信仰に対する雑感⑨・政治に対する雑感26
偶像崇拝の否定
わたしたちの愛する人たち、こういうわけですから、偶像崇拝を避けなさい。
キリスト教はユダヤ教における十戒による旧約から、神の子であるイエスを通して新たな契約をしたという新約に基づく宗教ではありますが、旧約を完全に否定しているわけではありません。現に、マタイによる福音書5章17節に律法を完成させるために自分は来た、というイエスの御言葉(みことば)にもあるように、旧約について人を縛る形でのみ解釈する祭司、長老、律法学者たちから解放することが、本来の神への信仰となると解釈できるのです。
今回引用したコリント信徒への手紙一8章4節から8節における偶像崇拝の禁止が記されたのは、旧約の十戒を否定しないことによってキリスト教の信仰の意義があることを示していると言えるでしょう。ローマ帝国の支配下にあったヘレニズム世界においては、ギリシャ・ローマ神話の神々が崇拝されており、多神教が当然視されていました。そんな中にあって一神教であるキリスト教は異色の存在と映っていたことも事実ですし、また、キリスト教信者の中にも従来のヘレニズム的な社会慣習による多神教的な要素を受け入れていた側面もあります。そうした状況が、本来のキリスト教信仰から外れるとして、キリスト教信仰において何が求められるかを記したのが今回の引用箇所になります。
日本社会においては、明治以前は本地垂迹説を採用し、神道の神々が仏教における如来、菩薩などの化身である権現とすることで、多神教をそのまま維持していたこともあり、一神教における教義を強調することについてなじみがないかもしれません。ただ、私はこの箇所における現代的意義は、時代、地域を超えた普遍概念としての唯一性としての主なる神、その普遍概念を否定し、自らの都合や欲望を優先するという偶像を崇拝することへの戒めとも読めると考えるのです。
国家・国家権力という偶像
日の丸、君が代が法律によって国旗、国歌とみなされ、学校行事、とりわけ入学式、卒業式において「国旗」への忠誠、「国歌」斉唱を義務付けることを通して、国家を絶対化させる動きが進んでいます。従来は公立学校においてのみ行われていた国旗への忠誠、国歌斉唱について私立学校に対しても強要する動きが行政サイドから動いているという話を私立学校関係者から耳にしました。既に私たちは日の丸、君が代を批判的に考察する思考自体が奪われようとしている状況にあると言えます。
日の丸、君が代に限らず、国旗、国歌に無批判であり、相対的な視点を持たないことで、国家を絶対視し、また国家が人の上に立つ可能性に道を開く危険性については、「政治に対する雑感23」の国旗を巡る問題でも触れたところです。加えて、日本においては近代天皇制においては、人民は天皇の下僕である臣民とされ、天皇への忠誠、天皇との距離の近さによって社会的地位があるとされました。(※1)
美濃部達吉の天皇機関説がリベラルとされたと言われますが、天皇機関説は国家の最高機関としての天皇という位置づけであり、天皇を中心とした国家体系という意味では天皇制国家を否定していたわけではないのです。そうした意味では天皇制国家が偶像としての役割を果たし、異議を唱える者はもちろん相対化する試みすらも縛られていたのが戦前であったと言えるでしょう。
日の丸、君が代を国歌、国旗とした際、当時の小渕恵三内閣総理大臣は、談話に於て「新たに義務を課すものではありません」と述べました。(※2)しかし、「国旗」損壊罪の審議、私立学校への行政からの日の丸、君が代の義務化の圧力と、小渕首相(当時)の主張とはまったくかけ離れた実態となっています。
今年はオリンピック、ワールドベースボールクラシック、サッカーワールドカップと、ナショナリズムを扇動するのにもってこいのスポーツのイベントが次々に開催されました。そうした中で「無邪気」に日の丸を振り、君が代を聞いて感動する観客、視聴者を好意的に捉える動きがあります。しかし、私にはスポーツイベントをナショナリズムと結びつけ、それを日の丸、君が代を通じて、国家に対して無批判的な土壌を形成しようとしている動きとしか感じられないのです。
日本のメディア、とりわけテレビはスポーツイベントやエンタメばかりをニュースの時間では流しています。しかし、海外のメディアでは国家が戦前回帰を目指している動きに対する抗議をしている人たちの様子を流していることも事実です。(※3)私たちがこうした動きに鈍感なのは、国家という偶像を当たり前のように崇拝しているからなのでしょうか。
キリストを信仰することとは
このように考えると、偶像崇拝の問題はキリスト者だけの問題に留まるのではないと言えます。世の中にあふれる、権威、権力という偶像を崇拝することは、結局私たち自身の自由な思考、権威に服しないという束縛からの解放を否定することにつながるのではないでしょうか。そして、イエスが当時の権威であった祭司、長老、律法学者に抗し、人々を解放したことの意味は何か、そのことを現代的観点でとらえることが、一キリスト者である私に問われている課題でもあると考えるのです。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。
脚注
(※1)
(※2)
(※3)
"Why antiwar protests are surging in Japan" New York Times May16-17 2026
"Japan protest: Demonstrators rally against shift away from country's post-war pacifist stance" CNA
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