本田由紀氏の「解説」を読んで――それでも私は、この発言を看過できない
先日、「天皇制を批判することと、血統を理由に人を差別することは別である――本田由紀氏の発言について」という文章を書いた。
その後、本田由紀氏自身による、この発言についての「解説」が出された。
それを読んだうえで、改めて考えてみたい。
先に結論を言えば、私は本田氏の説明を読んだことで、批判の仕方を少し修正する必要があると思った。
しかし、だからといって、元の発言を看過してよいとは思わない。
むしろ、本田氏が何を批判しようとしたのかを踏まえることで、別の問題が見えてきたように思う。
本田氏が批判したかったのは「血縁者優遇」なのだという
本田氏の説明によれば、問題にしたかったのは、皇族や麻生家の人々の「遺伝的な特徴」そのものではなく、血縁・親族関係によって政治的、社会的に優遇される構造だったということらしい。
もしそうであるなら、私は、その問題意識そのものについては理解できる。
政治における世襲や縁故、血縁による特権の継承は、当然批判の対象になりうる。
まして、天皇制について考えるのであれば、「生まれ」によって特別な地位が与えられることは、まさに制度の根幹に関わる問題である。
私は天皇制を批判している。
天皇制とは、極端に言えば、「誰の子として生まれたか」によって、その人に特別な地位を与える制度だからである。
したがって、「血縁によって特権が再生産されることへの批判」そのものには、私は異論がない。問題は、それをなぜ「遺伝的要因」という言葉で表現したのか、ということである。
「血縁」と「遺伝」は同じではない
ここは、かなり重要だと思う。
血縁関係と遺伝的要因は、重なる部分はあっても、同じものではない。「この人はあの人の親族である」というのは、血縁関係の問題である。一方、「遺伝的要因」というのは、通常は、生物学的な形質などが遺伝によって影響を受けることを意味する。
もし本田氏が批判したかったのが、「政治家の家系に生まれた人が、その血縁によって政治的・社会的に有利な立場を得る」ということであったなら、「世襲」「血縁」「縁故」「親族関係」「特権の再生産」など、いくらでも別の言葉がある。
なぜ、そこで「遺伝的要因」という言葉を使ったのだろうか。
ここについては、やはり説明が必要だと思う。
「遺伝的要因のおそろしさ」という言葉は、やはり重い
元の投稿は、「この人たちを目にするたびに、遺伝的要因のおそろしさを感じる。露出の増加が逆効果になるかもしれない」というものだった。
本田氏の説明を踏まえれば、これを「遺伝によって容姿や人格が決まっている人間は恐ろしい」という意味だと断定することは、慎重であるべきだろう。
しかし、だからといって、元の文章からそのような読みが生じることを不当な「曲解」と片づけることもできないと思う。
なぜなら、実際に書かれている言葉が「遺伝的要因」であり、「おそろしさ」だからである。そして、「この人たちを目にするたびに」という表現もある。
もし問題にしているのが政治的な世襲や血縁者優遇なのであれば、「この政治家一族の世襲を見るたびに」「血縁による特権の再生産を見るたびに」などと書けば、その意味ははるかに明確だったはずだ。
私は、本田氏の内心を推測して「差別意図があった」と断定したいのではない。そうではなく、実際に書かれた言葉が、遺伝的な属性そのものへの否定的評価として読めるものだったということを問題にしている。
そして、ここからが私にとって一番重要な問題である
私は天皇制に反対している。
しかも、単に「天皇制は古い制度だから嫌いだ」という程度の話ではない。
私は、天皇制には、人間を出生や血統によって位置づける構造があると考えている。誰の子として生まれたのか。どの家に生まれたのか。どの血統に属しているのか。そうした本人には選択できない事柄によって、人間に特別な地位を与える。
私は、そこに天皇制の根本的な問題があると思っている。
しかし、だからこそ私は、「この血筋だから恐ろしい」というような人間評価にも反対したい。ここは、非常に重要である。
「血統によって上に置く」と「血統によって下に置く」
