【思い出ぼろぼろ】アメリカの母
本年度上半期の『自宅の片付け大作戦』は、母の遺品整理に加えて、予てから目標にしていた2階の片付けを完遂すべく余暇の大半を費やしていた私。そんな埃にまみれた時間の中で、2階の収納から出てきた思い出の品々が、忘れかけていた『かつての自分の姿』を蘇らせてくれました。
そのひとつに、去る記事『岩と雪に戯れた日々を想いながら』があったわけですが、此度は、私が高校2年生の夏(1985年/昭和60年)に体験したアメリカという国について淡く触れながら、縁あって『私のアメリカの母』となった御仁へ寄せる思慕らしき感慨を綴らせて頂こうと思います。
相も変わらずの長文駄文ではありますが、お時間の許す時にでも分割してご一読賜れれば幸いです。
アメリカの母
もう早、四十年以上も前の話になる。
当時、高校二年生だった私は、夏休み期間を使って学校が主催していた『海外研修プログラム』に参加した。
高校に入学して以降の1年間を、学校が指定した事前プログラムに費やしていた私は、何の不安も感じぬまま、研修のスタート地点となっていたサンディエゴへ降り立ったのである。
ところが、現地で待ち受けていたのは想定外のトラブルだった。
あろうことか、私を受け入れてくれるはずのホストファミリーが、何らかの事由により受け入れが不可となってしまったのである。そして何より私を不安にさせたのは、提携していた学校関係者の焦燥振りと、帯同していた担当教諭たちが顔を曇らせながら右往左往していたことだった。
かくして出鼻を挫かれてしまった私は、すっかり意気消沈してしまった。そして、頭の中に描いていた『憧れのアメリカ』を舞台にした心躍るような生活が完全に消滅したかのように心身が萎えてしまったのである。
そんな最中、会場に集まっていたホストファミリーたちの中から「大丈夫!この子は私がお引き受けしますよ!」と一人の女性が声を上げた。
そう・・・この慈悲深きご婦人こそ、私が後に『アメリカの母』と呼ぶことになる キャンダス その人なのであった。
§ 枕棚に格納されていた記憶の断片たち
話を『現在』に戻す。
この海外研修の記録は、研修を終えた後に分厚いアルバム2冊とスクラップブック2冊にまとめている。けれども、いずれの記録にも集約できなかった、或いは整理するタイミングを逸していた資料や雑多な品々が存在していたのである。それらは、主の記憶を覆すかの如く、2階の小さな枕棚の中から出てきたのだ。

いずれも些末な品々であった(苦笑)。
海外研修後に参加者全員で製作した文集用の原稿や、アルバムに貼らなかった写真の数々、挿絵に惚れて捨てられなかったパンフレット類、それからお土産の余りや、受け入れ先の学校で使っていた名札と英会話のテキストに小銭、そしてクラスメイトからもらった栓抜きや陳腐な楽器等である。

とりわけ些末な物・・・と言えば、学校で使っていたテキストの間に挟まれていたレシート(下写真)が挙げられるだろう。その皺だらけの紙片を見て笑みがこぼれてしまった。それは、何かを買う毎にTAXが上乗せされるアメリカでのショッピングに、曰く難い新鮮さと違和感を同時に覚えていたことを思い出したからだ。

こんなガラクタでも、ひとつひとつを愛でるように眺めていくうちに、朧げになっていた記憶の解像度が上がっていくのを感じた。そして、大人になった私の中に残っている記憶の多くが、研修プログラムという括りの中には存在しない『個人的な体験』が占めているという事実を再認識したのだった。
よって、これから書き綴る内容は、研修旅行の研修たる部分というよりもむしろパーソナルな体験に始終する。言い換えれば『私にとっての海外研修』は『研修後に繋がる物語』に置換されており、この私的に過ぎる物語の核心もまた『その後』に重心が置かれていることをご理解賜りたい。
§ トラブルが結んでくれた縁
さて、今一度 話を『四十余年前』に戻そう。
冒頭で記した通り、半ば宙ぶらりんになっていた私を拾ってくれたのは、後輩のホストファミリーとなっていたキャンダスという中年のご婦人だった。
当時の彼女は、バツ1のシングルで、アリゾナで牧場を経営しているジャックという年配の男性と交際しているといった状況にあった。要するに、身軽な立場で、且つ、自宅のキャパシティーに余裕があったからこそ私を引き受けてくれたに違いなかった。
何の因果か、ステイ先に年長の私が加わることになってしまった後輩は、嫌な顔をするどころか「先輩が一緒で助かります!本当によかった!」と安堵の笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。しかし、拾われた犬のような気持になっていた私は、彼女の家に着いてから暫くの間、バツが悪いやら、居心地が悪いやらで、心が鎮まることはなかったことを記憶している。

