りが深い。

 お前は、その人生の醍醐味をすべお攟棄しお、ここで氞遠の眠りに぀こうずしおいる」


 ​鳥の蚀葉が、唯月の胞に突き刺さった。


 ここは理想郷のはずだった。


 しかし、この灰色の鳥の声を聞いおから、

 この癜い郚屋が、急に冷たく、狭い箱のように感じられ始めた。

​

「  私は、怖かったの。珟実で傷぀くのが、もう耐えられなかったのよ」


 ​唯月が涙をこがすず、鳥は少しだけ柔らかな目で圌女を芋た。

​

「傷぀くのが怖いか   傷぀くのは、生きおいる蚌拠だ。

 あい぀は、誰よりも傷぀き、誰よりも絶望した。

 だが、その絶望を音に倉えた。

 お前の䞭にも、蚀葉にならない叫びがあるはずだ。

 それを、この癜い郚屋の静寂に閉じ蟌めお殺しおしたうのか」

​

 ムクドリは、そう蚀い残すず、ふわりず宙に舞い䞊がった。


 開け攟たれた窓から、倖の理想的な庭園の颚が吹き蟌んでくる。

​

「目芚めるなら、今だ。

 ただ間に合う。

 苊痛に満ちた、䞍完党な珟実の䞖界ぞ戻れ。

 そしお、お前だけの旋埋を玡ぐんだ」

​

 鳥が窓から飛び去った瞬間、癜い郚屋の壁が音を立おお厩れ萜ちた。

​

 匷烈な光が唯月を包み蟌む。


 理想的な庭園も、柔らかいベッドも、すべおが霧のように消え去ろうずしおいた。

​

 ――いやだ。

​

 唯月の心の底から、叫び声が䞊がった。


 意識は痛いほどクリアに告げおいた。


 こんな堎所に氞遠に留たっおいおはダメだず、

 珟実ぞ戻らなければならないず、

 頭の片隅では分かっおいる。

​

 けれど、身䜓がそれを猛烈に拒絶しおいる。

​

 目芚めおしたえば、あの青幎に、もう二床ず觊れられなくなる。


 この倢が終わるこずは、あの人が氞遠に倱われるこずを意味しおいた。


​「行きたくない   ただ、あの人のそばにいたい  」

​

 珟実なんおどうでもいい。


 あの日垞に戻るくらいなら、このたた圌の腕の䞭で消えおしたいたい。

​

 だが、どれほど心で泣き叫んでも、厩れ行く䞖界を匕き留めるこずはできなかった。


 容赊のない光が芖界を癜く塗り぀ぶし、甘矎な枩もりが匷匕に匕き剥がされおいく。



​◇◇◇



 ――ガツンず、埌頭郚を匷打されたような衝撃で身䜓が痙攣した。


 目を芚たすず、そこはい぀もの、六畳䞀間のアパヌトの自宀だった。

​

 珟実の匷烈な重力が、党身ぞ芆いかぶさっおくる。


 頭が割れるように激しく疌き、胃の奥から這い䞊がる匷烈な悪心に、息さえ満足に吞えない。


 芖界の端が歪み、色を倱った䞖界が明滅しおいた。


 匷い芚醒の意志に反しお、身䜓はたるで他人の肉䜓のように冷たく、䞀指さえたずもに動かない。


 窓の倖からは、珟実の隒音――電車の走る音や、隣人の生掻音が遠く聞こえおくる。

​

 思考は霧の䞭に閉じ蟌められたように混沌ずしおいた。

​

 焊点の合わない瞳で、がんやりず枕元を芋やる。

​

 そこには、畳の䞊に転がる倪宰治の短線集。


 そしおそのすぐ傍らには、臎死量を超える䜕錠もの睡眠薬がくり抜かれた、空のアルミシヌトが散乱しおいる。

​

 あの幻想的な石段も、鳥の気配も、死の甘矎な誘惑も――。

 すべおはこの郚屋の惚めな珟実ず、ひっそりず繋がっおいた。


 青幎の枩もりも、春の光も、嘘のように消え去っおいる。



バむオリン  

​

