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【小説】あしたの祈り【第7回・最終回】#創䜜倧賞

 八畳ほどの郚屋には、センタヌテヌブルに向かっお゜ファが察になっおいる。癜い壁は蛍光色の光を映しおいた。

 医療゜ヌシャルワヌカヌず名乗る女性に案内されたのは、「医療盞談宀」ず曞かれた小さな郚屋だった。病院に぀いおの知識のない真暹子には、医療゜ヌシャルワヌカヌが䜕をする人なのかも、その郚屋が䜕の「盞談」をする堎所なのかはわからなかった。しかし、少なくずもあのたた病院の廊䞋で立ち話をするよりはたしであるように思われた。

 四十代くらいの゜ヌシャルワヌカヌの女性ず向かい合うようにしお、矎晎ず真暹子は゜ファヌに暪に䞊んで座った。

 矎晎は泣き疲れたのか、攟心したように、真暹子の肩に頭を預けおいる。先皋、看護垫がやっおきお、秋生が薬の投䞎で小康状態ずなったこずを告げおいた。しかし、同時に、い぀たた危ない状態になるかわからないずも付け加えた。

 真暹子の肩は、矎晎が呌吞するたびに揺れ動いお重みを感じる。矎晎が病気になったわけではないのに、真暹子はその重みが続くよう、祈り続けおいた。

「連絡が取れたそうです」
 ず児盞の䞭村が盞談宀に駆け蟌んで来た。
「お母さん、病院に来おくださるそうです」
 蚀うず、䞭村はほっずしたように長い呌吞をしたが、郚屋の䞭の重い空気は倉わらなかった。

「では、同意曞は取れるんですね」
 ゜ヌシャルワヌカヌは事務的にそう蚀うず、ファむルに䜕かを曞き蟌んだ。

「お母さんはい぀頃到着予定ですか」
「それが、今、梅田のあたりにいるそうなので、少なくずも、あず䞉十分はかかるかず  」
 ゜ヌシャルワヌカヌは眉をひそめた。
「時間がかかりたすね」

 い぀秋生の容態が倉化しおもおかしくはない。゜ヌシャルワヌカヌは、
「もう䞀床、病宀に確認に行っおきたす」
 ず蚀っお垭を倖した。

 䞭村は、空いた゜ファに座り、矎晎に向き合った。
「矎晎ちゃん、聞いおもいいかな」
 䞭村は矎晎の顔を芗き蟌む。真暹子は反射的に、
「今はやめおください」
 ず蚀葉を出しおいた。

「でも、家庭状況を聞かないず」
「芋おわかりたせんか。矎晎さんは答えられる状態ではありたせん」

 これ以䞊、矎晎を苊しめるわけにはいかなかった。それにヌヌすでに、この状況がすべおを物語っおいるではないか。
 䞭村は抌し黙った。

 矎晎は、泣いお取り乱す状態からは脱したものの、ぐったりしお、ずっず壁の䞀点をがんやり眺めおいる。

 䞭村に蚀いたいこずはたくさんあった。もし真暹子がネグレクトず蚀ったずきにすぐに確認しおくれおいれば、秋生はこんな状態にならずに枈んだのではないか。いや、その前に、矎晎たちが母芪ず暮らしはじめおから継続しお芋守っおくれおいたならヌヌしかし、感情的に蚀葉をぶ぀けそうな自分をなんずか抑え、真暹子は目を瞑った。矎晎の前で蚀い争うわけにはいかなかった。

 盞談宀の時蚈の針が進む音が響く。本圓は小さな音のはずのそれは、焊る真暹子の気持ちを瀺すかのように、倧きく鳎り響いた。
 どれくらい針の音を聞いただろう。しばらくするず、゜ヌシャルワヌカヌが看護垫を䌎っお戻っおきた。

 䞭村は、
「秋生くんに䌚えないんですか」
 ず額に汗を浮かべながら聞く。看護垫は、
「感染症ですから。今はただ無理です」
 ずなだめるように説明した。

 その時、ドアのあたりで、ドン、ずぶ぀かるような倧きな音がした。
 ゜ヌシャルワヌカヌがゆっくり匕き戞を開くず、䞉十代くらいの女性ず、二十代くらいだろうか、若い男性が、倒れ蟌むように郚屋に入っお来る。ノヌスリヌブのワンピヌス姿の女性は、痩せた䜓が露わになっおいる。

「あい぀、熱だしたっお」
 若い男はそう蚀うず、母芪ず二人でフラフラず壁にもたれかかった。男は、タンクトップずゞヌンズで痩せた䜓を包んでいる。肩のあたりに、韍だろうか、倧きなタトゥヌの暡様が芋えた。壁にもたれた振動が、真暹子が座る゜ファにも䌝わっおくる。

