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ツレシモノ〜憑かれしものの残響録〜 第十四話 日向の願い

応接間には、静かな空気が流れていた。

カチャン。

日向がティースプーンを、紅茶の中でゆっくりと回す。ミルクが混ざり、マーブル模様を作り、やがて溶け込む。僕はその姿を見るともなしに眺めていた。

さっきまで一緒にいた彼方は、缶コーヒーを一本飲み干すと、そのまま現場へ向かった。本家の中は今はずっと慌ただしい。時折、廊下を走る足音が聞こえる。遠くで誰かが名前を呼ぶ声もした。

けれど、ここだけ世界の色が違った。斜め向かいのソファでは、日向がティーカップを両手で持ったまま、ぼんやりと湯気を見つめている。僕は窓の外へ目を向けた。

「彼方、大丈夫かな」

「そうですね」

日向は相槌を打つ。少しして。

「たぶん、大丈夫だと思います」

「たぶん?」

日向は困ったように笑った。

「兄は少し、無理をする人ですから」

日向は顔を上げ、遠くに視線を送る。

「特に、私のことになると」

「もしかして、過保護?」

「そうですね」

昨日、いきなり胸ぐらを掴まれて、そのまま片手で持ち上げられたことを思い出す。

「なるほど。なんとなく分かる」

日向は今度は視線を落とす。

「昔からなんです」

そう言ってから、少しだけ間が空いた。

「私を庇って、目を怪我したんです」

「そうなの?」

声が少しだけ高くなる。確かに両目の瞼には傷があった。

「はい」

「彼方、目悪いの?」

「とても」

全然気づかなかった。

「眼鏡かコンタクトがないと、日常生活も難しいと思います」

「そんなに?」

「はい」

昨日の彼方を思い出す。普通に歩いていた。僕のことも見ていた。何より、あれだけ動ける人間がそんな状態だとは思わなかった。

「兄は、鼻がすごく利くんです」

「ああ」

「見えない分を、匂いで補ってるんです」

そして今度は顔ごと視線を左下に向けた。

「私を守った時の怪我です」

消え入るような声だった。カチ、カチと振り子時計の音が甲高く響く。

「何があったの?」

日向はすぐには答えなかった。カップを持ったまま、親指だけがゆっくり動いている。

「父は、優しい人でした」

やがて、ぽつりと言った。

「休みの日には、よく家族で出掛けて。母とも仲が良くて」

少しだけ口元が緩んだ。

「兄はよく父に怒られていました」

「やんちゃだったの?」

「はい。今より」

なかなか怖い映像が浮かんだ。どうやら顔に出てたらしく、日向が小さく笑った。でもそれは、長くは続かなかった。

「ずっと、そんな家族だと思っていました」

過去形か。僕は表情を引き締めた。

「でもある時から、父は変わってしまいました」

日向の指が止まった。

「最初は、分からなかったんです」

僕は黙って頷く。

「少し怒りっぽくなったり。急に黙ったり。でも次の日には、いつもの父に戻って」

日向のカップを持つ指に、力が入る。

「だから家族みんな、大丈夫だと思ってました」

声が少し掠れた。

「大丈夫だって、思いたかったのかもしれません」

空気が乾いていく。僕は小さく唾を飲む。

「でも、駄目でした」

それだけだった。しばらくして、日向が自分の目元に触れた。

「兄は、私を庇いました」

日向の指がゆっくり下りる。

「母は…」

そこで、言葉が止まった。俯いた日向は両手を握りしめる。僕は、何もできなかった。やがて日向はゆっくりと顔を上げた。

「結局父は、政府の人たちに連れて行かれました」

日向が小さく息を吐いた。

「それから、会っていません」

「そっか」

それ以上、何も言えなかった。日向は冷めかけた紅茶を一口だけ飲んだ。

「父のこと、今でもよく分からないんです」

「うん」

「あの日のこと、とても怖かったんです」

カップが静かにテーブルへ戻される。

「今でも怖いです」

カチャ。小さな音が鳴る。

「でも」

日向はカップから手を離さなかった。

「優しかった父も、覚えてるんです」

僕は口を挟まない。相槌を打ち、ただ聞くだけ。

「だから、もし嫌いなのかって聞かれても、正直、分からないんです」

日向は首を横に振った。弱々しく。少しだけ唇をかみしめて。

「それから私は、ずっと部屋にいました」

「ずっと?」

「はい。外に出るのが怖くなって。人に会うのも怖くなって」

部屋を見回す。

「兄だけは、ずっとそばにいました」

そして、さっき彼方が出ていった扉を見た。

「だから、兄は私のことになると、ああなるんです」

その横顔は、少しだけ困っているようも見えた。

「守られてばっかりですね。私」

日向はそのまま扉を見ていた。しばらくして、また口を開く。

「そんな時に、マナカさんが来ました」

声のトーンが、少しだけ変わった。

「何度も、家に来てくれて」

「うん」

「最初は、ほとんど話せませんでした」

日向はゆっくり窓の外へ目を向けた。

「それでも、また来て」

一度、言葉を切る。

「また来て」

一言ずつ、はっきりと。

「気づいたら、外に出ていました」

日向が僕の顔を見る。僕も日向の顔を見る。目には強い意志が宿っていた。

「だから今、私はここにいます」

日向は視線を逸らさない。声のトーンがさらに高くなる。

「門下生になって、霊に憑かれた人を助けています」

一瞬の間。

「父みたいな人を」

日向の声は静かだった。

「霊に憑かれた人は、必ずしも悪い人じゃないんです」

しかし、意志のある言葉。

「きっと、普通の人なんです」

日向は窓の外に視線を移す。

「家族がいて、誰かを大切にしていて」

そこで声が止まった。

「ただ魅入られて、自分では止められなくなって。そして全部、壊してしまっただけ」

その言葉のあと、長い沈黙が残った。僕は言葉が見つからなかった。何も浮かばない。家族のことも、彼方のことも、何年も部屋から出られなかった日向のことも。

僕が今ここで何かを言ったところで、どうなるものでもない。それでも。

「僕に、何かできることってあるのかな」

その言葉に、日向の目が揺らいだ気がした。驚いているような、泣きそうなような、躊躇しているような。そんな目で、しばらく僕を見ていた。

「そのままで」

「え?」

日向は一度、目を伏せた。そして、もう一度僕を見る。

「そのままでいてほしいです」

僕は何も返せなかった。日向も、それ以上は何も言わなかった。

応接間には静かな空気が流れている。この場所だけ世界から切り離されたような、寂しい色をしていた。

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