しかし、そんなマイナスの気持ちは、翌朝を迎えた段階で霧散せざる得なくなるのである。そう、アメリカでの『生』な生活が始まったからだ。
けれども、本稿では『日々の学校生活』について触れることはしない。それは、『井の中の蛙』然とした島国の高校生が、朝から晩まで『絵に描いたようなアメリカンライフ』の洗礼を浴び続けたであろう場面を想像して頂ければ事足りるからだ。
※ホームステイの実際と感謝すべき家族について
研修前半の20余日を費やしたホームステイは、仕事で多忙を極めていたキャンダスや、週末にアリゾナから帰ってくるジャックよりもむしろ、同じアパートメントの階下に住んでいたハーダー家を頼ることが常だった。
この親切な家族は、遠く離れた島国から来た見ず知らずの少年達を快く受け入れてくれた。子どもの相手を苦にしない私は、ベビーシッターよろしく一家の幼い愛娘(当時3歳)の相手を買って出た。生まれて初めて出会う『妹のような存在』を擽ったく感じながらも、一緒に絵を描いたり、ピアノを弾いたりしながら、夕食から就寝までの時間を楽しく過ごした。そんな時間の中で、アメリカの一般家庭の実際を学び知ることができたように思う。
ここにスペシャルサンクスの意を込めて備忘しておく。
§ 絆を深めた4日間
ホームステイ中・・・特にサンディエゴでの日常生活の記憶を辿っても、キャンダスやジャックの姿が浮かんでくることは殆ど無い。
しかし、私がキャンダスのことを『アメリカの母』と呼びたくなるだけの関係性を築くことが叶った出来事がひとつだけある。それは、ホームステイ終盤の4日間・・・この限られた時間に集約されていたのであった。
私と後輩の二人は、学校側の研修スケジュールから外れ、キャンダスと共にジャックが暮らしているアリゾナの家に向かうことになった。

慣れぬ土地での生活に疲労感を覚え始めていた島国の少年たちは、サンディエゴから内陸部のアリゾナへ向かう車中・・・あろうことか、キャンダスとコミュニケーションをとることなく、ひたすら眠ってしまったのであった。
これが拙かった。
当然の事ながら・・・キャンダスは、私たちがアリゾナへの小旅行を喜ぶ(それも大きなリアクションで)と思っていたであろうし、大いに好奇心を発揮して、ジャックの仕事やアリゾナという土地について質問攻めにしてくるであろうことを期待していたはずなのだ。ところが、この少年たちは、走れども、走れども、まったく景色の変わらぬ砂漠地帯に辟易しているかのように惰眠を貪っていたのである。

唇が割れる程に乾燥していたっけ。
アリゾナのジャックの家に着いた時には、キャンダスの顔は不機嫌を通り越した面持ちに変貌しており、軽い夕食を終えると直ぐに、シャワーを浴びてベッドに入るように促されて初日を終えることとなった。
さて・・・翌朝である。
この状態が続くのは拙いと思った私は、朝食を用意しているキャンダスに、昨日の車中の態度を詫びた。そして、正直に自分の体調が芳しくないことや、後輩が疲れ果てていることを、辞書を片手に伝えた。