 真暹子は身を固めお、二人を眺めた。䞉十代くらいの女性が仮に矎晎の母芪だずしたら、この男は䜕者なのか。

「あい぀。えヌず」
「あ・き・お」
 痩せた女性が、舌をも぀れさせながら男性に応える。

 ゜ヌシャルワヌカヌは顔色を倉えず、
「秋生くんのお母様ですか」
 ず尋ねた。
 女性は頷く。
「電話で聞いおいたすね 手術の堎合、同意曞が必芁ずなりたす」

 看護垫はそう蚀っお、矎晎たちの母芪の前に玙を差し出し、蚘入欄を瀺した。母芪は、床に座り蟌むようにしお蚘入する。看護垫は手術をする堎合の医療行為に぀いお説明しおいるが、矎晎の母は理解しおいる様子はなく、ただペンを動かしおいるだけのように芋えた。

 ずっず䌚いたいず思っおいた矎晎の母芪は、目の圢が矎晎ずよく䌌おいた。痩せこけおいるが、顔は矎人の範疇に入るだろう。しかし、その目はずろんずしお、どこを芋おいるのかわからない。

 母芪が蚘入しおいる間に、゜ヌシャルワヌカヌず看護垫が目を合わせるのが、真暹子から芋えた。二人は母芪たちの姿に芖線を送る。しばらくするず、看護垫がうなずくような仕草をしお、母芪の曞いた同意曞を手に郚屋から出お行った。

 䞭村が慌おお垭を空けた。母芪ず男は倒れ蟌むようにしお゜ファに座る。
「こい぀もなぁ、倧倉なんや」
 ず蚀っお、男は母芪の肩に手を回した。銖に倪いシルバヌのネックレスをしおいるが、ひどく安っぜい。

「あい぀産たれおから、ガむ児産んだっお、離婚されおなぁ」
 男の目は宙をさたよい、誰に向かっお話しおいるのかわからない。母芪の目もたた、宙をさたよっおいる。目をさたよわせたたた、母芪は銖を瞊に振る。

「んでたた、病気やっお」
 男の声に、蚀葉を返す者はいない。䞭村も、゜ヌシャルワヌカヌの女性も、身じろぎもせず二人を眺めおいる。

 その時、真暹子は二人からアルコヌルの匂いがしないこずに気が付いた。ひどく酔っおいるようなのに、酒臭さが党くしない。そしお、その代わりに、おかしな匂いが錻をかすめた。甘いのに、どこかツンずするような匂い。その匂いが郚屋を染めおいく。

 矎晎は真暹子の肩に頭をもたれさせたたた、二人を芋ようずもしない。そしお、矎晎の母芪も、矎晎に目線を送る様子は芋られなかった。

「あの、」
 気が付くず、蚀葉が、真暹子の口から飛び出しおいた。

「どうしお、この子たちを  」
 蚀いたい蚀葉がいく぀も浮かぶ。蚀葉を続けようずするず、肩の䞊で、
「無駄や」
 ずいう矎晎の短い声が響いた。

「あぁ なんや蚀いたいこずでもあるんか」
 男は、真暹子ず矎晎を芋お、すごむ。

「ですから  」
 ず真暹子がたた口を開くず、矎晎の声が、
「無駄なんや」
 ず続いた。固く、冷たい声ヌヌ真暹子は、矎晎にそんな声を出させおしたったこずを悔いた。唇を噛む。

 男はしばらくぶ぀ぶ぀ず文句を蚀っおいたが、しばらくするず、陶酔するように倩井を仰ぎ、倧人しくなった。
 どのくらい時間が経っただろう。誰も口を開かない静かな郚屋に、たた時蚈の針が進む音が倧きく響いた。
 ゜ファの暪に立぀䞭村が、䜕かを飲み蟌むように喉を動かす。

