“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第289回目は、スーパープレーについて、独自の梵鐘を鳴らす――。
二塁手がダイビングキャッチで打球を好捕すると、倒れ込みながらグラブトスで二塁へ送球。ベースカバーに入った遊撃手が、その送球を素手でつかみ、一塁へ転送して4-6-3のダブルプレーが完成する――。
夏の甲子園(第108回全国高校野球選手権)で話題になった白樺学園の二遊間のスーパープレー。運よく僕は、リアルタイムでその瞬間を目撃した。聞けば、二人ともまだ二年生だという。毎日とてつもない練習をこなしてきていることは想像に難しくない。
僕は思案した。
日ごろから、グラブトスで送球したり、素手でキャッチしたり、そういった練習をしているんだろうか? おそらく、そんなピンポイントな練習はしていないと思う。その代わり、毎日、何百というノックを受け続けてきたからこそ、咄嗟にできたんだろうなって。あの二遊間が生んだ素晴らしいプレーは、鬼気迫る試合展開の中でクラブトスをしなければいけないような状況が起きるほど練習した、そのたまものだと思う。
例えば、芸人が舞台でネタが飛んでしまったとき、咄嗟の一言が出るか出ないかは、日ごろの積み重ねがモノを言う。好き好んで、「舞台で飛んでしまったときの練習」をするような芸人はいない。
ミュージシャンがステージで、ギターの弦が切れてしまったとき、どんなパフォーマンスで観客を湧かすことができるか。それだって日々のステージの収斂の果てにしか、正解に近づくことはできない。弦が切れることを想定して練習をするヒマがあるなら、その分、魂を削って音を奏でていた方がいい。スーパープレーは、失敗や恥を糧にし、自分の中で反芻したときに、ミラクルとなって自分を救う。4-6-3のダブルプレーは、チーム自体も救ってしまった。
千本ノックをすることに、合理性を見出すことは難しいかもしれない。ただただ疲弊し、体を酷使させているだけとも受け取れる。でも、千本ノックを受けた人にしかわからない感覚や、打球に飛びつき何をするかといった瞬時の判断は、千本という非合理的な数字からしかインストールできないような気がする。頭ではなく体が先に動いてしまう感覚は、言葉では説明できない体験の中でしか養えないものではないのか。
『一撃必殺』なんて幻想に過ぎなくて、99発外して1発当たるのが現実だ。1発当たったことで、それまで外してきた99本が報われ、価値が生まれる。やり続けるしか、「どうしてこんなことをしなければいけないんだ」に光は当たらない。
つくづくお笑いは、功罪が表裏一体の職種だと思う。99発外しても1発当たるかもしれないのだから、そこに夢を見てしまう。
スポーツの世界であれば、圧倒的な白黒があるし、達成感を感じられるステージだって段階的にある。例えば、学生の頃から中距離、長距離の陸上をしてきた選手の中には、「箱根駅伝を走ることができれば、それで十分」と考える人だっているだろう。上を見ればキリがなく、自分よりも才能がある人もいる。だとすれば、自分なりに満足できる場所に到達さえできれば、新しいステージに挑戦するといった現実的な判断がつきやすくなる。
でも、お笑いはなかなかそれがない。賞レース? 賞レースで結果を出したからといってやめる芸人はいないだろうし、そもそも結果を出しても売れる保証はない。満足感を得られるような明確なゴールが、「売れる」という抽象的で漠然とした概念しかない。やめどきさえわからない中で、1発当たるかもしれないという夢がある。そして、その価値は99発外したことによって生まれるかもしれない――という、「今この売れていない時間にも意味がある」と都合よく解釈できてしまう魔力さえ発動している。
お笑い芸人は、永遠に終わらない千本ノックを受け続けるしかない。倒れるまでやるしかない。このご時世に、なんて非建設的な練習をしているんだろうと思う。合理的なことを口にする若手芸人が増えているのも納得だ。でも、結局この世界に予定調和はない。千本受けた先にしか、4-6-3のダブルプレーは完成しない。
















