沈黙している教育者たちへ — ジェンダーを語らない違和感について
男性教員のジェンダーへの失語的状況
教育関係者のあいだで、フェミニズムに言及しない人があまりにも多いことを、私はここ数年ずっと感じている。
誰が声を上げ、誰が沈黙しているのか。
それは思っている以上に、はっきり見える。
まず、事実として、学校はシスジェンダー男性をデフォルトとして設計されているということ。そして、学習指導要領では、いまだに異性愛規範と性別二元論が「ふつう」とされていること。
それらを考えると、女子と、性的マイノリティの子どもたちが、明確な不利益を被っていることに、もはや議論の余地はない。
それでもなお、教育の現場でジェンダー平等を主題として語る人は少ない。とりわけ、シスジェンダー男性教師のジェンダーに関する問題への沈黙は特筆に値する。(主語が大きいと批判する人もいるかもしれない。もちろん、声を上げたり、進んで学ぼうとするシスジェンダー男性教師はいるが少数にとどまる)
もはや、失語的状況とも言える。
ジェンダーは「女性の問題」ではない
これは「一部のジェンダーの問題」ではない。男性にとっても当事者性がある話だ。
男性は特権を持つ側に位置づけられることが多いが、同時に男性性の規範によって深く縛られている。
孤立、
自殺率の高さ、
感情表現の抑圧……。
これらもまたジェンダーの問題であり、教育が無関係でいられるはずがない。もちろん、ジェンダーがすべてを説明するわけではない。しかし、誰もが無関係ではいられないイシューであることは確かだ。
『学校の「男性性」を問う』という本でも指摘されている通り、学校という空間における役割分担、期待、評価、権力関係を考えると、そこには常にジェンダーの影響が織り込まれていることは明らかだ。
ジェンダー不平等は単独の問題というより、社会の基盤的問題だ。だからこそ、ジェンダーに関して一切触れることなく、教育を語ることは、論理的に欠陥を抱える。
それにもかかわらず、ジェンダーに関する問題には、多くの教育関係者は沈黙を選ぶ。もはや黙殺と言っていいレベルだ。
沈黙は中立ではない。沈黙は現状への加担である。
スーツ姿で腕組みして「未来の教育」を語るボーイズクラブ
教育改革を語るカリスマ的な男性教育者たちが、男だけの並びで、スーツ姿で誇らしげな表情を浮かべ、腕組みをした取材写真を、メディアで目にする。
よく目にする光景だ。
ボーイズクラブってやつだ。
ああ、またかと思う。
彼らは「未来の教育」を語る。
VUCAの時代、
AIに淘汰されない人材を育てる、
非認知能力を身につける……
結構なことだ。
しかし、その未来像の中に、ジェンダー不平等への具体的な視点が含まれていることはほぼない。人権教育、包括的性教育、ジェンダー平等なんて言葉は彼らの口からは一切出てくることはない。
笑っちゃうぐらいに。
だから、彼らは臆面もなく「人材」という言葉を使う。けれども、子どもたちは材料としての人ではない。取り替えの効かない一人の人間だ。
彼らの口から出てくる言葉は、ビジネス用語だ。教育をとかくビジネスのスキームで語りたがる。改革の言葉は派手でも、権力構造への人文知に裏付けされた問いが彼らの口から放たれることはない。
教育の外側を変えることには熱心なのに、教育の内側に埋め込まれたジェンダー規範や秩序には、触れない。社会で「役にたつ」スキルを身につけさせることには躍起になるのに、人権や尊厳を学ぶ機会を担保することには関心がない。
この選択はただの偶然ではないように見える。
それは単なる彼らの見落としではなく、どこまで踏み込むかという意図的、打算的な線引きに近いのではないかと邪推してしまう自分がいる。
権力やポジションを守るために語らないのだろう、あえてジェンダーという「火中の栗を拾いに行く必要はない」と「合理的」に判断しているのかもしれない。もしくは「男社会」から異端視されることを恐れているのかもしれない。
影響力のある立場にいる人ほど、この傾向は顕著に見える。彼らは安全圏にいる間は口を閉ざし、風向きが変わってから語り始めるのかもしれない。
しかし、その風向きが変わるのはいつだろう。
高市政権が発足した今の社会で、その風向きが変わる見込みはまた遠い未来へと先送りにされてしまった感がある。
なぜ男性教師は沈黙するのか
戦争や社会問題について発言する男性教師の投稿や呼びかけには反応するのに、ジェンダーの話になると、同じ男性教師たちは、揃いに揃って沈黙する。
彼らのこのような行動の選択も、教育界に存在する力関係を示しているように思える。誰の言葉に応答し、従えばいいのか。そこにはある種の計算があるのだろう。
こうした男性教師たちの沈黙に対して、
「彼らは知識不足だから慎重になっているだけだ」
「一気に状況を変えることはできない。徐々にじわじわと」
という反論もあるだろう。