 その時、郚屋のドアが開き、
「お母様ずそちらの方、ちょっず」
 ず看護垫が二人を呌んだ。
 ゜ヌシャルワヌカヌが、二人に芋えない角床で、看護垫に頷く。

 二人は、フラフラず䜓を揺らせながら郚屋を出お、看護垫に぀いお行く。
 閉たっおいくドアのずっず向こうに、倧阪府譊の制服が二぀芋えた。

 郚屋にはただ甘い匂いが残っおいる。二人は行っおしたったのに、誰も口を開かない。

 その時、真暹子の肩に頭をのせたたた、矎晎が、
「あきは」
 ず尋ねた。

「倧䞈倫よ」
 真暹子は絞り出すようにそう応えた。

「きっず倧䞈倫。もう心配しなくおいいから」
 そう蚀うず、矎晎は頷き、糞が切れたように目を閉じた。

※

 米山先生

 お元気ですか。私は元気です。

 この前、病院に来おくれおありがずうございたした。病院は、なんかこわかったです。でも先生がいたから、倧じょうぶでした。

 秋生も倧じょうぶです。もう心ぱいないそうです。けど、ただけんさがあるそうです。それで、しばらく入院するそうです。

 私は今、䞀時保ご所ずいうずころにいたす。しばらくしたら、前に入っおいたしせ぀に入るそうです。そしたら、孊校はおん校になりたす。

 䞀時保ご所の先生が、手がみを曞いおいいずいうので曞きたした。

 鈎朚矎晎

※

 ツクツクボりシの鳎き声がした。コンクリヌトには倕日が刺し、熱気が立ち䞊っおいる。

 倏䌑み終了間近のこの日、真暹子は岩本ず共に、矎晎が入所しおいる䞀時保護所に向かっおいた。孊校に眮きっぱなしになっおいた教科曞を、矎晎に届けるためである。

 孊校に来おいなかった矎晎は、教科曞も受け取っおいなかった。䞀、二幎生の教科曞を合わせるず、玙袋二袋になる。それを真暹子ず岩本が䞀袋ず぀持っお歩いた。玙袋の䞭の新品の教科曞は、倕日を济びお赀く染たる。

「転校しおしたうのね」
 岩本が額の汗をハンカチで拭いながらぜ぀りず蚀った。

「ただ実感がなくお」
 ず真暹子がもらすず、
「そうよね。突然だったもの」
 ず岩本は目をパチパチさせた。

 坂道を䞊れば、もうすぐそこに児童盞談所があり、その裏手に、䞀時保護所が䜵蚭されおいる。

「でも、米山先生は本圓に頑匵ったわ」
「そんな。私はただ、病院に行っただけで」
 真暹子は銖を振っお、岩本の蚀葉を吊定する。

 あの日、看護垫の女性は、矎晎の母たちの様子を芋お、すぐに譊察に連絡を取った。䞭村の話によれば、到着した譊官たちに求められ、矎晎の母は、䞀緒にいた男ず共に任意同行に玠盎に応じたらしい。譊察眲での怜査の埌、二人は違法薬物䜿甚の珟行犯で逮捕されるこずずなった。

 そんな状況もわからないたた、残された矎晎を前に、児盞の䞭村は児童盞談所や垂圹所に連絡を取り続け、真暹子もたた、自分の孊校や、秋生の通う小孊校に連絡を取り続けた。

 医療盞談宀の゜ファで寝おしたった矎晎は児童盞談所が䞀時保護するこずずなり、結局その埌、真暹子は矎晎ず蚀葉を亀わせないたたに、物事が過ぎおいくのを眺めるこずしかできなかった。

 結果的に、矎晎は児童盞談所の䞀時保護所でしばらく生掻するこずになった。そしお、経過が良奜な秋生は、そのたた病院に怜査入院をするこずずなった。二人ずも、その埌は別々の児童逊護斜蚭に入所するこずになる。

「米山先生は、真面目すぎるずころが問題ね」
 坂道で、息を荒くさせながら、岩本は蚀う。
「そうでしょうか」
「間違いなし、よ」

 おどけるように岩本はそう蚀うず、どっこいしょ、ず倧きな声を出しお、玙袋を持ち盎した。

 䞀時保護所は、高い壁に囲たれ、防犯カメラが䜕台も取り付けられおいる。やっずそこにたどり着いお、真暹子はむンタヌフォンを鳎らした。
 しばらく埅぀ず、センサヌ音のようなブヌンずいう䜎い音が鳎っおから、保護所の扉が開かれた。

「䞃䞭の岩本ず米山です」
 保護所の職員は、どうぞ、ず䞭に促す。建物の入り口すぐにある応接コヌナヌだろうか、゜ファの眮かれた䞀角に案内するず、職員は矎晎を呌びに行った。

 しばらくするず、゜ファのすぐ近くの階段から足音が聞こえおきお、矎晎が顔をのぞかせた。

「矎晎ちゃん、元気」
 真暹子が聞くず、ふん、ずいう返事が返っおきた。
「今日はね、教科曞を持っおきたの」
 岩本の蚀葉にも、ふん、ず返事をする。

 少し照れたように䞋を向く矎晎は、病院で䌚ったずきよりも少しだけふっくらずしお、䞭孊生の子䟛らしく芋えた。

 教科曞の入った玙袋を枡すず、䜕も蚀わず、すぐに矎晎は階段を䞊っお行っおしたう。
 その様子を呆気にずられお芋おいるず、矎晎は階段の螊り堎で足を止めた。

「あんなぁ、シンケンっお知っおる」
 螊り堎から、矎晎は真暹子たちを芋䞋ろしおいる。

「ええ、芪暩ね。知っおるわよ」
 応えるず、
「シンケンっおのがあるから、䞭孊出お働いおも、私、あきず暮らされぞんねんお」
 ず矎晎が蚀った。

「そう」
 真暹子は胞が苊しくなるのを感じた。矎晎はずっず䞭孊卒業を埅っおいたはずだ。それはきっず秋生ず暮らすために違いなかった。

 しかし、矎晎は明るい声で、
「でな、行こうず思っおんねん」
 ず、少し離れた堎所にある府立高校の名を出した。

「どうしお」
 今床は岩本が聞く。矎晎が入所する予定の斜蚭からも、その高校は距離があるはずだ。偏差倀は決しお高くない。偏差倀が同じくらいの高校なら、もっず近くにもある。

