快食ボイス840・祇園と佐伯区&厳島、二つの中心がせめぎ合った時代
はじめに
前回、府中町に安芸国府が置かれたところまで書いた。
思っていたより面白がってくださる方が多かったので、調子に乗って続きを書く。
今日は、その国府が力を失ったあと、広島市域の中心がどこへ移っていったのかという話だ。
律令制は、なぜ根づかなかったのか
飛鳥時代、日本は中国の律令制をまねて中央集権国家をつくろうとした。
しかしあれは、とんでもないインフラを必要とする仕組みだった。
各地に役人を置くにしても、統治のための法知識、税務の計算能力、そして何よりモラルが要る。
中国はそこに膨大な資源を注ぎ、科挙という難関の官僚登用試験まで整備した。
日本も大学寮のような機関をつくって真似ようとしたが、やりきれなかった。
代わりに選ばれたのが、家業として継がせる方式だった。
仕事内容を一番よく知っている親から、子に継がせればいい。
ある意味では英才教育で、制度を一から設計するよりはるかに安上がりだ。
ただし当然、特定の家に権力が集中していく。
土地のほうも同じ道をたどった。
公地公民、つまり日本の土地はすべて天皇のものだと言ってみたところで、開墾しても自分のものにならないなら開墾するインセンティブがない。
困った政府は墾田永年私財法を作った。
開墾した土地はあなたのものでいい、と。
当時はまだ農地が乏しく、拓かねばならない土地が山ほどあった。
背に腹は代えられなかったのだろう。
こうして公地公民は崩れ、藤原氏が力を蓄え、道長が望月の歌を詠むころには、律令制の骨格はもう残っていなかった。
清盛と、厳島神社をつくった一族
そこへ出てきたのが平清盛だ。
彼が拠って立ったのは律令ではなく武威、つまるところ暴力である。
安芸守に任じられた清盛が力を入れたのが厳島神社だった。
もっとも、厳島神社そのものを清盛がつくったわけではない。
社伝によれば創建は飛鳥時代、推古天皇元年。
手を下したのは佐伯鞍職という人物である。
この佐伯氏こそ、いまの広島市佐伯区の名の元になった一族だ。
本拠は広島工業大学のあたりだったと言われ、古墳時代から五日市・廿日市の一帯に栄えていた。
府中町の国府がまともに動かなくなったころには、彼らが府中町へ出向いて実務を回していた記録すら残っている。
その末に出たのが佐伯景弘で、清盛と手を組み、いま僕たちが見る厳島神社の姿をつくった。
さきほど、日本は仕事を家に継がせる道を選んだと書いた。
佐伯氏はまさにその典型である。
国造から郡司へ、そして厳島の神主職へと、役目ごと家が抱え込んで代々受け渡していく。
中央が弱ったときに現場が回ったのは、この世襲があったからでもある。
制度としては歪だが、現実の統治はそれで動いていた。
厳島神社はなぜあの場所にあるのか。
当時の瀬戸内海は、中国との貿易の大動脈だった。
京へ荷を運ぶなら関門海峡から瀬戸内海に入って東へ向かうのが最短で、しかも波が穏やかだ。
その航路の途中に社を置く。
航海の安全祈願であり、海賊への備えでもあったのだろう。
平氏が壇ノ浦に沈んだあとも、景弘は源頼朝に取り入って神主職を守り切っている。
佐伯氏が神主家の座を失うのは承久の乱で朝廷方についてからで、代わりに藤原氏が入ってきた。
このころには一帯の土地は厳島神社の神領になっていて、年貢は国ではなく社に入る。
この地は佐西郡と呼ばれるようになっていた。
武田山の麓が、広島の中心だった
一方、いまの広島市街はまだ存在していない。
祇園大橋より南は中州ばかりで、デルタは固まっていなかった。
中心はもっと北、僕たちが祇園と呼ぶあたりにあった。
祇園という地名は、京から勧請された祇園社に由来する。
明治の神仏分離で安神社と改められたが、地名は現在も残っている。
平氏が滅んだのち、清和源氏の流れをくむ武田氏が安芸国の守護としてやってくる。
のちに武田信玄を生む甲斐武田氏と、同じ一族だ。
承久の乱で戦功を挙げた武田信光が守護職に任じられ、はじめは代理を送って治めていたが、やがて一族がこの地に住みつく。
西は厳島神社の神領で手が出せない。
そこで彼らは武田山に銀山城を築き、南麓に守護所を置いた。
石垣のない中世の山城だから、いま登っても派手な遺構はない。
それでも郭や堀切の跡は今日まで残っていて、広島経済大学の奥に登山口がある。
市街地から見上げれば、あの山が300年ものあいだ安芸の政治の中心だったことは、地形として腑に落ちる。
このあたりの地名は今も雄弁だ。
古市が残り、今津が残る。
古市があるなら新市もあったはずだが、そちらは地名として残っていない。
港があり、市が立ち、すぐそばに役所がある。
広島市域の中心は間違いなくここで、佐東郡と呼ばれた。
古代の西国街道も、府中町から戸坂へ北上し、西原で川を渡って祇園へ抜けていた。
デルタをまっすぐ突っ切ることが、まだできなかったからだ。
二つの中心がぶつかる
こうなると、武田氏と厳島の勢力が衝突するのは必然だった。
広島湾を誰が押さえるか、という話である。
正安元年には、厳島社司で桜尾城主でもあった平員家が銀山城を攻め、そのとき祇園社が焼けている。
小競り合いは200年以上続いたが、安芸武田氏は最終的に毛利元就に滅ぼされる。
厳島側は途中から周防の大内氏を頼り、その運命を共にした。
行き着く先が厳島合戦だ。
まとめると、国府が衰えたあとの広島市域には中心が二つあった。
祇園の古市周辺と、佐伯区三宅と厳島。
このせめぎ合いは、毛利が広島に城下町を築くまで続く。
こうして並べてみると、広島の中心は府中町から祇園と佐伯区&厳島へ、そして最後に今の広島城周辺へと、地形の変化を追いかけるように移動してきたことがわかる。
ではなぜ、毛利輝元はあの場所に広島城を築城したのか。
続きはまた改めて。
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