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発達障害の自分を律する「包丁」—— 『天皇の料理番』に学ぶ、つまらない仕事にまごころを宿す技術

※はじめに:少し熱苦しいかもしれません(笑)

ゆるく生きる。効率やタイパが重視される昨今。 今日の話は、そんな時代と真逆に全力疾走するような「昭和で暑苦しい」お話です。

効率を求める方にはドン引きされるかもしれませんが、私の愛するドラマ『天皇の料理番』から、仕事と人生に大切な「まごころ」について熱く語らせていただきます。

覚悟はいいですか?(火傷に注意してお読みくださいね!)


ADHDやASDの特性を持つ私たちにとって、一度スイッチが入った感情は制御不能な嵐のようです。 その嵐の中で自分を見失わないためのストッパーとして、妻・俊子が篤蔵に託した「鈴」について、先に公開した記事で触れました。パニックでメタ認知が吹き飛び、ブレーキの壊れた車を素手で止めるような絶望感の中で、本来の自分へ立ち戻るための合図についてです。

でも、鈴を鳴らして嵐をやり過ごしたあと、私たちはふと立ち尽くしてしまいます。 「感情は鎮まったけれど、この目の前の、思い通りにならない現実たちに、いったいどう向き合えばいいんだろう」と。

重く、逃げ出したくなるような日常や雑務。その一歩をどう踏み出すべきか。その答えを、私はまた、ドラマ『天皇の料理番』の篤蔵の恩師である、料理長・宇佐美が磨き続けた「包丁」の中に見つけました。

1. 鍋を洗うことは、自分を洗うこと

憧れの世界に飛び込んだ篤蔵を待っていたのは、料理ではなく、山のような鍋を洗う日々でした。「一度洗った鍋を、翌朝もう一度洗う」という厳しいルールと、来る日も同じ作業に「いいかげん料理を早く覚えたいんだ」と篤蔵は苛立ちを募らせていきました。

そんな中、篤蔵はたった一度だけ、翌朝の鍋を洗わずに済ませてしまいます。しかし、料理長・宇佐美はそのわずかな鍋の匂いに気づき、静かにこう諭しました。 「鍋もまともに洗えん奴が、まともな料理人になったためしがない」

その言葉に、篤蔵は食ってかかります。 「けど、鍋洗いの名人が料理の名人になるわけじゃありませんよね」

正論かもしれません。けれど宇佐美は何も言い返さず、ただ黙って、洗い終えたばかりの鍋を洗い場にドン、と置きました。それを見た他の料理人たちも、次々と使い終わった鍋を山積みにしていきます。

納得ができない、やりたいことができない。そんな篤蔵の焦りや苛立ちは、似た特性を持つ私たちにも痛いほどよく理解ができることかもしれません。「もっと本質的なことがしたい」「なぜこんな無駄な時間を奪われるのか」 ――無意味に浪費されているような感覚に、強いフラストレーションを抱く気持ちがよくわかります。

でも、現実は、仕事はたいてい綺麗ごとだけではありません。こういう地道な作業の繰り返しの毎日なのです。宇佐美の無言の圧力は、理屈を超えた場所にあるその「現実」を、言葉よりも重く教えてくれているように思いました。

2. 自分を律する「包丁」を研ぐ音の中で

そんな「山積みの鍋」という絶望的な現実を突きつけられたあとも、篤蔵の焦りは収まりませんでした。あろうことか彼は、宇佐美が長年書き溜めてきた門外不出の「料理手帳」を盗み出し、独学で先へ進もうとしてしまいます。

自分の浅はかな行動が露呈し、すべてを失う覚悟をした夜。篤蔵は誰もいない厨房で、一人黙々と包丁を研ぐ宇佐美の姿を目にします。

シュッ、シュッ、と規則正しく響く、単調な音。一寸の狂いもなく、鏡のように磨き上げられていく包丁の背。そこには、静かに自分を律する宇佐美の顔が映り込んでいました。

宇佐美は、手帳を盗んだ篤蔵を責めるどころか、「親切にもらったものよりも、てめぇで必死になって盗んだものの方が人は大事にする」と、その渇望さえも包み込みます。そして、静まり返った空気の中で、あの重みのある言葉を放つのです。