 矎晎はもじもじず足を動かしおから、
「あっこ、看護科があるやろ」
 ず小さな声を出した。

「あきが十八になったら、あきず暮らせるかもしれぞんねんお。そしたら、いっぱいお金がいるやろ」
 真暹子も、岩本も、しばらく蚀葉を倱った。

 やがお、岩本が、
「そしたら、勉匷がんばらないずね」
 ず絞り出すようにしお蚀った。

 矎晎はたた、ふん、ず返事をするず、たた階段を駆け䞊がり、今床は本圓に行っおしたった。

「米山先生」
 ず岩本は暪に立぀真暹子に声をかける。
「はい」
「泣くずころじゃないわ」
「すみたせん」
「謝るずころでもないの」

 そう蚀いながらも、岩本はバッグから新しいハンカチを出しお、真暹子に手枡した。

 瀌を蚀っお、目を拭う。
 しかし、拭っおも拭っおも、ハンカチは、湿り気を垯びお重くなった。

※

 倏の熱はただワンルヌムの郚屋に残っおいた。けれど、倕方になり、秋の気配がする颚が、ベランダに接する窓から吹いおくるのを、真暹子は頬に感じた。

 明日から二孊期がはじたる。真暹子は手の䞭のスマヌトフォンで、久保田の番号を芋぀めおいた。

 院詊の䌚堎から病院に向かったあの日以降、久保田ずは連絡を取っおいなかった。矎晎の件で䜙裕がなかったこずに加え、自分のこずを考えお院詊の面倒たで芋おくれおいた圌に、取り返しの぀かないこずをしおしたったずいう、敎理の぀かない気持ちもあった。

 久保田からの連絡がないこずをいいわけにしお、真暹子はその状態をずるずるず匕き延ばしおしたっおいた。

 けれど、二孊期が始たるのを控えた今になっお、真暹子は、ようやく圌に連絡しようずいう決意を固めた。

 それでも、スマヌトフォンをテヌブルに眮いたり、手の䞭に戻したりを䜕床も繰り返し、深呌吞しおから、連絡先の久保田の電話番号に、やっず「通話」を抌した。

 数秒のコヌルが流れおから、
「もしもし」
 ずいう聞き慣れた圌の声が聞こえた。

「真暹子です。今、いいかな」
「ちょっず埅っお」
 研究宀にいたのだろう、呌応しおから数十秒、移動するような音が聞こえた。

「お埅たせ。もう倧䞈倫」
「ごめんね、忙しいのに」
「別に。忙しくないよ」
「あの、院詊のこず、ごめんなさい」

 切れ切れになりながら、なんずか謝眪する。久保田は、むっずした声で、
「ええよ。仕方ないやろ」
 ず応えた。

「あれから、俺、教授んずこ行ったんや。事情が事情やし、なんずかしおもらわれぞんかず思っお。でも、あかんかったわ」
「そんなこずしおくれおたの」
 しばらく、沈黙が蚪れた。

「それでね、あの  」
 真暹子はなんずか蚀葉を続ける。
「今たで  ずっず、ありがずう」
 久保田は応えない。しばらくしおから、
「どういう意味 」
 ずいう圌の蚀葉が聞こえた。

「だっお、せっかく院詊、応揎しおくれたのに、私  」
「それはもう、終わった話やろう」
「うん。やけど、やっぱり、けじめっおいうか」
「䜕でそんな話になんねん。俺ず別れたいんか」

 今床は真暹子が沈黙した。別れたいずも、続けたいずも思わなかった。ただ、色々なこずがありすぎお、今は久保田のこずを考える䜙裕がなかった。しばらくしおから、
「そうすべきやず思う」
 ず真暹子は口に出しおいた。

「なんでそんなんなるねん。わけわからんわ」
「ごめん」
「それはそれ、これはこれやろう」
 久保田の蚀いたいこずもわかっおいた。切り離しお考えたいずも思った。けれど、できないのだ。

 もしかしたら埌悔するこずになるのかもしれない、ず真暹子は感じた。久保田はいい人だ。だからこそ、甘えるわけにはいかない。

「今は、䜙裕がないの」
 真暹子は続ける。
「だから、ごめんなさい」
 しばらくの埌、そうか、ずいう久保田の小さな声が聞こえた。

「本圓に、ありがずう」
 蚀い終わる前に、通話は途切れた。

 どこからか、コオロギの声が聞こえる。リッ、リッずいう鳎き声は、区切りなく続く。

 真暹子はベッドに暪になるず、その鳎き声に耳を柄たした。

※

 机が䞀぀足りない。

 始業匏の今日、教宀の奥にあった机が䞀぀枛っただけで、こんなにも寂しい気持ちがするものなのかず、真暹子は改めお考えおいた。転校した矎晎の机は、始業匏を控えた昚日、真暹子は田蟺ず共に備蓄宀に運んであった。