天皇制は、「この血統だから特別だ」という論理を持っている。
では、その反対に、「この血統だから恐ろしい」「この血統だから望ましくない」と言えば、天皇制を批判したことになるのだろうか。
私は、そうは思わない。
どちらも、「人間を、その人自身が選択したわけではない出生や血統によって評価する」という点では同じ構造を持っているからである。
もちろん、社会的な特権については批判してよい。むしろ批判しなければならない。
しかし、「その人がどの家に生まれたか」と「その人がどのような人間であるか」を区別する必要がある。
制度は批判できる。権力も批判できる。世襲も批判できる。血縁による特権の再生産も批判できる。
しかし、その批判を、その制度の中に生まれた個人の「遺伝」や「血筋」の否定に変えてしまってはいけない。
私はそう考える。
「天皇制を批判すること」と「皇族を差別しないこと」は矛盾しない
ここを誤解されたくない。
私は、皇族を擁護したいわけではない。天皇制を批判することと、皇族個人を血統によって差別しないことは、何ら矛盾しない。
むしろ、天皇制を本気で批判するなら、その二つを分けなければならないと思う。
「皇族だから尊敬しろ」というのも違う。
「皇族だから侮辱してよい」というのも違う。
どちらも、「皇族である」という出生上の属性を理由に、その人への評価を決めているからである。
私は、皇族であることによって、人間として特別に価値が高くなるわけでも、低くなるわけでもないと考える。
天皇制という制度については、徹底的に批判してよい。
しかし、その制度の中に生まれた人間の存在そのものを、出生や遺伝によって査定することには反対する。
だから、私は本田氏の説明を読んでも、問題は残ると思う
本田氏が本当に批判したかったのが「血縁による特権の再生産」だったのであれば、私はその問題意識まで否定するつもりはない。
しかし、それならばなおさら、「遺伝的要因のおそろしさ」という言葉を使ったことについて、説明してほしいと思う。
何を「遺伝的要因」と呼んだのか。何を「おそろしい」と言ったのか。「露出の増加が逆効果」とは、何に対して、どのような意味で逆効果なのか。そして、なぜ「血縁による政治的特権」という問題を、「遺伝」という言葉で表現したのか。
私は、これらを明らかにすることは、本田氏を攻撃することではないと思う。むしろ、公に発信された言葉について、その意味を問うているだけである。
「意図していなかった」だけでは、言葉の問題は消えない
私は、「差別する意図があったかどうか」だけで、差別の問題を判断するべきではないと思っている。
もちろん、意図は重要である。しかし、言葉には、それが発せられた本人の意図だけではなく、実際に何を意味しうるのかという問題がある。
「そんな意味で言ったのではない」という説明がなされたとしても、「では、実際に書かれた言葉は何を意味していたのか」という問いは残る。
むしろ、社会的影響力のある研究者であれば、自分の言葉がどのように受け取られうるのかについて、通常の私人以上に慎重であってよいと思う。
私が本当に問題にしたいのは「誰を上に置くか」ではない
今回の件について、皇族を擁護する側と、天皇制を批判する側との対立として捉えてしまうと、問題の本質を見失うと思う。
私が問題にしたいのは、人間を出生・血統・遺伝によって査定することそのものである。
血統によって「特別な人間」をつくることにも反対する。
血統によって「劣った人間」「恐ろしい人間」をつくることにも反対する。
人間の存在を、その人が選択できなかった条件によって査定することに、私は反対する。
だからこそ、私は天皇制を批判する。
そして、だからこそ、本田氏の今回の発言も看過できない。
これは、天皇制を擁護するための批判ではない。
むしろ、「生まれによって人間を評価する社会」そのものを批判するための批判である。
天皇制を批判することと、皇族個人を差別しないことは両立する。いや、私はむしろ、両立しなければならないと思っている。
その二つを両立できないのであれば、私たちは結局のところ、「血統によって人間を評価する」という論理から抜け出せていないのではないだろうか。
