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「子どもたちに民主主義を教えよう」への違和感

先日、「対話が教室のファシズムを加速させる」という記事を投稿した。

その記事を書こうと思ったのは、工藤勇一さんと苫野一徳さんの対談本『子どもたちに民主主義を教えよう――対立から合意を導く力を育む』という本を読んだことがきっかけだった。教育界では非常に著名な二人の本なので、いつか読んでみようと積読だったのだが、先日ようやく読むことができた。しかし、読みながら違和感を抱き、あの記事を投稿するに至ったという経緯があった。

僕が本書を通じて抱いた違和感は3つある。

(1)単一的な民主主義観と、子ども同士の権力関係やマイノリティの人権への関心のなさ


大きな権力による抑圧から自由になることを民主主義とみなし、生徒間の権力関係や、多数派が生む新たな排除に無自覚ではないかと思った。人権侵害=大きな権力からの抑圧という、工藤さん自身の管理教育体験に裏打ちされたイメージのままで語っているように見受けられた。

また、障害・セクシュアリティ・貧困・ルーツという、具体的なマイノリティ性をもつ子どもを想定した対話については全く語られておらず、「少数派を切り捨てない」という章でも、例に挙がるのは、好みの違いといったレベルの対立ばかりで、マイノリティの話が出てこない。

想定する対話場面も、行事や校則の調整や変更ばかりなのも、これらのマイノリティ性をもつ子どもの人権や尊厳が絡む対話の危険性を想像していないことの表れのように感じた。


(2)「妥協」の絶対化と、断定的で根拠の薄い語り口


「『誰一人置き去りにしない』状態を目指すのであれば対話は絶対に欠かせないし、合意を見出すために妥協することは決して悪いことだと思いません。一般的に、妥協って悪いイメージがありますよね。でも、妥協がなければ平和は絶対に実現しないですよ。」(pp.141-142)

という発言が象徴的だった。

つまり、妥協すべき議論(予算・時間配分など利害調整)と、妥協してはならない議論(人権・尊厳)の区別がされていないのだ。人権や尊厳にかかわる話に「妥協」を持ち込むと、これと同じ発想——「全体の分け前は決まっていて、その中でどう調整するか」という発想(パイの奪い合い)——がそのまま適用されてしまう。たとえば、ある子どもが安全に教室にいられるかどうかという話に「妥協」を求めるということは、「半分だけ安全にする」「一部だけ尊厳を認める」というような、本来ありえない足して二で割るような解決を探すことになる。

これは、被害を受けている側の安全や尊厳を、交渉で削ってもいい「取り分」のひとつとして扱ってしまっているということだ。人権や尊厳は、そもそも「これくらい削ってもいいですよね」という交渉の対象にしてはいけないもののはずなのに、「妥協は絶対に必要だ」と言い切ってしまうと、その一線がなくなってしまう。

加えて、

「話し合いをするときに子どもたちに意識させるべきは「誰が気分を害するか」ではなく「誰の利益を損ねるか」なんですよ。無駄に相手を傷つけない言葉の使い方も対話のスキルとしては大事だし僕も教えることはあるけれど、「この案を採用したら誰が得をして、誰が損をするのか。損をさせない方法は何か」を考える癖をつけるほうが、はるかに重要です。」(p.77).

という発言にも表れているように、対話の焦点が、損得基準に偏り、人権や尊厳の問題は等閑視されている。こうした工藤さんの主張はいずれも「絶対に」「〜すべき」という留保のない言い切りで語られ、根拠は個人的な体験・印象止まりであることが多いと感じた。

また、「教室では『ダイバーシティが大切だよ』『マイノリティの権利を守りましょう』と言っている教員が、自分の教室で罪悪感を一切抱くことなくマイノリティを切り捨てているんですね」(p.28)

と、工藤さんが出会ったであろう教員のことを、教員全体の傾向として提示するのもそうだし、

「教育学者で多数決が問題だと主張している人は誰も知りません(中略)唯一の例外が苫野さんなんです。とにかく日本の教育関係者で民主主義の本質を理解している人があまりに少ない」(p.29)

という発言もそうだ。しかし、はたしてこれは本当だろうか。にわかには信じがたい。教育学のなかで、多数決の限界や少数派の権利をめぐる議論は当然積み重ねられてきているし、歴史をふりかえれば、民主主義や人権について深く学び、実践してきた教師たちは数多く存在する。