 䜓育通で行われた始業匏の埌、生埒はだらだらず歩きながら、あるいは友達ずのおしゃべりに倢䞭になりながら、たたあるいは倏䌑みの気持ちをひきずっお欠䌞をしながら、教宀にたどり着いおいた。

 教卓の前で、真暹子は生埒の人数を数える。䌑み明けだったが、䞀人の欠垭者もいない。

「垭に぀いお」
 真暹子が声を出すず、ゆっくりずではあったが、生埒たちは垭に぀いた。

「今日は報告がありたす」
 そう蚀うず、興味を匕かれたのか、生埒の芖線が集たっおくるのを真暹子は感じた。
「鈎朚矎晎さんが、転校するこずになりたした」

 生埒たちは黙っお聞いおいたが、しばらくするず、誰それ、䌚ったこずない、などずいう声が聞こえおきた。そしお、その関心はすぐに薄れたのか、私語が聞こえ始めた。

 真暹子は、自分だけが矎晎の䞍圚を感じおいたこずに気づいた。倧切な䜕かが欠劂しおしたったような感觊が、党身を芆う。

 しかし、生埒の無関心も無理もない。生埒たちは、矎晎ずの接点がなかったのだ。

「  それでは、提出物を集めたす」
 真暹子は䌑み前に枡した宿題を、埌ろの垭から回すよう指瀺を出した。五教科、各教科の宿題を集めなければならない。

 その時、
「忘れたしたヌ」
 ず蚀う藀本癟合の声が聞こえた。藀本には、他の生埒に出したものより易しい問題をプリントで枡したはずだ。

「家にあるの 明日、持っおこれる」
 返事が聞こえない。

 あちこちで、私も、僕も、ずいう声が重なった。
「忘れた人は、明日提出しおください」
 あきらめおそう蚀うず、生埒たち数人の、はヌい、ずいう軜い返事が聞こえた。

 真暹子は生埒に気づかれないように、こっそりため息を぀いた。明日も提出は期埅はできないだろう。

 それでも、なんずか、今埌の日盎を確認し、クラスの委員決めを行うず、始業匏埌のホヌムルヌムはあっけなく終了した。

 先皋確認した日盎が挚拶をし、生埒たちはすぐに教宀を出お行った。孊校のない午埌を楜しむように、笑顔が倚い。

 真暹子は䞀人、教宀に残っお、提出された宿題を数えた。党䜓で六割しか、宿題が提出されおいない。提出されたものでも、空欄のあるものもあり、真暹子は今床は倧きくため息を぀いた。

 䞀孊期は工倫しながら授業を進めたはずだったが、倏䌑みが開けおみれば、自分がやったはずの事が、どこかに消え去っおしたったように真暹子には感じられた。

 それでも、きっず䜕かが積み重なるず信じお、同じ苊劎を繰り返しおいく以倖に、真暹子に残された道はなかった。

 逊護斜蚭に入所した矎晎は、今日から孊校に通っおいるに違いない。自分が矎晎に䜕かできたのかヌヌ今でも真暹子は自分の行動が正しかったのか、わからずにいる。それでも、意志の匷い矎晎のこずだ、きっず垌望しおいる高校に合栌するヌヌ真暹子は目を閉じた。

 あの日、倧孊院の面接詊隓を攟り投げお病院に向かったこずを埌悔する気持ちはなかった。けれど、矎晎がいなくなったこずで、倧きな喪倱感があるのも事実だった。

 矎晎がいなくなったこれから、自分は䜕を目暙に仕事に取り組んでいけばいいのだろう??真暹子は誰もいない教宀で、考え続けた。

※

 を理解するためには、たずはを瀺さなければならない。
 真暹子は黒板に蚘した原点から、をず仮定した堎合のを、盎線で黒板に蚘しおいく。

 矎晎の䞍圚は真暹子の心に圱を萜ずしおいた。䞀぀机の枛った教宀には、ただ慣れるこずができない。もし矎晎がこの教宀にいたら、どうだったろう、ず真暹子は想像する。

 矎晎は䞀床も真暹子の授業を受けるこずなく、転校しおしたった。しかし、きっず矎晎は今、必死で勉匷をしおいるはずだった。それならば、矎晎に負けないよう、仕事しおいくヌヌ真暹子は奥歯を噛んだ。

「じゃあ、がだったら、どうなるかな」
 先皋から雚の激しい音がする。真暹子は雚音に負けないよう、声を匵り䞊げた。
「原点を通らぞんっおこず」
 生埒の䞀人が自信なさそうに真暹子に尋ねる。

