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快食ボイス838・広島には街の歴史を語る博物館がない

広島の街は、いつどこから始まったのか

先日、イマナマ!のロケ車の中で、吉田幸さんと広島の歴史を年代順にきちんと展示している博物館があれば、本当にいいのにという話をした。
広島市には原爆資料館があり、福山市には草戸千軒町遺跡の展示施設がある。
けれど、広島という街がいつ頃から、どのように開けて、今の姿にたどり着いたのか。
その全体を通して見せてくれる場所は、僕の知るかぎりない。
だから広島の来歴は、歴史マニアにしか分からないままになっている。

博物館を新しく建てるとなれば、初期費用も維持費も相当なものだ。
今から作れとは言いにくい。
それでも、自分たちの街がどんな歴史的な経緯を経て現代に至ったのかを知ることには、大きな意味があると僕は思っている。

その話をしたら、それこそラジオでやったらいい、と勧められた。
それはそれで考えるとして、まずはここで、広島市域のはじまりの部分だけでも書いてみたい。
県全体に広げると福山も尾道もそれぞれに面白く、話が果てしなくなる。
今回は広島市域に絞る。


安芸国を治めた、安芸津彦という名

安芸国を最初に治めたのは、安芸津彦という人物だとされている。
神話の世界の話で、神社に祀られている存在だ。

この「安芸津」は、東広島市の安芸津とは別の場所を指す。
もともと安芸津と呼ばれた土地(津=港)は、現在の安芸郡府中町のあたりにあった。
安芸津彦とは、おそらく個人の名ではなく、その一帯を治めた勢力が代々受け継いだ名ではないかと僕は考えている。
広島湾を中心とした地域を勢力下に置いた、土着の支配層だったと考えられる。

根拠はいくつかある。
昔の安芸津が府中町にあったことは分かっているし、そもそもこのあたりは『古事記』や『日本書紀』にちゃんと登場する。
古墳時代から飛鳥、奈良のあたりまで、今の安芸郡府中町が広島周辺の中心地であったことは、まず間違いない。
ここに異を唱える人はいないと思う。


神武天皇が、七年をすごした場所

『古事記』『日本書紀』に記された神武東征。
神武天皇が九州を出て奈良の都に落ち着くまで、その道のりには途方もない時間がかかっている。
そのうち、この安芸の地に七年とどまったと書かれている。
暦どおりの七年だったかは分からない。
古い記録では、七年や八年は「長い間」ほどの意味で使われることも多い。
ただ、腰を据えるだけの理由はあった。

考えてみれば当然だ。
宮崎あたりをルーツとして九州から出てきて、それなりの軍勢を率い、船で瀬戸内を東へ進む。
安全に航行するには、沿岸の勢力ときちんと折り合いをつけておかねばならない。
この辺りの最大勢力、出雲の協力を取り付けるのも必須だ。
船の修理も、食料の確保も要る。
当時はインフラなど何もないのだから、なおさらだ。
おそらく安芸津彦の勢力の力を借りて、それから東へ進んでいったのだろう。

この滞在地が、『古事記』では多祁理宮、『日本書紀』では埃宮と記されている。
その跡に建てられたと伝わるのが、府中町の多家神社だ。
そして、この多家神社に祀られているのが、神武天皇と安芸津彦命である。
安芸の開祖神と、東へ向かう途中に立ち寄った天皇が、今もひとつの社に並んで祀られているのだ。

ちなみに、同じ「津彦」は、東征のもっと手前にもいる。
宮崎を出た一行が最初に立ち寄った宇佐では、菟狭津彦(うさつひこ)という土地の一族が宮を建ててもてなしたと伝わる。
名の作りは安芸津彦と同じだが、宇佐神宮での菟狭津彦は摂社に祀られ、境内の隅に碑が立つにとどまる。
かたや安芸津彦は、神武と同格の主祭神として本殿に並ぶ。
同じ「津彦」でありながら、片や摂社、片や主祭神。
この差は、安芸の土着勢力がそれだけの格を持っていたことの証しに見える。


国府が置かれ、国分寺が離れて建った

やがて奈良に朝廷が開かれ、各地に国府が置かれていく。
安芸国の国府が据えられたのも、やはり府中町だった。
府中の「府」は、国府の府である。
ここがこの安芸国の中心だったから、国府が置かれた。

国府とセットになるのが、国分寺と国分尼寺だ。
こちらは東広島市西条町、今の寺家のあたりにあったとされる。
国府とはずいぶん離れている。

同じ構図は備後国にもある。
備後の国府は今の府中市に、国分寺と国分尼寺は福山市神辺町に置かれたと考えられている。
ちなみに僕が通っていた府中市の幼稚園は、国府跡の上に建っていたようだ。

安芸国府の正確な場所は、実は今も特定されていない。
多家神社のあたりと言われるが、正確な跡地そのものかは分かっていない。
神社も後の世に場所を移している。
それでも、ある台地の上にあったことは、ほぼ間違いないとされている。


三角州はまだ、海の中だった

なぜ台地なのか。
縄文海進を思い出してほしい。
縄文時代に海がぐっと内陸まで広がった時期があり、その後で少しずつ引いていく。
今の広島市の三角州はまだほとんど海の中だった。
中州はぽつぽつあったかもしれないが、基本は川と海に囲まれた土地だ。
大水が出れば流されかねない、ひどく不安定な場所である。
そんなところに、今でいう県庁のような国府は置けない。
だから安定した台地に据えた。
水分峡から南へ張り出した台地の部分が、当時この一帯の中心だった。

多家神社のすぐ近くには、かつて松崎八幡宮があったという。
今はなく、バス停に名を残すのみだが、このあたりに船をつけたと伝わる。
府中中学校のすぐ西で、神武天皇が腰掛けたという岩も一応残っている。
誰それが腰掛けた岩なら日本中に山ほどあるので真偽はさておくとしても、こうした痕跡が今に残っていること自体がすごい。
多家神社にいたっては、『古事記』の時代から現在まで続いているのだ。
祇園大橋から南は、中州と川と海が入り混じった、地盤のゆるい土地だった。
水分峡の南に張り出した台地こそが、古墳・飛鳥・奈良の頃の中心だった。
そこまでは分かっている。


続きは、また

このあと広島の中心は、平安時代に入るとまた別の場所へ移っていく。
その話は長くなるので、機会をあらためたい。
こういう街の来歴を、腰を据えて展示してくれる場所が広島にあればいいと、やはり思う。
かなわないなら、せめてこうして書いていく。
面白いと思ってもらえたなら、続きを語るモチベーションになるので、ぜひ応援してほしい。

→続編はこちら


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