私の下手糞な英語は、彼女に届いたと思う。
それもそのはず、日本人ではありえない程のオーバーリアクションで「そんな状態だったの? 気付かなかった私が悪かったわ! 」と、私を抱きしめながら詫びていたのだから。その間、フライパンの上のベーコンは、煙を上げて焦げ始めていたのだが、私は黙って彼女に抱擁されたままになっていた。
この朝の出来事以降、キャンダスとジャックは、予てから考えていたアリゾナでの予定を緩やかに変更してくれたようだ。
無理に遠出することはせずに、自宅の周りや仲の良いご近所宅へ連れて行ってくれた。それは体力を回復させたいアジアの少年たちにとっても好都合だったし、キャンダスとジャックと落ち着いてコミュニケーションをしたいと考えていた私にとっても幸いであった。

荒涼とした砂漠の中で過ごす一日は、小さな驚きに満ちていた。
ご近所さんが、実はご近所さんではないことに驚き・・・
砂漠の真ん中でコーンを栽培している事に驚き・・・
日中と夜間の気温差に驚き・・・
試し撃ちさせてもらったライフルの重さと衝撃に驚き・・・
アメリカの砂漠のど真ん中に現存するビンテージのホンダ・カブが現役であることに驚き・・・
そして何より、キャンダスが作る食事よりもジャックが作る食事の方が美味しいことに驚いた(笑)。
こんなささやかな驚きたちが『対話』を産んでくれたのである。

高々3泊4日の旅であったが、阿保みたいに広大な砂漠のど真ん中に建てられた小さな家を舞台にした喜怒哀楽に満ちたひと時は、アメリカ内陸部の過酷で極端な環境を体験したことのみならず、互いのパーソナリティーや生活・慣習の異なりを知る機会、更には、ホームステイを終えた後の温かな交流に繋がる時間にもなってくれたと感じている。
§ 長く続いた交流を象徴する存在
かくして、研修を終えて帰国してからもキャンダスとの交流は続いた。
Lineは勿論のこと、Eメールなんて便利なものが無かった時代である。海外との交流ともなれば手紙や電報しか手段はなかった。
私の不格好な英語による近況報告は、本業の他にフリーライターの様な仕事をしていた彼女の好奇心を刺激したようで、都度、的を得た内容の返事が私の元に届けられた。そんな筆豆な彼女は、私の誕生日やクリスマスに際して、私が好みそうな本を贈ることを欠かさなかった。
彼女が贈ってくれた本は、長らく私の本棚の特等席を陣取ってきた。
以下は、キャンダスとジャックのバックグラウンドを表すに相応しい本として挙げておきたい。

何れの本も楽しい時間を提供してくれる一冊ではあったけれど、私が思うアメリカらしさを具現化していたのが『BACK TO BASICS』だった。これは、ジャックの家の本棚で見つけた本で、滞在中に何度も手にしていたことを記憶していたキャンダスが、新刊を取り寄せて贈ってくれたものだ。

本書は、人肌を感じさせるイラストを用いながらも、内容は多岐に渡っており、この当時の日本では滅多に見かけることが無いタイプの本でもあった。
ジャックがアリゾナの家を建てる際に座右の書として重宝していたことを思えば、初期的な知識を獲得するには十分な技術書と言えるのだろう。21世紀の今でも、ヒントを得るに相応しい内容があると思う。
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また、贈り物の中で多かったのが、カウボーイに関する本であった。

何れも、カウボーイの歴史や現在の様子、文化慣習といった事柄に触れており、全てを正確に把握することはできなかったけれど、美しい挿絵や古写真は、私に辞書を紐解く動機を与えてくれた。

これらの本に触れたことで、ネイティブインディアンに対する固定概念は変化していったし、引いてはアメリカ開拓史の生々しい側面を窺い知ることができたように感じている。

こうやってカウボーイという職業を読み解いていくと、日本の牧場やそれらに関わる人々との大きな異なりを感じることができる。アメリカの開拓史と深く結びついている彼らは、日本の牧場で求められる飼育員的な要素よりもむしろ、牧場主から預かった牛を最寄りの交通要所まで誘導するというような、いわゆる運送業的な役割が濃かったと言える。

