またぎフェイントだけ、まだ足首が覚えている私へ|自キュン61
クリロナの最後のW杯を見た朝、真似できなかった技だけが戻ってきた。
朝、スマホの画面を親指で上に払ったら、まだ暗い部屋に、スタジアムの白い光だけが入ってきた。
ポルトガルが負けた、と字幕が出ていた。
スペインが勝った、とも出ていた。
そのあとに、クリスティアーノ・ロナウド、最後のワールドカップ、みたいな言葉が並んで、私は洗面所に行く途中の廊下で止まった。
試合の流れとか、誰が決めたとか、そういうものより先に、右足首の奥が、古い引き出しを勝手に開けるみたいに少しだけ動いた。
昔、あれを真似した。
またぎフェイント。
ボールの上を足でまたぐだけなのに、なぜか自分がやると、洗濯機の前で靴下を片方だけ落とした人みたいになるやつ。
公園の土は乾いていて、安いボールは少しだけ空気が抜けていて、友達は笑いながら「それロナウドじゃなくて盆踊りじゃん」と言った。
「うるせえよ」
そう返した声まで、朝の廊下に戻ってきた。
ロナウドになりたかったわけじゃない、と思う。
たぶん。
いや、少しはなりたかったのかもしれないけど、そんな大きい話にすると、あの頃の自分が急に知らない子みたいになる。
真似をしている間だけは、自分の体が未来のほうを向いていた。
誰かが見ていて、誰かが選んでくれて、次の試合に呼ばれる側に、自分も少しだけ入れる気がしていた。
学校の裏にあった公園には、ゴールなんてなかった。
ランドセルをベンチに置いて、上着を鉄棒にかけて、植え込みと植え込みの間を勝手にゴールにした。
右のツツジがポストで、左のよくわからない低い木がポスト。
上は、まあ、気持ち。
そういう雑なルールのほうが、なぜか本物に近かった。
「壁やって」
「え、また?」
「無回転やるから」
「昨日もやってたじゃん」
「今日は入る」
入らなかった。
壁どころか、ボールは二人の横をふにゃっと抜けて、砂場のふちに当たって止まった。
テレビで見た無回転FKは、空気を切るみたいにまっすぐ飛んでいたのに、私のボールは途中で急に、自分の人生を諦めたみたいに沈んだ。
それでも、助走だけは本気だった。
両足を少し開いて立つ。
肩を落とす。
口を結ぶ。
遠くを見る。
ボールを見る。
もう一回、遠くを見る。
いま思えば、それはキックの練習というより、誰かに見られるための儀礼に近かったのかもしれない。
小学生のくせに、承認のための作法だけは、妙に早く覚えていた。
「なげえよ」
友達が壁の役をしながら言った。
「ロナウドは長いんだよ」
「お前ロナウドじゃないじゃん」
「知ってるし」
知っているのに、知らないふりをしていた。
あの頃の私は、真似できないことを失敗とは思っていなかった。
できるまでの途中にいる、という雑な誤解だけで、放課後をかなり遠くまで引き延ばせた。
あの誤解は、子どもにだけ許された猶予みたいな顔をしていた。
背番号7は、少し乱暴だった。
きれいに憧れるというより、勝手に貼ってしまう感じがあった。
ノートの端に7を書いたり、体育のチーム分けで偶然七番目に呼ばれただけで、たいした意味もないのに少し背中が伸びたりした。
本当は、ユニフォームなんて持っていなかった。
持っていたのは、つま先だけが妙に削れたスニーカーと、空気を入れても翌週にはまた柔らかくなっているボールだけだった。
靴底の外側が先に減る癖があって、母親に「歩き方おかしいんじゃないの」と言われた時、私は「これはキックのせい」と言いかけてやめた。
言ったところで、台所の換気扇の音に負ける気がした。
ハイライト動画の中で、ロナウドが顔を上げていた。
泣いていたのか、噛みしめていたのか、そこまでは見えなかった。
画面が小さすぎたし、私の目もまだ朝に慣れていなかった。
けれど、背番号だけは見えた。
7。
昔のノートの端に、授業中こっそり書いていた数字と同じ形をしているのに、こちら側の私はもう、仕事用の靴下を片方探している。
部屋の隅にはボールがない。
スパイクもない。
青いユニフォームも、泥のついた練習着も、誰かを壁にして蹴った午後もない。
ただ、玄関にある擦れたスニーカーのつま先だけが、妙にサッカーをやめていない顔をしていた。
私は動画を止めた。
止めたあとも、足首の内側にだけ、まだ小さな試合が残っていた。
誰も笛を吹いていないのに、まだ終わったことにできない、あの変な延長戦みたいなものが。
洗面所で顔を洗って、タオルで目の下を拭いたら、鏡の中の自分が少しだけ知らない人みたいに見えた。
寝ぐせが残っている。
ひげも少し残っている。
ロナウドの最後のワールドカップを見た人間にしては、こちら側の準備が雑すぎる。
別に喪服を着るような話ではないし、仕事は普通にあるし、燃えるゴミの日でもないのに、台所のゴミ袋だけがやけにふくらんでいる。
玄関でスニーカーを履く。
かかとを指で押し込んだ時、足首が勝手に少し回った。
昔の癖だった。
ボールがあるわけでもないのに、右足が床の小さな木目をまたごうとする。
一回だけ。
つま先で、玄関の床を軽くまたいだ。
誰にも見られていないまたぎフェイントだった。
成功も失敗もない。
相手もいない。
抜くべきディフェンダーも、歓声も、ベンチから見ている先生も、放課後に「もう一回やろうぜ」と言ってくれる友達もいない。