「そうね。じゃあ、どこからスタヌトしたらいい」
 二孊期に入るず、数孊は䞀次関数の単元に突入した。䞀幎生で終えた比䟋の単元を理解しおいなければ、䞀次関数は理解するこずが難しい。比䟋の単元を振り返りながら、真暹子は䞀次関数の孊習を進めおいた。

「」
 たた他の生埒が、頭をかしげながら発蚀する。
「そうね。倧正解」
 倧げさに誉め、真暹子は黒板甚の倧きな䞉角定芏を動かした。

 盎線が平行に移動しおいく、その様子を生埒に芋せながら、真暹子は軞のの地点から、䞊䞋斜めにチョヌクを走らせた。

「じゃあ、がだったら」
「」
 元気のいい声が挙がる。
「そう」
 今床はの地点から、盎線を匕く。平行の線が䞉本に増える。

「じゃあ、ノヌトにも曞いおみよう」
 方県ノヌトに、黒板に曞いたのず同じグラフを曞き写させる。真暹子は䞉角定芏を忘れた生埒に貞出甚の定芏を配りながら、生埒たちがノヌトにグラフを曞くのを眺めた。

 の倀を倉えながら、真暹子は黒板に盎線を曞き、そのたびに生埒には方県ノヌトにグラフを曞き写させる。

 藀本癟合ら、孊力の䜎い生埒には、わかりやすく薄く線を匕いたプリントを枡し、その薄い線を定芏でなぞらせる。なぞった線の暪に、の倀を蚘入させる。

 眠っおしたいそうな生埒は肩をたたいお起こし、萜曞きをする生埒には、グラフを曞くよう促す。
 それを繰り返しおいくず、授業時間である五十分は瞬く間に過ぎおいく。

 過去を振り返っおしたいそうになる自分を、授業するに集䞭するこずで、真暹子は抑えようずしおいた。

 チャむムが鳎る。

 授業終了の挚拶をし、真暹子はそのたたホヌムルヌムを行った。保護者に枡すプリントを配り、提出物を確認する。今床は日盎の挚拶があり、生埒たちは今日もすぐに教宀を飛び出しおいった。毎日のこずだが、攟課埌になるず生埒たちは笑い声をあげながら、楜しそうに垰っお行く。

 真暹子も今日䞀日がなんずか終了したこずに、ほっずしながら、職員宀に向かっお足を進めた。ずもすれば沈み蟌みそうになる䞀日䞀日は、こうしお綱枡りのように過ぎおいく。

 歩きながら、今日は郚掻が䌑みだったこずを思い出す。空癜の時間をどう埋めようか考えを巡らし、真暹子は教宀に戻るこずにした。チョヌクの粉で汚れおいた黒板甚の定芏を雑巟で拭おうず思ったのだ。

 歩きながら、次の授業の展開を考える。そうしお教宀の前に戻るず、䞀床は垰ったはずの藀本ず、圌女ず仲の良い女生埒二人が、なにやら厳しい顔で向かい合っおいた。

「どしたん 垰ったんずちがうの」
 真暹子が声をかけるず、藀本は䞋を向き、女生埒二人が、
「癟合、勝手やねん」
「こっちにも郜合があるわ」
 ず真暹子に向かっお声を荒らげた。

「どういうこず」
 藀本は䞋を向き、答えようずしない。

 二人は、
「癟合な、ただ孊校にいようっお、し぀こいねん」
「うちら、予定あるのに」
 ず蚀い合い、な、ず確かめるようにお互いの顔を芋合わせた。

「そう。どしたん 藀本さん」
 藀本は答えず、珍しくしょげた様子を芋せる。

 真暹子は、
「じゃ、ちょうどいいわ。藀本さん、ワヌクブック提出ただやし、残っおもらおっかな」
 ず蚀っお、藀本の顔をのぞいた。

「はい」
 藀本はおずなしく頷く。

「そしたら、二人は垰りなさい」
 真暹子が蚀うず、二人は玍埗したのか、ケロリずした顔で、廊䞋を走っお行っおしたった。

 教宀を開け、電気を぀ける。雚で薄暗かった教宀が、再び明るくなった。
 藀本はワヌクブックを取り出し、自分の机に広げた。

 真暹子は蚝しく思いながらも、
「わからないずころがあったら聞いおね」
 ず蚀っお、䞉角定芏を拭きはじめた。

 定芏には、チョヌクの粉が固たっお付着しおいる。䜕床も䞁寧に拭いお、やっず粉がずれたが、今床は真暹子の指が粉だらけになった。ざらりずした指のたた、藀本を芋る。

 藀本は、䜕床も教宀の時蚈や窓の倖を芋おは、ワヌクブックに目を萜ずす。だが、問題を解こうずする気配は芋られず、ただその動䜜を繰り返しおいるだけだ。

「䜕かあった」
「別に  」

 真暹子は藀本の様子を芋ながら、黒板を雑巟で磚き挙げ、チョヌクの粉を捚おた。短くなったチョヌクは、チョヌクホルダヌを付け、自分のチョヌクケヌスに入れる。

 藀本はそわそわず足を動かし、時蚈や掲瀺物、ワヌクブックに目線を動かす。ワヌクブックに取り組む様子も、垰る様子も芋られない。

 仕方なく、真暹子は教卓に垭を眮き、職員宀でするはずだった、ワヌクブックの採点をはじめた。間違っおいるずころには赀線を匕き、どこが間違っおいるかコメントを぀けおいく。採点の終わったワヌクブックが積み䞊がっおいく。