たとえば、教育科学研究所が出している『教育』という長い歴史をもつ雑誌があるが、民主主義教育や対話についての教育実践は数多く投稿されてきた(今も存在する雑誌です)。

そのことを知っており、敬意を払っていれば、上記のようなことを工藤さんは軽々しく言えないはずだ。

(3)教員間の分断を生む語り方

リーダーシップ・人材育成・心理的安全といったビジネス用語を用いながら対話や民主主義教育を語り、教育実践史(「教育」誌に投稿された論考の蓄積など)を無視して「教員は民主主義を知らない」と決めつけ、ビジネス畑の外部権威を後ろ盾にして「自分こそが変革者だ」というナラティブを一貫して語り続けているように感じた。この「強いリーダー」像は自分の属する職場に対して閉塞感を持つ教員(特に男性)のフラストレーションの受け皿として、そして彼らにとってのロールモデルとしても機能しているように見える。だから工藤さんのわかりやすい断定的な強い言葉は、強いリーダーを理想とする(主に)男性教員に刺さりやすい。

「僕も採用試験の面接官を山ほどやりましたけど、教員を志した理由を訊くと『素敵な先生と出会いまして』と答える人が本当に多いんです。その答えを耳にするたびに僕は最悪の気分になります。だって過去に素敵な先生と出会ったから教員を志したという発言は、子どもたちを見ている言葉には聞こえないじゃないですか。それに日本の学校教育を肯定的にとらえている可能性が限りなく高いですよね。」(pp.77-78)

これも、自分の「正しさ」の押しつけだと思う。「素敵な先生と出会った」という一言から、「子どもたちを見ていない」「学校教育を肯定的にとらえている」という二つの解釈を、本人の意図とは関係なく一方的に決めつけている。

素敵な先生と出会ったからこそ、その先生のような存在を自分もめざしたい、その先生が教育を通じて自分にくれたものを他の子どもにも届けたい、と考える教員がいてもおかしくないし、その思いは頭ごなしに否定されるべきものではない。

端的に言って、教員を志す背景の多様さへの想像力を欠いている。このように、複雑な現実を敵と味方で単純化し、「旧来の教育・変われない教員」をわかりやすい仮想敵に仕立て上げ、大衆の不満を煽るやり口は、橋下徹のそれとよく似ている気がしてならない。

先人への敬意をはらうこと、「敵」を作る教育改革を当たり前と思わないこと

ここまで工藤さんの本に感じた違和感を書いてきたけれど、一つ付け加えておきたい。自分の中にある怒りを原動力に、思いを教育改革という形で実現しようとすることには、共感を覚えるし、深いリスペクトを抱いている。

ただ、自分の正しさをあまりに絶対化して、そこにそぐわない教員やこれまでの教員文化を一緒くたに「時代遅れ」として切り捨ててしまうあり方は、分断を生むと思うし、もう生み出している気もする。これまで多くの教員たちが、すでに民主主義教育や人権教育を実践してきた。それは工藤さんが単に知らないだけのことだ。過去の実践や、それを積み重ねてきた先人たちへのリスペクトが圧倒的に足りていないことが、この本の一番残念なところだと思う。

そしてこれは、僕自身にとっての反面教師のような本でもあった。僕も、怒りが原動力だから、闇堕ちすると、自分の「正しさ」を絶対化して、自分の価値基準に当てはまらない人たちを「変われない側」「遅れている人たち」と見下し、わかりやすい敵味方の二項対立を作り、教員同士の分断を煽ることをしかねないなと、読みながら怖さも感じた。(もしかしたら、もうしているのかもしれない・・・)

工藤さんのファンはたくさんいるので、この本の批判的感想を書くことに躊躇があったけど、批判している人がいない(というか、ネット上で目にしたことがないので)ので、書いてみた。シスジェンダーでゲイ男性というマイノリティ性を持つ僕のような人間からすると、工藤さんの教育論はこんなふうに映るんだということを知ってもらいたく。

工藤さんをはじめ、いわゆる男性教育改革者たちがジェンダーについて語らないことについても書きました。こちらもよろしくどうぞ。


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