テレビの中にはピッチも通路も肩を抱く誰かもあるのに、こちら側に残っているのは、靴箱の前の狭い床と、少し古いスニーカーだけだった。
でも、足首だけは少し得意そうだった。
その感じが、ちょっと腹立たしかった。
本当は、ロナウドになりたかったんじゃないと思う。
ロナウドみたいに速く、強く、派手で、世界中から見られる人になりたかったわけでも、いや、少しはあったかもしれないけど、それよりも、あの頃の私は、自分が何かをしようとしているところを、誰かに見つけてほしかった。
才能ではなく、フォームでもなく、まだ何者でもない体が何かへ向かおうとする、その未完成な熱だけを。
「見てろよ」
昔の私が、誰に向けたのかわからない声で言っていた。
会社に行くだけの朝に、見てろよ、は大きすぎる。
大きすぎるのに、その言葉だけは靴ひもの奥にまだ挟まっていた。
ほどけかけた黒い紐を結び直しながら、私は昔の自分がどれくらい本気だったのかを考えた。
プロになりたい、と言った記憶はない。
サッカーで食っていく、とも言っていない。
言ったら笑われるし、笑われる前に自分で笑ってしまうくらいの分別は、子どものくせにもう持っていた。
でも、真似はした。
またいだ。
蹴った。
外した。
それを何回もやった。
成功しない技を繰り返していた時間には、いまの生活にはあまりない変な寛容さがあった。
失敗しても、ボールを取りに行けばもう一回できた。
砂場のふちに当たっても、フェンスを越えても、誰かの自転車にぶつかって謝りに行くことになっても、戻ってきたボールを足元に置けば、さっきの失敗はまだ完全な判決にならなかった。
いまは、そういうわけにいかない。
メールを返し損ねたら、そのまま重くなる。
約束を断ったら、次に誘われないことがある。
何かを始めそこねた日は、ただカレンダーの中で乾いていく。
やり直しの機会はあるのに、やり直すための場所だけが、生活の中から少しずつ撤去されていく。
だからたぶん、ロナウドの最後の笛を見て、私が思い出したのはロナウドではなかった。
あの人の終わりを見て、先に終わっていた自分の何かに、遅れて気づいただけだった。
けれどそれを青春と呼ぶと急にきれいすぎて、玄関の床に落ちている小さな砂粒まで、全部うそみたいになる。
スマホをポケットに入れる前に、もう一度だけ画面を見た。
小さなサムネイルの中で、ロナウドは誰かに肩を触られていた。
慰められているのか、止められているのか、ただ通路へ向かっているだけなのか、そこまではわからなかった。
わからないくらいの距離で見るほうが、たぶんちょうどよかった。
最後の笛、という言葉は便利すぎる。
それを鳴らせば、何かが終わったことにできる。
試合も、時代も、青春も、あの頃の自分も。
けれど、終わったはずのものほど、変な場所に残る。
靴の中の小石みたいに、歩けないほどではないけれど、歩くたびに少しだけある。
玄関のドアノブに手をかけた。
鍵が一回、金属の軽い音を立てた。
私はもうボールを蹴らない。
たぶん今日も、明日も、来週も蹴らない。
公園に行って壁を作ってくれる友達もいないし、無回転FKを外して笑ってくれる人も、またぎフェイントを盆踊りと言ってくれる人も、もう生活のどこにも配置されていない。
それでも右足は、床の端を少しだけまたいだ。
ほんの数センチ。
誰にも見られない、意味のない、遅すぎるフェイントだった。
けれどその一瞬だけ、若かった私が、玄関の内側からこちらを見ていた気がした。
見てろよ、とは言わなかった。
私はドアを開けた。
朝の光が、スニーカーのつま先に当たった。
関連記事
この話が少し残った方へ。
同じ自キュンシリーズの別の話も、よかったらどうぞ。
雪のピッチで12番を見ていた私へ|自キュン19
https://note.com/yagiwooo/n/n651ad70429af
生活にもう一度青を戻した私へ|自キュン20
https://note.com/yagiwooo/n/n54fa04be99e9
朝の五時に青を見ていた私へ|自キュン21
https://note.com/yagiwooo/n/n5c6b03fd9f33
勝てるかもしれないと思った朝をまだ消せない私へ|自キュン49
https://note.com/yagiwooo/n/n8bec75af9d50
あとがき
読んでくださってありがとうございます。
またぎフェイント、無回転FK、ゴールパフォーマンス。
真似できなかったのに、体だけがまだ覚えているものって、たぶんあります。
あなたが昔、こっそり真似した技や選手がいたら、コメントで一言だけでも教えてください。
スキだけでも、とても励みになります。
タグ
#恋愛
#ショートストーリー
#自キュンシリーズ
#自キュン
#短編小説
#創作
#青春
#サッカー
#ワールドカップ
#クリスティアーノロナウド
#ロナウド
#平成
#忘れられない人
#大人の青春
#スポーツ観戦
いいなと思ったら応援しよう!
ここまで読んでいただきありがとうございます。
「面白かった」「また読みたい」と思っていただけたら、応援していただけると嬉しいです。次の記事を書く力になります。