「小さな手抜きが大きな失敗になる。そういうのはまごころがない。料理はまごころだ。技術は追いつかないこともある。食材は望みどおりにいかないこともある。けど、まごころだけは、てめぇ次第でいつでも最高のものを出すことが出来る」

天皇の料理番 Episode 2 より

爪を短くすること、鍋を丁寧に洗うこと、皿を磨くこと、包丁を整えること。 宇佐美が伝えたかったのは、そんな目の前に確実に取り組める小さなことをおろそかにしてはいけないという教え。そして、その小さな一つひとつを積み重ねることこそが、いつか大きな仕事へと繋がっていく唯一の道だということだったのでしょう。

自分の思い上がりが、宇佐美の圧倒的な器によって完膚なきまでに打ち砕かれた瞬間、篤蔵はただ、こらえきれずに涙を流しました。

しかし、この夜を境に、篤蔵の目に映る厨房の景色は一変します。「まごころ」という言葉が、篤蔵の中で理屈を超えて腑に落ちたその瞬間に、彼を支配していた「迷い」は消え、一つひとつの物事に対して真っ直ぐに向き合う「誠実さ」が宿ったのです。

すると、今まで見えていなかったものが、次々と目に飛び込んでくるようになりました。料理人が次にどうしようと考えているのか。どうすればその段取りを楽にできるのか。自分のことばかりで精一杯だった青年が、他者の動きを読み、先回りをして動けるようになっていく。その「小さな誠実さ」の積み重ねが、楽しさへと変わり、篤蔵を本当の意味での成長へと導いていったのです。


さいごに: 私にとっての「包丁を研ぐ」ということ

宇佐美が説いたのは、うまくいくかどうか(技術)、思うようにいかない現実(食材)よりも、まず目の前の一つひとつとどう向き合うかという「姿勢」をおろそかにしないということと解釈しました。

私自身、発達特性も色濃く、段取りも苦手で不器用です。失敗も多く、すぐに集中が切れて疲れる。仕事が遅い上に、自分が納得できるまでは、手を止めることもできない。自分でも本当に「面倒くさいこだわり」だと自覚はしています。

けれど、その不器用な「こだわり」こそが、私の「まごころ」だったのだと気づきました。

私がなんとか今の仕事を続けてこれたのは、目の前のことを、愚直に、下手くそでも、ひたむきに最後までやり抜こうとしてきたから。その「こだわり」という名の「まごころ」があったからこそ、今があるのだと感じています。

誰にも見えないところで手を抜くことは、いくらでもできたでしょう。けれど、誰が誤魔化せても、自分自身だけはそれを見ているのです。

かつての篤蔵がそうであったように、迷いの中でする事務作業は、フラストレーションが溜まるばかりの苦痛な時間です。でも、この教えを思い出し、じっくりと腰を据えて取り組んでみる。すると、少しずつ上達している自分に気づき、嫌いだった作業の中にも小さな楽しさが芽生え始めました。

厨房の景色が変わった篤蔵と同じように、視界がほんの少し拓けた気がして、ようやく仕事の本当の意味を知ることができた気がします。

大きなことを成し遂げようという野心はありませんが、日々の小さな仕事を丁寧に終えること。毎日のお弁当を作ること。お一人お一人の患者さんと誠実に向き合うこと。自分の健康を気遣うこと。

そんな、誰にも見えないようなほんの小さな積み重ねが、未来の自分への確かなエールになると信じています。

感情を鎮める「鈴」を鳴らし、自分を律する「包丁」を研ぐ。その静かな繰り返しの先に、私だけの「納得のいくまごころ」が宿っていくことを、私は信じています。

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