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​《ZERO》ムクドリの目覚め ―― もうひとつの朝

​夢の理想郷を追放され、引き戻されたのは、惨めな現実の世界だった。

誰も祝ってくれない24歳の誕生日。
ボロボロの体で抱きしめた、冷たくも温かいバイオリンの木肌――。

失ったからこそ、この世界は色づく。 

――これは、ひとりの女性が「生きること」を、もう一度始める朝の物語。



 ─── ・ 。゚☆: *.☽ .* :☆゚. ───



 父親の面会に訪れていた総合病院の西病棟。


 静まり返った廊下を歩いていた芹川和也は、ある個室の半開きのドアの前で、思わず足を止めた。


 中から漏れていたのは、殺伐とした不協和音のような二つの声だった。


『……警察には何て言ったんだよ。世間体もあるんだぞ』


『仕方ないでしょう、あんな大量に薬飲んで……。バイオリンなんて、やっぱりやめさせておけばよかったのよ』


 中年夫婦の、困惑と保身、そして生々しい動揺。


 しかし、和也の目を奪ったのは、その奥のベッドの上で、白いシーツに埋もれるようにして静かに横たわる、一人の女性の姿だった。


 病室の入口のネームプレートには、無機質に彼女の現実が記されている。


 ―― 吉原 唯月 (よしはら いつき)


 点滴の針が刺さった蒼白な腕。


 部屋の隅には、まるで捨てられた遺物のようにポツンと置かれた黒いバイオリンケース。


 彼女は両親の怒号と嘆きに、口答えもせず、ただ固く目をつむり、じっと耐えていた。


 和也は胸を突かれ、息を呑んだ。


 彼女は、何か純粋な輝きを秘めている。


(……なんて、美しいんだ)


 あらゆる偽飾を奪われ、傷だらけの生の淵に立たされた人間の放つ、凄惨な気高さと美しさだった。


「吉原唯月」という存在そのものが、和也の心を強烈に揺さぶった。


 彼女が、一体どんな音を鳴らすのか。


 どんなものを抱えて生きているのか。


 和也は、ただ立ち尽くしたまま、その名の刻まれたネームプレートと彼女の横顔を、脳裏に焼き付けていた。




┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄




「吉原さん、お一人で大丈夫ですか?……本日、ご両親はご都合がつかなかったみたいですが」


 看護師の気遣う声に、吉原唯月は、ただ小さく頷いた。


 握りしめた診察券と、肩に下げた小さな鞄。片方の手には、あの黒いバイオリンケース。


 ――アパートから警察によって運び出され、病院の預かり品となっていたものだった。


 自動ドアが、静かな機械音を立てて左右に開く。


 夏の終わり。朝の陽射しが病院のロータリーを白く満たす。


「……っ」


 一歩踏み出した瞬間、唯月は胸を突くような息苦しさに足をすくませた。


 背後を、笑い合いながら面会帰りの親子が通り過ぎていく。


 忙しなくロータリーを横切るタクシー。


 まぶしすぎる光。タイヤの走行音。排気ガスの匂い。


 夢の中の完璧な庭園には存在しなかった、雑多で、リアルな「世界の重さ」が全身へのしかかってくる。


(戻ってきてしまった……こんな、みにくく惨めな私で……)


 病院前のバス停へと向かうアスファルトの上。

「生きていることの現実の重力」に、視界が揺らいだ。


 唯月は、その場に立ち尽くした。


 気後れしたように、バイオリンケースを握り直す。


 重い足どりで、バス停へと歩を進めた。


 やがて、眩しく照りつける陽射しの下、ロータリーの停留所に大きな路線バスが滑り込んできた。

 プシューッと不機嫌なエアブレーキの音が響き、前扉が開く。


 乗り込もうと右足を踏み出した。


 階段(ステップ)の段差が、夢の中で挫いた足首の古い記憶を呼び覚まし、膝が微かに震えた。

 冷たい金属の手すりを固く握りしめ、整理券を引き抜く。

 バスの車内には、買い出し帰りの主婦や、退屈そうにスマホを眺める学生たちの姿があった。


 誰一人、自分を見ようともしない。


 世界は自分を中心に回ってなどおらず、ただそれぞれの無関心で愛おしい生活の営みがそこにある。

 空いていた後方の席に深く身を沈めると、床底から低く響くディーゼルエンジンの振動が、痺れた身体の奥まで重く伝わってきた。

 一週間前、集中治療室に運ばれてきた時の記憶は無い。


 それでも、不快な酸素マスクの感触は残っていた。


 意識が濁り、暗闇の中を漂っていたとき、耳の奥を激しく揺さぶったのは、


『お前は……お前はバカか!!』


 涙と汗でぐしゃぐしゃになった父親の気配。後ろで叫びながら崩れ落ちていた母親の影。


 現実の中へと引きずり戻された瞬間だった。


(私は……なんて醜く、救いようのない愚かな存在なんだろう)


 唯月は自分という人間の「惨めさ」を、消えてしまいたくなるような自己嫌悪とともに噛みしめていた。


 車窓の隙間から、排気ガスに混じって、わずかに秋の気配を含んだ風が吹き込んでくる。

(冷たい……でも、これが『生きている温度』なんだ)

 ふと見上げた街路樹の隙間から、数羽のムクドリの群れが頭上を掠め、羽ばたいていくのが見えた。


 ​あの日、夢の中で冷徹に、けれど確かに自分を現実へ突き戻してくれた、あの灰色の鳥たち。

「歩ける。戻れた。……私は、まだ続けられる」

 途切れかけていた命の芯に、かすかな熱が灯る。


 希望は、この不完全で傷だらけの現実の中でしか生まれないのかも知れない……。

「次は、小ヶ崎 団地前――」

 無機質なアナウンスに促され、唯月はバイオリンケースを抱え直してバスを降りた。




┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄




 ​古びたアパートの階段を一段ずつ踏みしめ、鍵を回して六畳一間の薄暗い部屋に入る。

 そこには、あの青年の姿も、美しいドレスもない。


 ただ、以前よりも無邪気さを失った、静かな現実があるだけだ。


 ​その場に座り込み、抱えてきたバイオリンケースを静かに開ける。


 冷えた木肌に指先を触れると、指先が、かすかに震えた。

 ふと視線を上げた先の壁、卓上カレンダーの「9月3日」の数字に赤丸がついているのが目に入った。

(あぁ……私、今日で24歳になったんだ)

 誰も祝ってくれない。


 ケーキもない。


 静まり返った部屋で迎える、24歳の誕生日。


 不思議と惨めではなかった。


 胸の奥にあったのは、深く、どこか愛おしい寂しさだった。


 唯月は、あの夢の理想郷へ置いてきたものを、そっと思いうかべていた。


 ……今はまだ疲れすぎている。


 涙で滲む視界の中で、冷えた木肌にもう一度指を触れた。


 ――24歳。


 その朝、彼女ははじめて、自分だけの「始まりの朝」を迎えた。






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   ――  おわりに

 前編、後編、そして《ZERO》まで、お付き合い頂きありがとうございました。

 あの病室で和也を撃ち抜いたものが、彼女自身をも凌駕した。

 そして、それは理想郷を経て手にした、彼女の必然だったのかも知れません。






🗝️ ムクドリの目覚め《前編》🔗

🗝️ ムクドリの目覚め《後編》 🔗 

🖋️ ムクドリの目覚め《前編-後編》     世界的バイオリニスト、芹川唯月  ( せりかわ  いつき )
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