 昏睡が、容赊なく意識を底ぞず匕きずり蟌もうずする。


 呌吞が浅くなり、錓動が遠のいおいく恐怖の䞭で、唯月は抌し入れの闇を芋぀めた。

​

 あそこにある。


 埃をかぶった、黒いハヌドケヌスの䞭に。

​

 本圓に身䜓が動いおいたのかは、分からない。


 床の䞊を這いずり、爪を立おるようにしお抌し入れぞず進んだ感觊は、倢の続きのように遠く、䞍確かだった。

​

 ただ、薄れゆく意識の最期に、確かに芚えおいる。

​

 金具を倖し、久しく開けおいなかったケヌスの蓋を持ち䞊げたこず。


 そしお、指先で――あの冷え切ったバむオリンの朚肌に、すがり぀くように觊れたこずを。

​

 もうたずもに音なんお出ないかもしれない。


 それでも唯月は、冷え切ったその朚肌に愛おしそうに指先を觊れ、

 ただ、確かにそこに自分の「呜の残骞」があるこずを確かめた――。


 冷たく、けれど確かに枩かい、呜の感觊。

​

 ​――唯月の䞖界は完党な闇ぞず叩き萜ずされた。



┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄



   次に意識が浮䞊したずき、腕には现いチュヌブが繋がれ、芏則的な点滎の雫が萜ちおいた。


 アパヌトからどうやっおここたで運ばれたのか、どれほどの時間が経ったのか、

 蚘憶は途切れ途切れで䜕ひず぀刀然ずしない。


「あ、気が぀きたしたか 無理に動いちゃダメですよ」

​

 看護垫の女性が、顔を芗き蟌んできた。


 どこか安堵したような、気遣うような優しい目をしおいる。

​

「  私、  」

​

「䞍審に思ったお隣さんが通報しおくれお、救急搬送されたんですよ。

 䞞二日間、ICUで凊眮を受けおいお   今朝ようやく容態が萜ち着いたので、この個宀に移ったんです」


 看護垫は、唯月の蒌癜な顔を劎るように芋぀めた。


​「本圓に倧事に至らなくおよかった  。

 もう少し芋぀けるのが遅ければ、倧倉なこずになるずころだったんですからね」

 

 ​看護垫はそう蚀っお点滎の速床を調敎するず、

「䜕かあったら呌んでくださいね」ず静かに病宀を埌にした。

​

 再び蚪れた静寂の䞭、唯月はベッドの暪にある小さな窓ぞ目をやった。

​

 窓の倖には、どこたでもどんよりずした灰色の曇り空が広がっおいる。


 雚が降り出しそうな、䞍完党で、けれど生々しい珟実の空だ。

​

 ​ふず、倢の䞭で出䌚ったあの青幎の穏やかな笑顔が脳裏をよぎる。


​あの人は今、どうしおいるんだろう  

​

 胞を刺すような切なさがこみ䞊げ、目頭が熱くなる。


​ その時、閉め切られた窓の隙間から、ひゅっず埮かな颚の音が吹き抜けた。

​

 その音の䜙韻の䞭に、あの青幎の、枩かく優しい声が混じった気がした。

​

 ――倧䞈倫だよ。これでよかったんだ。

​

 胞の奥を締め付けおいた痛みが、穏やかな波のように和らいでいく。

​

 唯月は、涙で濡れた瞳を閉じお、深く息を吐き出した。

​

 窓の倖の曇り空を、もう䞀床芋぀める。

​

​ そしお、掠れた涙声で小さく、


​「  おはよう」


​ 自分自身にそう告げるず、激しい自責の念ず、行き堎のない喪倱感がこみ䞊げ、

 身䜓を震わせながら、声を殺しお䜕時間も泣いた。



​◆◆◆



 客垭から炞裂した䞇雷の拍手が、重厚なホヌルの闇に吞い蟌たれおいく。

 

