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梅原猛「黄泉の王」改めて読んでみた。やっぱり、スゴイ!

今、巷に溢れている古代・中世史の解説や新説本の大本(おおもと)は
梅原猛の著作群にあると言うことを改めて私的には思った。

50年前の著作である。
「高松塚に埋葬されているのは弓削皇子である」ということを丁寧に論証している。それでも、100%でないと言っているが。

⇧ の記事に抜けているのは、有力な皇位継承候補者でありながら、死に追いやられ、怨霊とならないようにねんごろに弔わなければならなかったのは誰だという視点だ。

「隠された十字架」「水底の歌」「黄泉の皇子」の三部作で、『古事記』『日本書記』『万葉集』を読み解いてくれている。
仮説を立証する学者の慎重で丹念な理論の組み立てはスゴイ。

万が一、万が一間違っているとしても、古代史を学べる。
これよりスゴイ論証で氏の推論をくつがえした者がいたのか。

たとえば梅原猛の説のこの部分は、続日本紀により否定されるという論考がある。
「権力側が作った国史は、自己正当化によってゆがめられている、都合の悪いことは書かない。」という歴史学者の立場自体を梅原氏は批判している。梅原氏へ反論となるのだろうか。

日本書記は、藤原不比等が書かせた自己正当化の書であり、多くの藤原氏腹以外の系統の多くの皇子を死に追いやっている。その死を胡麻化したり書いていない。のちに書かれた古事記と万葉集がひそかにその嘘を暴いているという説は、最近では関裕二氏も多くの著作で述べている。

拙いまとめですが、
他の古墳よりはるかに小さく、壁画(皇位に付く儀式)のある古墳は無い。
推理の為の三つの条件は
➀身分は天皇に近い。
②火葬されていないので持等統天皇の前に死んでいる。藤原京にあり、奈良遷都’(710年)より前と思われる。
③反逆者である。(頭蓋骨が無く再生できない三種の神器の刀に刃が無い)

240ページにわたって、主に消去式で推理している。

 古墳の被葬者を問題にすることは、この被葬者の孤高さを、古墳の孤高さとの対比において理解することでなければならぬ。この古墳の持っている特殊性を、その背後にある歴史の流れとの関連において理解することにならねばならぬ。
 このような手続きをへて、この古墳は必要かつ充分に理解されたことになる。ただ、不適格者を消すだけでは、必要条件のみあっても、十分条件が欠け、その論証には、人間の血肉が通っていないのである。
 このような困難なことをお前がやるのかと、人はあきれていうかもしれない。そうだ、と私は答える。ともかく、やってみよう。成否の判定は、現在及び後世の読者に任せるに他はないが、私の心には、かねてから思っている人がある。それは高松塚の発掘以前、『万葉集』を愛読して、私が心にひそかに思っている人であり、その人のことをいつかは書いてみたいと思っていた人である。高松塚の多くの研究書を読んで、私はどうも、高松塚を、その人が葬られている墓だと考えざるをえなくなったのである。もしその人が、そこに葬られている人としたら、運命はあまりにも残酷すぎると思うが、どうもそう考えるより仕方ないと思う。

黄泉の王  
101ページ

今日はここまでにしましょう。
後半は明日以降にします。

少しだったのですが、それでも仕事に行っていないので、余裕があります。
本格的な本を再読できるのが楽しいです。
いえ、歴史学者の専門的と言われる取り組み方を批判しているのです。大胆な推論をたて証明していく姿勢に引き込まれます。

ではまた。



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