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18歳で島津を止め、大坂夏の陣まで戦った武将・佐伯惟定

山田宗昌だけではない。若武者・佐伯惟定も、相当強い武将だった。

前回、佐伯惟定を調べていたら、山田宗昌という、とんでもない武将を見つけた。

生涯不敗と伝わり、島津家久勢を相手に偽兵と伏兵を使って撃退した軍師である。

ところが、山田宗昌を調べたあと、もう一度、佐伯惟定に戻ってみた。

すると、こっちも相当強い。

佐伯惟定は、豊後・栂牟礼城の城主。

耳川の戦いで祖父と父を失い、若くして佐伯家を背負うことになった。

そして1586年、島津家久が豊後へ侵攻してくる。

このとき惟定は、まだ18歳前後だったという。

ただの「18歳の若武者」ではない

18歳で城を守った。

それだけでも十分すごい。

しかし、惟定は城に籠もって豊臣軍の到着を待っていただけではない。

島津勢と戦い、撃退し、さらに追撃する。

若いから周囲に守られていた、というタイプではなかったようだ。

もちろん、その横には山田宗昌がいた。

島津との戦いを知る歴戦の軍師が作戦を立て、若い惟定が佐伯家を率いて戦う。

この組み合わせが強かったのだと思う。

佐伯家では、惟定の母も抗戦を後押ししたという話が残っている。

夫を耳川で失っている。

それでも島津に降る道を選ばなかった。

佐伯家そのものが、かなり気骨のある一族だったのではないか。

なぜ佐伯では勝てて、戸次川では負けたのか

佐伯勢が島津軍を食い止めたあと、島津家久はさらに豊後へ進む。

そして、その先で戸次川の戦いが起きた。

豊臣方には仙石秀久、長宗我部元親、長宗我部信親、十河存保らがいた。

しかし、豊臣方は大敗。

長宗我部信親と十河存保は戦死した。

ここで、どうしても考えてしまう。

なぜ佐伯惟定と山田宗昌は島津勢を退けることができたのに、豊臣方の有力武将たちは家久に敗れたのか。

兵の数だけではないだろう。

島津が、どういう戦いをする軍なのか。

それを知っていたかどうかも、大きかったのではないか。

山田宗昌は伊東家の旧臣。

長年、島津と戦ってきた人物である。

島津軍は、退却して敵を誘い込み、伏兵で叩く「釣り野伏せ」を得意としていた。

敵が退いたからといって、簡単に「勝った」とは考えなかったはずだ。

あと少し、島津を止めていたら

ここからは歴史IFである。

堅田で島津側の部隊は損害を受けた。

兵をまとめ直す。

負傷者を処置する。

進路を考え直す。

当然、時間が必要になる。

もし佐伯勢が、さらに数日。

あるいは一週間。

島津家久を豊後南部へ足止めしていたら。

鶴賀城への攻撃時期も変わったかもしれない。

そうなれば、戸次川の戦いも同じ日、同じ条件では起きなかった可能性がある。

長宗我部信親や十河存保の運命まで変わったのではないか。

もちろん、歴史にIFはない。

ただ、一地方武将の抵抗が、九州戦線全体の時間を動かしていたと考えると面白い。

九州攻めで終わらない

佐伯惟定の人生は、島津との戦いで終わらない。

その後、朝鮮の役に出陣する。

ところが主家の大友氏が改易され、再び居場所を失う。

それでも惟定は生き残った。

藤堂高虎に仕え、次第に知行を増やしていく。

関ヶ原の戦いでは前線ではなく、留守居を任された。

派手な戦功はない。

しかし、城を任せられるということは、それだけ高虎から信用されていたということでもある。

そして惟定は、もう一度、大きな戦場に戻る。

大坂夏の陣

1615年。

大坂夏の陣。

藤堂隊は八尾で長宗我部盛親隊と激突する。

藤堂方は大きな損害を受けた。

それでも惟定は戦場に残り、その後の戦いにも参加した。

戦後には加増され、4500石となった。

若いころには島津家久勢。

晩年には長宗我部盛親勢。

考えてみれば、ずいぶん長い間、戦国の前線にいた武将である。

佐伯惟定。思っていたより、ずっと強かった

最初は、

「18歳で島津を止めた若武者」

くらいに思っていた。

ところが調べてみると、

耳川で祖父と父を失う。

島津勢と戦う。

朝鮮へ渡る。

主家を失う。

藤堂高虎に仕える。

関ヶ原を越える。

そして大坂夏の陣まで戦う。

一度だけ奇跡的に勝った若武者ではなかった。

戦国の終わりまで生き抜いた武将だった。

『豊臣兄弟!』の九州攻めで、佐伯惟定が登場するかどうかは分からない。

名前だけかもしれない。

ナレーションだけかもしれない。

それでも、もし出てきたら少し注目して見てみたい。

山田宗昌だけではなかった。

若武者の方も、戦歴が相当濃い武将だった。

DEDラボ 健ちゃん



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