ツレシモノ〜憑かれしものの残響録〜第十五話 約束
「そのままでいてほしいです」
日向のその言葉に、僕は何も返せなかった。霊に憑かれることは、人を不幸にする。火に魅入られて、火をつけてしまう人がいる。怒りに飲まれて、大切なものを壊してしまう人がいる。そして、自分では望んでいなくても、誰かを傷つけてしまう人がいる。
昨日の道場の光景が脳裏に浮かんだ。壁に叩きつけられた洸太郎。あの時、僕は何もしていない。何かをした感覚すらなかった。それでも、洸太郎は傷ついた。僕に憑いている霊が、僕を守ろうとしたから。
僕は自分の身体を見回す。三十体もの霊に憑かれている。でも身体も、考え方も、何も変わっていない。洸太郎からも、危険人物ではないと言われた。
でも、それで昨日のことがなくなるわけじゃない。僕だって、きっと例外じゃない。じゃあ、火をつけたあの男はどうなんだろう。あの人は、本当に火をつけたかったのだろうか。
家を燃やしたかったのか。誰かを傷つけたかったのか。それとも、そんなことは一度も思っていなかったのか。僕には分からない。
日向さんのお父さんだってそうだ。優しい父親で、家族を大切にしていた。それなのに、霊に取り憑かれて変わってしまった。だったら、人を変えてしまう霊って、一体何なんだろう。
僕に憑いている霊は、僕を守った。日向さんのお父さんに憑いた霊は、家族を壊した。そして火の霊は、今もどこかで誰かを魅入っている。
同じ霊なのに、あまりにも違う。そもそも、どうして霊なんてものが存在するんだろう。何を思って、人に取り憑くんだろう。僕に憑いている三十体も、どうして僕を守ってるんだろう。
考えてみれば、僕は何も知らない。霊のことも。霊に憑かれた人のことも。そしてたぶん、自分のことも。三十体に憑かれて、それでも何も変わらない僕は、一体何なんだろう。
答えは出なかった。当たり前か。一昨日まで、霊がいることすら知らなかったんだから。それなのに。
「そのままでいてほしいです」
その言葉が、妙に胸に残っている。僕には、彼女の本当の思いは分からない。でも。きっと、簡単に出てきた言葉じゃない。それは理解できた。そして僕は、顔を上げた。
「あの、日向さん」
「はい」
日向が僕を見る。
「僕は何もできないかもしれない」
霊のことも、憑かれた人のことも、まだ何も分からない。僕自身のことだってそうだ。それでも、一つだけ。
「でも僕は、僕のままでいることはできる」
日向は何も言わなかった。僕は自分の手を見る。何が正しいのかなんて分からない。自分が特別な何かだとも思えない。僕は誰かのヒーローになんてなれない。
たぶん、これからも分からないことばかりだ。でも、それでいい。分からないなら、分からないまま、ありのままを見ればいい。そして僕も、僕のままでいればいい。僕は手を開き、そして握りしめた。
「もしそれが、日向さんや誰かの救いになるのなら」
一度、息を吸う。
「僕は変わらない」
口にしてみると、不思議なくらい自然だった。
「変わらないことで、何かを変えてみせるよ」
日向の目が、わずかに揺れた。数秒、何も言わなかった。やがて、その表情がゆっくりとほどけていく。
「はい」
柔らかく、それでもはっきりと。
「三鷹乃さんは、私の希望です」
日向は少しだけ目を細めた。口元には、柔らかな笑みが浮かんでいた。その表情を見て、僕も少しだけ笑った。
そして、その穏やかな時間を切り裂くように、無情な警報が鳴り響いた。
***
ビィィィィッ!!
思わず肩が跳ねた。スマホからだ。普通の着信音じゃない。日向がすぐにスマホを手に取る。画面を見た瞬間、その表情が変わった。
「日向さん?」
返事はない。画面を見つめたまま、小さく息を吸う。
「火の霊が確認されました」
静かな声だった。
「第六の火災の発生確率も増大。門下生全員に緊急出動要請です」
第六。その数字だけで、胸の奥がざわついた。日向はスマホを握ったまま立ち上がる。もう片方の手で、ほんの一瞬だけぎゅっと拳を作る。そしてすぐに力を抜き、顔を上げる。
「今はまだ、大きな人的被害は出ていません」
「でも、かなり危ないんだね」
「はい」
迷いのない返事だった。
「状況は深刻です。あの人を救えるかどうかも、分かりません」
日向は一度だけ目を伏せる。そして、真っ直ぐ前を向いた。
「それでも、今できる最善は尽くしたいです」
その言葉を聞いて、先程の父親の話を思い出す。でも、何も言わなかった。きっと今の日向に、僕から言えることなんてない。
「三鷹乃さんは、ここにいてください」
日向が扉へ向かう。
「私たちが何とかします」
「あ、日向さん」
足が止まった。振り返った日向が、少しだけ首を傾げる。
「あのさ」
さっきまで向かい合っていたソファを見る。テーブルの上には、二人分の紅茶が残っている。
「短い時間だったけど、ここで話せて楽しかったよ」
言ってから、ちょっと恥ずかしくなった。こんな時に何を言ってるんだろう、僕は。でも、もう言ってしまったものは仕方ない。
「帰ってきたら、今度は僕が紅茶を入れるよ」
日向が少し目を丸くした。視線が、テーブルの紅茶へ向かう。
「はい。楽しみにしてます」
日向は小さく笑うと、扉へ向かった。扉が開く。それまで遠くに聞こえていた足音や声が、一気に応接間へ流れ込んできた。
日向はその中へ踏み出す。扉が閉まる。再び、静寂が戻った。テーブルの上には、二人分の紅茶が残されていた。僕は自分のカップに手を伸ばす。まだ、少しだけ温かかった。
