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論文紹介 ペロポネソス戦争でアテネはどのような過ちのために敗れたのか

ペロポネソス戦争は古代ギリシアの大国だったアテネとスパルタとの間で勃発した戦争であり、双方の同盟国を巻き込みながら前431年から404年まで続きました。この戦争は最終的にスパルタの勝利で終わりましたが、開戦した当初はアテネにも大きな優位があり、特に海上戦力において優勢でした。

それにもかかわらず、アテネがスパルタに敗れた理由について、ドナルド・ケーガンはアテネの戦略に根本的な欠陥があったのではないかと主張しています。

ドナルド・ケーガン「ペロポンネソス戦争におけるアテネの戦略」永末聡訳『戦略の形成 支配者、国家、戦争』中央公論新社、2007年、上巻、55-125頁

古代アテネの歴史家トゥキュディデスの記述によれば、アテネの敗戦は、その政界において「デマゴーグ」と呼ばれる扇動政治家が台頭したことによって引き起こされました。開戦当初、アテネの指導者ペリクレスは戦闘力に優れたスパルタ陸軍と野戦を交えることは避け、アテネ陸軍の部隊は城壁まで後退して籠城し、その代わりにアテネ海軍の優位を発揮してスパルタの同盟国を疲弊させる消耗戦略を提案しました。

ケーガンは、このペリクレスの戦略を当時のアテネとスパルタの戦力や財政の状況にまで踏み込みながら定量的に検討しています。その結果、ペリクレスの戦略が計画した通りに実行可能な時間は3年と見積られており、その前にスパルタが戦争を断念して和平を求めることが前提とされていたと述べています。実際にはこの計画の通りにはいかず、籠城が始まってすぐにアテネ市内で疫病が蔓延し、ペリクレス自身が命を落とすなどの不測の事態に見舞われ、戦争は前431年から404年まで続きました。

ケーガンは、ペリクレスが生きていれば、戦争の泥沼化が明白になった後でも、同一の戦略に固執することはなかったはずだと考えていますが、「攻撃による懲罰を受けてこれ以上の戦闘は無益であることが明らかになれば、敵は正気に戻るであろう」とペリクレスが想定したことには、やはり大きな問題が潜んでいたと批判しています(同上、87頁)。

さらに、ペリクレスの消耗戦略において防御主義にとらわれ、スパルタを打倒する積極性が欠けていたという批判もケーガンは出しています。戦闘を遂行する場合、攻撃より防御は地形を利用できるので、より有利な交戦方法だと考えられていますが、防御の問題はその受動的な性質から行動の自由を失いやすく、敵に予測可能な対応しかとれなくなる危険があるということです。

実際、アテネ軍は籠城を開始したとき、アテネから北部に位置するアッティカ地方の農地をすべて放棄し、城壁の位置まで部隊を後退させました。つまり、スパルタ軍は、ほとんどアテネ軍の抵抗を受けることなく、アテネの農地を焦土にしたのです。これはスパルタ陸軍が優れた能力を有しており、正面から交戦しても不利だという判断に基づく行動でしたが、いったん城壁に依拠して敵と交戦するという運用思想を組織的に採用すると、そのような行動パターンから離れて新しい行動を考えることは難しくなりました。

トゥキュディデスが指摘した通り、デマゴーグの台頭はアテネの政治と戦略に重大な影響を及ぼしましたが、ペリクレスが最初に打ち出した方針が、その後のアテネの戦略的意思決定を律するデフォルトの方針となったことにより、適応性が低下したのではないかというケーガンの指摘は重要な視点を示していると思います。

ペロポネソス戦争でスパルタ軍は開戦直後は劣弱だった海軍の拡張事業に資金を投じる決断を下し、最終的にアテネ海軍を撃破して海上交通路を支配するに至っています。スパルタに対して陸軍で劣勢だったアテネが海軍の優位を失ったことにより、長く続いた戦争が終結しました。

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