確かに、専門的な知識なしに語ることの危うさはある。教育者であればなおさら、その自覚は重要だ。私自身、そうなのだろうなと自分に言い聞かせてきた。彼らを諦め、見切りをつけたくないという気持ちも正直あった。
しかし、その気持ちを何年も維持することはできない。
一体、これ以上何年待てばいいのかという思いもある。
焦ってはいけないと思いつつも、結構限界に近づいている。
ジェンダー平等はここ数年で突然現れた議題ではない。
何十年も前から研究と実践が積み重ねられてきた領域であり、教育と接続可能な知見はすでに広く共有されている。
知識不足を理由に沈黙するのであれば、次に取るべき態度は明確だ。
目の前に不利益を被っている子どもがいる以上、
教師は速やかに学ぶことである。
これまでに、学ぶ時間は十分にあったはずだ。
それでもなお、学ぶことを後回しにし、沈黙し続けているという事実そのものが、その教師の教育観や世界観を饒舌に物語っている。
結局のところ、彼らは関心がないのだ。
彼らの関心はその程度なのだ。
教育の基盤に触れない教育論への違和感
たしかに、そもそも、すべての教育者がジェンダー問題にフルコミットすべきだとも思っていない。それぞれの関心や専門領域があるのは当然だ。それぞれの実存によって温度差があるものだから。
しかし、まったく語らないという姿勢には、違和感しかない。
個別最適化
学びの主体は子ども
ICT教育
PBL
対話の技法
自由進度学習……。
どれも大切なことだと思う。
しかし、ジェンダー不平等が教育の現場に深く関わっていることを考えると、人権教育や包括的性教育に一切触れないままでいることは、学校として、そして、教育者としてどういう了見なのか?という疑問がどうしても拭えない。
教育現場を覆い尽くす、ジェンダー不平等に対する教員の失語的な態度は、教員が授業づくりにまったくコミットしないまま教壇に立つことに近い違和感がある。
専門分野の差はあっても、教育という営みの基盤に関わる部分を完全に回避することはできないはずだ。
変えようとしている男性たちもいる
一方で、変えようとしている男性たちがいることも、きちんと書いておきたい。研修講師や執筆者のジェンダー比率に対して、粘り強く声を上げ、実際にアクションを起こしている人たちがいる。
すぐに頭をよぎるのは、授業づくりネットワーク代表で元中学教師の石川晋さん。彼は、長い間、研修講師や執筆者のジェンダー比に対して声を上げ、講演会といった場がマネル(manel: 男性だけで構成されたパネルディスカッション)化することに対して問題意識を表明してきた。同様に、大学教員で教育方法学の教鞭をとる渡辺貴裕さんも同様の問題意識を持ち、実際に声を上げてきた人だ。加えて、養護学校の主任教諭で心理士の川上康則さんも、その一人だ。
彼が所属している団体は、長いあいだ登壇者のジェンダー比が男性に偏っていた。私自身、そのことは知っていて、その団体から講師の依頼を受けたとき、もし講師陣のジェンダー比が偏っているのであれば引き受けられないこと、そして私の席を女性に譲ってほしいことを率直に伝えた。
すると川上さんは、すでにその問題は解決済みであると伝えてくれた。川上さんは、ジェンダー不平等の問題に対し、一男性として、団体としてこれまでの在り方を見直したこと、そして今年からジェンダー比の改善に本格的に取り組んでいることを知らせてくれた。
単に男女同数に揃えるという表面的な調整ではない。分科会では、発表者を女性中心に、聞き手を男性中心に配置するなど、これまで無自覚に固定されてきた役割分担そのものへの問題意識が反映されていた。

ここまで徹底的に変えたことに、私は本当に驚き、心からうれしく思った。と同時に、川上さんに深い敬意を抱いた。
もちろん、社会の仕組みも、人の態度も、簡単には変わらない。だから、すぐにすべてを変えろと言いたいわけではない。それでも、この社会の状況を考えれば、フェミニズムやジェンダー平等について、どこかのタイミングで声を上げてほしいと思っている。
いつもでなくていい。すべての場面でなくていい。ただ、ここぞというときに、自分の判断で、自分の言葉で、声を上げる勇気を持ってほしい。
男は男の言うことを聞く。
これは現実として存在している力学だ。
だからこそ、男性が持っている権力や影響力は、男性自身が自覚し、倫理的に使うべきだ。
なぜ私がこの文を書いているか。それは、私がシスジェンダー男性であり、50歳に近く、ある程度の社会的発信力を持っている立場にいるからだ。しかし同時に、その影響力には限界もある。
とはいえ、ゲイ男性でもある。だから、ヘテロ男性よりも社会的な影響力は劣る。どうしても「はいはい、当事者だからね、感情的になりますよね」と見なされがちだ。だからこそ、自分よりも、より大きな影響力を持つ人が沈黙していることに、もどかしさを感じる。
私はこれからも、彼らの沈黙と、声を上げる勇気の両方を観察し続けるつもりだ。