もし、この日本でカウボーイの職責・職能に近似した仕事があるとすれば、それは馬喰・馬労が該当するのではなかろうか。仕事の内容をつぶさに照合すれば合致する部分は多くない。けれども、売り手から買い手に馬や牛を運ぶという点(運送)においては、あながち大きな差異はないと考える。
とまぁ、そんなことを綴っていたら、面白い共通項に気が付いた。そう、双方共に『無頼』なのである(笑)。
※呼称が示す意味
カウボーイ:牧童を指す以外に、無謀者といったスラングも。
馬労・馬喰:「博労」から転じていることからも容易に推測できるだろう。もっとも、駆け引きが肝となる商売であったことから、押し出しに熟れた人物、或いは、取引が拗れた際にドスが効いた啖呵をきれる人物が向いていたことは間違いないはずだ。
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それから、名の知れたカウボーイが著した詩集を贈ってくれたこともあった。(この本の出版には、キャンダスが関わったと手紙に綴られていたはずだが、その辺の記憶が曖昧なので断定しない方がよかろう。)

短いセンテンスで構成される詩は、訳す愉しみを手短に感じさせてくれた。ただ、シンプルな分だけ作者の本意を汲み取る難しさもあった。それは、言語に因らない『詩の妙』でもあろう。

§ アメリカの逞しい母
キャンダスは、ジャックと正式に結婚してから暫く後に、二人の子どもを施設から迎え入れたことを手紙で伝えてきた。
それは可愛らしい兄妹だった。その手紙の文面から、壮年を迎えて婚姻を結んだ夫婦が、子どもの存在を熱望していたことが窺われた。
しかし、その数年後・・・ジャックは亡くなった。
天国に召されたジャックと、二人の子どもを抱えたキャンダスの間に生じているコントラスト・・・それは、世間知らずの大学生だった私でさえ懸念を覚えてしまう程の差異に思われてならなかった。

しかし、その年のクリスマスカードで私の懸念は霧散した。
分厚い封筒の中には、2枚の手紙と共に1枚の写真が同封されていた。その写真には、二人の子ども達と共に『西部劇』さながらの扮装をして映るキャンダスの姿があった。
彼女の顔には、確固たる自信が漲っていた。
「あぁ、なんてキャンダスは逞しいんだろう・・・。」
私はただただ感服し、母親になることを選んだ女性の強さを感じた。
ジャックが亡くなって以降、彼女の手紙には、二人の兄妹の話題が増えていったことは言うまでもない。(私が大学の校舎の壁にボルダリングの壁を作ったことを知らせたら、息子にもクライミングを挑戦させたらしい。)
そして、数年後に送られてきた手紙に驚愕するのである。
なんと、アリゾナの牧場を売ってミソネタで暮らすことを決めた彼女は、かの新天地で家を建てたというのだ。

大判の封筒の中には、それまでの経緯を綴った手紙の他に、新居の内部を撮影した大量の写真と間取り図、そして、彼女が寄稿した記事が掲載されている地元紙・パンフレット等が雑然と入っていた。それらの全てに、彼女の喜びと充実ぶりが通奏底音しており、『かつて抱いた懸念』が取り越し苦労であったことを私に教えてくれた。