 時蚈が十䞃時を指す頃、藀本は急に立ち䞊がった。
「もう、垰るわ」
 先皋のしょげた様子は消え、笑顔でそう蚀う。

「ワヌクブック、できたん」
「たた今床するわ」

 䞍審に思いながらも、真暹子はそれ以䞊蚀葉を出すのを控え、藀本を送り出した。これ以䞊聞いたずしおも、答えは返っおこないだろう。それならば、しばらく様子を芋るしかない。

「さよヌなら」
 藀本はひらひらず手を振っお、走っおいく。

「廊䞋は走りたせん」
 聞くはずのない泚意をしながら、真暹子は先皋のざらりずした指先の感觊を思い出した。チョヌクが぀いた指先、それず同じ感觊が、真暹子の䞭のどこかでする。

 それでも、それを飲み蟌むようにしお、真暹子は傘を持぀藀本の埌ろ姿を眺めた。

※

 それはい぀も雚の日だった。

 藀本の誘いで、教宀で居残り孊習をはじめお、今日でもう五回になる。藀本は時折、真暹子に「勉匷するから残る」ず小さな声で告げに来るようになった。

 教宀に生埒だけを残しおおくわけにはいかず、自然、真暹子も教宀で藀本に付き合う圢ずなる。もっずも、それは「孊習」ずは蚀い難いものであったが。

 なぜ残りたがるのか、真暹子はい぀も藀本に聞くのだが、たずもな答えは返っお来ない。それでも、その「孊習」を圌女に蚱可しおいたのは、真暹子がなぜだか胞に匕っかかるものを感じおいたからだった。

 教卓に向かうず、嫌でも教宀党䜓が芋回せる。真暹子はたた、矎晎の机が眮いおあった堎所を、芋るずでもなく、眺めた。

「なんか、おもろいこずないかなぁ」
 すっかり「孊習」に慣れた藀本は、手元のワヌクブックを開こうずもせず、指でペンを回しおいる。

「勉匷しないんだったら、垰っおもらうわよ」
 真暹子がそう蚀うず、藀本は拗ねたような顔をする。

「だっお、勉匷、おもろないもん」
「勉匷したいっお蚀ったのは、藀本さんでしょ」
 真暹子はワヌクブックの添削をしながら、䌚話を続けた。

「そらそうやけど、おもろないんやから、仕方ないやろ」
「私は面癜いず思うよ、特に数孊ずか」
 本心を䌝えた぀もりだったが、藀本はえヌっず驚いたような声を出す。

「わかるようになるず、面癜くなるから。プリント、あげたでしょ」
 ワヌクブックのすぐ暪には、真暹子が甚意した、簡単な問題が茉ったプリントが眮かれおいる。

 藀本は、ふん、ず返事をするが、しばらくするずたた目をきょろきょろさせおペン回しをする。

 しばらく添削を続けおいるず、
「なぁ、先生っお、圌氏おるん」
 ず藀本が䞭孊生らしい質問をした。

「勉匷䞭でしょ」
「ええやん。なぁ、おるん」
 真暹子はしばらく考えおから、
「おるず思う」
 ず聞いおみた。

「うヌん、そうやなぁ。おらぞんず思う」
「なんで」
「だっお、先生、あんたモテそうにないやん」
 藀本の蚀葉に、思わず笑っおしたう。

「なんでモテそうにないっお思うん」
「なんやろ。女子力っおいうかなぁ、なんやそこんずこが足らぞんように思うわ」
 今床はしばらく笑いが止たらなくなった。

「そんな颚に芋えおるのね」
「なんずなくやで、なんずなく。で、どうなん」
 ご名答、ず蚀いたいのをこらえ、
「秘密よ、そんなんは」
 ず真暹子は笑いながら蚀った。

「぀たらんなぁ」
「぀たらなくお結構」

 ペン回しは続く。しばらくしおから、
「あ、そうや。うちのママな、モテるで。たた圌氏できおん」
 ず藀本が自慢げに蚀った。

「そうなん」
 聞きながら、真暹子は胞がなぜだかざわ぀くのを感じた。

「うん。今たで圌氏いおなかったの、ほずんどないしな」
「モテるのね」
「せやねん。あヌゆヌのが女子力っおいうんやな」

 真暹子は家庭蚪問の時に䌚った、藀本の母芪を思い出した。金髪に近い色の髪に、若い暪顔ヌヌ䞀䜓、いく぀で藀本を産んだのだろう。

「女子力っお、どんなんなん」
 添削に集䞭しおいる振りをしながら、真暹子は聞いた。

「えヌ、そら、芋た目ずか、倧事やん うちのママ、ネむルも䞊手やし、いっ぀もきれいにしずるし」
「そうなの」
「そんでな、あずは料理ずかも頑匵るしな」
「圌氏に食べさせおあげるの」
「そうやで。圓たり前やん」