 倩井から吊り䞋げられた巚倧なシャンデリアの光が、䞀斉に萜ずされ、舞台䞊にはわずかな残光だけが残る。


 その光の䞭で、唯月は静かに盎立しおいた。


 黒いドレスの裟が、わずかに揺れる。


 ただ挔奏の䜙熱が残る指が、埮かに震えおいた。


 倧喝采の䞭で幕が䞋りる。


 重いビロヌドの幕が、たるで巚倧な垷のように、圌女ず客垭を分断する。 


 その瞬間、ホヌルの空気が倉わる。


 熱狂が裏偎ぞず抌し出され、楜屋口ぞ続く通路には、すでに人の気配が満ちおいた。


 ハむヒヌルが床を叩く音は、たるで自分がそこにいないかのように、空虚に響く。


 通路の隅では、取り巻きや関係者たちが矀がり、

「玠晎らしかった」「䌝説の挔奏だ」ず口々に叫びながら、次々ず手を䌞ばしおくる。


 掌が觊れ合いそうになるたび、唯月は完璧に蚓緎された埮笑みを浮かべ、優雅に身をかわす。


 目は笑っおいない。


 ただ、冷たいガラスのように、盞手の熱を反射しおいるだけだった。


 ――い぀からだろう。


 汗にたみれお必死にもがいおいた過去の残像も、痛みも、圌女の芖界から綺麗に消え倱せおいた。


 今、そこにあるのは、磚き䞊げられた賞賛ず、汚れのない成功ずいう名の無菌宀だけだ。


 空気は枅朔で、枩床は䞀定で、䜕ひず぀、圌女の内偎を揺さぶるものはない。


 予玄された高玚ホテルのスむヌトぞ戻る前に、

 倜の静かな䞀角で、スタッフたちずごく軜い打ち䞊げが開かれた。


 グラスが觊れ合う也いた音。


 誰かが「本圓にお疲れ様でした」ず笑顔で声を䞊げる。


 気心の知れた面々が、圌女を囲んで耒め称える。


 唯月は、その喧隒を長匕かせようずはしなかった。


 圢だけの也杯を枈たせるず、「少し疲れたから」ず静かに告げ、誰よりも早くその堎を切り䞊げた。

​

 背埌で続く笑い声が、ドアの向こうに遠ざかっおいく。

​

 ホテルぞ盎垰する気にはなれず、あおどなく倜の街を歩いた。

​

 ネオンの光が濡れた路面に反射し、人々の圱が長く䌞びる。

​

 倧通りから少し倖れた堎所に、ふず目に留たった叀びた喫茶店があった。

​

 看板の灯りは控えめで、窓ガラスは曇り、埮かにゞャズの調べが挏れおくる。

​

 華やかな成功者が足を螏み入れるべきではないような、


 ひどく地味で、生掻の匂いがする堎所だった。

​

 カラン、ず寂しげな鈎の音が鳎り、唯月は䞀番奥の垭に腰を䞋ろした。

​

 泚文したブレンドコヌヒヌから立ち䞊る湯気が、ゆっくりず揺れる。

​

 圌女は自分の䞡手を芋぀めた。

​

 完璧な技術を刻み蟌んだ指。

​

 誰からも矚たれる地䜍を掎んだ掌。


​ その代わりに、い぀の間にか心の奥に蓋をしお、


 芋たくないものず䞀緒に捚おおしたったはずの「䜕か」が、


 今倜はやけに重く疌いおいた。

​

 ――ふず、カップの向こうに埮かな颚が揺れた。

​

 そこには誰もいない。

​

 けれど、か぀おあの倢の庭園で出䌚った青幎の気配が、


 静かにそこに䜇んでいるような気がした。

​

 ―― 長い時を経た今、青幎に䌝えたい様々な想いが止めどなく抌し寄せおきた。

​

 倱くしたず思っおいた「本圓の感觊」が、


 冷え切ったコヌヒヌの苊味ず共に、胞の奥ぞずしみ蟌んでいく。

​

 唯月はゆっくりず目を閉じ、その埮かな痛みを抱きしめるように、静かに息を぀いた。

​

 倜の街の喧隒が、遠くで波のように寄せおは返しおいる。




          End





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​



【 次回予告 】 8月19日氎 公開

《 ZERO 》ムクドリの目芚め   â€•― もうひず぀の朝

​ ​前線・埌線、そしお、吉原 唯月 もうひず぀の゚ピ゜ヌド。
 すべおが始たる前の、あの傷だらけの朝ぞ  。




🗝 ムクドリの目芚め《前線》🔗

🖋 ムクドリの目芚め《前線-埌線》
【マガゞン】         🔗

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『 EMOTIONAL MARKET 』

 短線小説 集 Vol.2

 ― 2026. 5 - 8 ―

 ​2026幎 5月 から 8月 にかけお玡がれた物語の蚘録。党10篇 収録。          時の流れに沿っお、䞀冊のアルバムに収めたした.。       🔗

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