このダイナミックに過ぎる場面展開には驚きを越えた感動があった。
元よりアメリカ人のバイタリティーには目を見張るものがあったけれど、キャンダスのそれは、私の想像の斜め上をいくレベルであった。
様々なリスクを抱えながらも、その先の一歩を踏み出そうとする姿は崇高だった。守るべき存在を一番に考えながらも、自己実現への道程を見失わなかった彼女の背中は、当時『社会人の卵』だった私に、大きな影響を与えてくれたことは記すまでもないだろう。
§ あの時を境に
私が結婚してからも、彼女との交流は続いた。
毎年、クリスマスと誕生日にはメールが届いていた。私は、そのメールを嬉々として読み解き、辞書を片手にキーボードを叩くことを『欠かせない行事』として励行していた。
しかし、ある出来事を境に、私は返信することを止めてしまった。
それは、私が設計事務所を開設した2000年のことであった。
この年、彼女から送られてきたバースデーメールの中に、ムスリムの慣習に対する批判や憤りが長々と綴られていたのだ。内容は感情的で、中東の国々で暮らす女性たちが迫害されていることに憤りを感じて運動を始めている・・・といった事柄が綴られていた。(文末には、伝吉も同意して参加して欲しいと言うようなことも書かれてあったと記憶する。)
誤解を恐れずに記すならば・・・私は他国の文化慣習に対して、外圧をかけて変化を求めることを是としないタイプの人間である。しかも、当時の私は設計事務所を開設して間もない時分であり、正直な気持ちを吐露すれば「そんなことに構っていられるか!」といった精神状態でもあった。
然るに、彼女がタイピングした文面から醸されるヒステリックな空気感に往生した私は、かようにシビアなイシューについて英語で返答をすることに躊躇を覚え、キーボードを叩くことを断念してしまったのだった。こうした幾つかの与件が重なり、キャンダスとの長きに渡って続いていた交流は、この一通のグリーティングカードを境に休止することになったのであった。
そして、この残念に過ぎる出来事は、翌2001年9月11日に起きた同時多発テロと分かち難く結び付くことになる。
『あの頃のアメリカ』を想像する。リアルに体験していないから、無い頭で想像するしかない。あのキャンダスが綴ったヒステリックな文面は、その当時のアメリカ全体を覆っていた空気そのものではなかったのか・・・と。
その後暫くして、日系二世の建築家 ミノル・ヤマザキ の設計によるツインタワーが崩壊した跡地に、ユダヤ系ポーランド人の建築家 ダニエル・リべスキンド の計画案が採用されることを知った時・・・アメリカ合衆国という夢の国に潜んでいた暗部が露わになってきたことを思い知らされた気がした。
このニュースに触れて以降、私の中に僅かながらに残り続けていたアメリカに対する純粋な憧れは、完全に消失してしまったのである。
§ 震災を経て
キャンダスとの交流が途絶えてから10余年の時を経ようとしていた2011年3月11日に東日本大震災が発生した。
その年の秋頃だったと思う。
突然、キャンダスからのメールが届いたのである。
「このアドレスが使われている事を信じてメールします。」という前置きと共に、私たち家族の無事を祈っていることと、被災地の状況を教えて欲しいという要請が綴られていた。そして追伸として、子ども達の勧めで高齢者施設に入っていることも手短に記されていた。
当時の私は、復興の渦中に巻き込まれていた状態が続いており、震災の実態を伝えたいといった気持にはなれなかったのだが、ライターをしていた彼女が満足するならばと、被災地の写真を何枚か添付してメールを送信した。
その後、2~3のやりとりを交わしたはずだが、その詳細を記憶していないのは、私の状況が混沌としていたことに因る。

遺憾なことに、震災直後のやりとりを境にキャンダスとの交流は途絶えた。
彼女の身に何が起きたのかは分からない。
もしかしたら・・・という思いもある。
けれども・・・知らない、知れない、分からない、そんな宙に浮いた状態が続くことに耐える力も必要なのだ。何もかもが明々白々になることが最善とは思えないし、それを強く求めたいとも思えない。
何故かと言えば、私とキャンダスの関係性において、現在の状況を正確に把握すること自体、さほど重要なことではないからだ。
この頓着なき親不孝者の『日本の息子』は、かの『アメリカの母』が、ひとりの人間として、女性として、妻として、母として、職業人として逞しく生きたという・・・彼女の人生のほんの一部を垣間見ることができただけで十二分に満足しているのだから。
無論、彼女が元気であれば嬉しいし、天に召されていたのなら幸いと安寧を祈りたい。今はただ・・・そんな心持ちなのである。
後書
現在のアメリカは、もはや私の知るアメリカではなくなってしまいました。
それでも、私の心に辛うじて残り続ける信頼は、かつて彼の国で出会った人々の善意と血の通った交流によって培われた感情だと言えるでしょう。
その『信頼』を与えてくれている人々の中に『アメリカの母』がいます。
そして、キャンダスやジャックと過ごした短い時間の中で交わした対話・・・このささやかな交流のお陰で、独りの時間を大切にすること、独立心をもって能動的に行動すること、目を見て話し合うこと・・・を学ぶことができたように思います。
それからもうひとつ、本項を綴りながら感じていたことがあります。
私が平素から抱いてきた『女性に対する敬意』の礎は、キャンダスの生き様に触れることで培われていたという事実です。
この代え難い事実によって、私は今も、これからも、『アメリカの母』のことを誇りに思っていられるのです。