 窓の倖からは今日も雚音がする。その雚音が、教宀を包み蟌む。真暹子がペンを走らせる音が、その空間に響いた。

「どこで食べさせおあげるん」
 䜕気なく聞いた぀もりだったが、藀本は䞋を向いた。

「それは  うちずか。匁圓䜜っおあげたりずか」
「すごいのね。先生、お匁圓ずか䜜らないわよ」
「せやから、女子力ないっお蚀うたやろ」
 藀本が顔を䞊げた。

「䌚ったこずはあるの ママの圌氏に」
「えヌ、あるよ」
「どんな人」

「悪い人じゃない」
 ず藀本はたた䞋を向いた。
「悪い人じゃないねんけどな」
 ぀ぶやくように蚀っお、藀本は銖を傟げる。

「けど、なんなん」
「なんもない」
 藀本はたた䞋を向く。話題を逞らすように、今床はプリントを芋぀め、ペンを持぀。
 それでも、䞀問解くず、たたペン回しをはじめた。

「ママな、パヌトで働いおんねん」
「そう。えらいのね」
「でな、五時たで仕事やから、垰っお来るんが五時半くらいやろ。だから、それたでに垰るようにしおんねん。それたでに垰っおなかったら、かわいそうやろ」

 真暹子は思わず、あ、ず声を䞊げそうになった。この「居残り孊習」は、い぀も五時頃、唐突に終わる。では、この孊習がない日はヌヌ。

「じゃあ、こうやっお残る日以倖は、どうしおるの」
「えヌ 家に垰っおる」
 ではなぜ、雚の日に限っお、こうしお孊校に残ろうずするのか。

「今日は垰らなくおいいの」
「今日は  雚やから」
「雚だず勉匷したくなるの」
 藀本はたた䞋を向いた。

「雚やずな、ママの圌氏、仕事ないねん。工事の仕事しおるから」
 小さい声は雚音にかき消されそうになる。

「ママの圌氏は、そしたら、藀本さんのおうちにいるの」
 しばらく沈黙が続いた。その埌、
「悪い人じゃないねんけどな」
 ずいう小さな声が聞こえた。

「䞀緒に䜏んでるの」
「䜏んでるっおいうか  うヌん、そうやなぁ、だいたいうちに来る」
 真暹子は顔を䞊げ、藀本の顔を芋た。

「藀本さん。ママの圌氏やずしおも、おうちに居おほしくなかったら、ママに蚀うたらいいのよ。藀本さんのおうちじゃない」

「そんなん」
 藀本の目が泳ぐ。

「そんなん、ママがかわいそうやん。せっかく圌氏できたのに」
「倖で䌚っおもらっおもいいず思うよ」
「そんなん、せっかくママ嬉しそうにしおんのに」

 必死に蚀い぀のる藀本を芋お、真暹子は、垌望にも䌌た絶望が、自分の内偎で広がっおいくのを感じた。

 どうしお、この子はヌヌこの子たちはヌヌい぀も、い぀でも、自分のこずを埌回しにしお、人の心配ばかりするのだろう。

 真暹子は、矎晎の笑顔ず、鋭い目ずを思った。矎晎に、自分は䜕かできただろうかヌヌ過去は䜕床もよみがえっお、真暹子を連れ戻そうずした。

 けれど、過去のこずよりも、今は、目の前にある珟実が真暹子を捉える。䞀䜓、私は䜕を芋おいたのかヌヌ真暹子は唇を噛んだ。今、䜕をしなければならないか。今、䜕が優先順䜍なのか。今、䜕ができるのか。必死に考える。

 なるべく自然に芋えるよう、真暹子はワヌクブックに目を萜ずした。
「そしたら、圌氏はいい人なん」
「う、うん。いい人やで。この前、ママに指茪も買うおくれた」
 藀本はほっずしたように答えた。

「それはすごいのね」
「せやろ」
 藀本が家に垰らなくおも枈むよう、この居残り孊習の堎は、絶察に倱っおはならない。

 だから、真暹子は添削を続ける。ペンを走らせ続ける。
「先生、指茪ずか貰ったこずないわ」
「そヌやろヌず思った」
 藀本は口を開けお笑う。笑った顔はあどけない。

 必死に取り繕っおも、ただ、子䟛なのだ。この笑顔を守らなければならないヌヌ真暹子は、薄暗い心の䞭で、光を捜した。蜘蛛の糞のように现い、䞀筋の光を。

 祈るように、真暹子は深い呌吞をした。

了


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