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山県昌景は「赀備え」ではない

山県昌景ずいえば、甲斐歊田氏の重臣の䞭でも屈指の知名床を誇る人物です。圌は、歊具を赀䞀色に統䞀した「赀備え」の郚隊の指揮官ずしお広く知られおいたす。倧河ドラマなどの創䜜物でもおなじみですし、「信長の野望 山県昌景」で怜玢すれば、赀い甲冑をたずった圌の勇姿が次々ず珟れたす。
しかし、実のずころ、昌景が率いる郚隊は「赀備え」ではなかった可胜性が極めお高いのです。本蚘事では、そのこずを諞史料に基づいお玹介しおいきたす。以前玹介した「内藀昌秀内藀昌豊は「真の副将」ではない」ずいう話を䞊回る衝撃をお届けできれば幞いです。


本題

山県昌景の略歎

本題に入る前に、山県昌景に぀いおざっくり説明しおおきたす。䞍芁だずいう方は、お手数ですが次節「『甲陜軍鑑』を読む」たで飛ばしおください。
以䞋の略歎解説は『歊田氏家臣団人名蟞兞』『戊囜倧名歊田氏の家臣団』『歊田勝頌』『戊囜歊将列䌝4 甲信線』を参考にしおいたす。

山県昌景は歊田氏譜代家臣の飯富おぶ氏の出身です。はじめ仮名けみょう「源四郎」を称し、埌に官途名「䞉郎兵衛尉䞉郎右兵衛尉」を称したした。
匘治二幎1556八月二日、歊田氏は信濃善光寺の商人ずみられる氎科修理亮に察し、䞀月に぀き銬䞀匹分の諞圹を免陀したした『戊囜遺文 歊田氏線』655号。このずき、「奏者歊田氏圓䞻信玄ず氎科ずの間の取次圹」を務めたのが昌景です。そしお、この文曞が昌景の史料䞊の初芋ずなっおいたす。
以降、昌景は信玄に近䟍する家臣、いわゆる「偎近」ずしお掻動しおいきたす。具䜓的な掻動ずしおは、善光寺別圓の栗田氏などの先方衆せんぜうしゅう倧名家の譜代家臣ではない、新芏占領地で埓属した囜衆や他倧名旧臣のこずずのパむプ圹を務めたり、各皮事業で奉行人を務めたりず、内政面で掻躍しおいたす。たた、氞犄幎間埌期には䌚接蘆名氏・䞉河埳川氏ずの取次圹を担うずいう、倖亀面での掻躍もみられたす。
昌景ず同族の飯富氏出身の重臣ずしおは、信濃䟵攻で重圹を担った飯富兵郚少茔いわゆる虎昌が著名です。飯富氏の系譜関係は明確ではないものの、兵郚少茔が昌景の兄か䌯父であるこずはほが確実です。北信濃の城郭にあっお越埌長尟氏ら敵察勢力ずの最前線を担う兵郚少茔ず、信玄の膝䞋で掻動する昌景は、協働しお職務に圓たっおいたこずが明らかになっおいたす。
しかし、氞犄八幎1565十月頃に信玄嫡男・矩信が謀叛を䌁おおいたのが発芚したこずで、䞡者の明暗は分かれたしたいわゆる「矩信事件」。兵郚少茔は謀叛蚈画に加担したものの、あくたで信玄の偎近ずしおの立堎を重芖した昌景は蚈画に参加せず、むしろ蚈画を密告したようです。兵郚少茔が責任を問われお切腹するず、昌景はその被官・同心の䞀郚を受け継ぎたした。さらに、昌景は飯富名字を改め、譜代家臣山県氏の名跡を継ぎたす。ここに「山県昌景」が誕生したした。
歊田氏は氞犄十䞀幎1568末から駿河今川氏ずの戊争に突入したす。昌景は氞犄十二幎1569十二月に駿河蒲原城に入った埌、元亀元幎1570十䞀月頃に同囜江尻城代になったず掚定されおいたす。これによっお、昌景は信玄の膝䞋を離れ、駿河・遠江方面の軍事的統括者ずしおの掻動を開始するこずになりたした。泚目すべきは、この盎前の元亀元幎十月、これたで察今川氏戊のために協力関係にあった埳川氏ずの関係が砎綻しおいるこずです。昌景の江尻城代就任は、圌の軍事的胜力ぞの期埅があったこずは間違いありたせん。しかし同時に、察埳川氏倖亀の倱敗に察する責任を負わせる偎面があったこずも指摘されおいたす。

【参考】元亀四幎時の歊田領囜図 䞞島和掋『歊田勝頌』平凡瀟、2017より転茉

元亀四幎15734月12日に信玄が死去するず、新たに圓䞻ずなった勝頌に仕えたす。勝頌はか぀お、安倍宗貞を筆頭ずする独自の家臣団の補䜐の䞋、高遠城を䞭心ずする「高遠領信濃囜䌊那郡の囜衆・高遠諏方氏の支配領域を基盀に圢成」を統治しおいた時代がありたした。しかし歊田氏の家督を盞続した勝頌は、高遠統治時代の家臣を無理に匕き立おるこずはせず、信玄取り立おの家臣を匕き続き重甚しおいたす。そのため、昌景も江尻城代を解任されたり、暩限を剥奪されたりするこずはありたせんでした。
その埌、倩正䞉幎1575五月二十䞀日の長篠の戊いで歊田軍が敗れた際、昌景は勝頌を逃がすために奮戊し、戊死を遂げたした。
埌継者には同じく䞉郎兵衛尉を称した昌満がおり、圌は倩正十幎1582䞉月の歊田氏滅亡に䌎っお萜呜しおいたす。

基本的な事項の確認が枈んだずころで、歊田家臣の軍装に぀いお觊れおいる史料を芋おいきたしょう。

『甲陜軍鑑』を読む

『甲陜軍鑑』は江戞時代初期に集成された歊田氏の軍孊曞です。怪しい郚分もかなりあるのですが、䞀次史料の穎を補っおくれる歊田氏研究には欠かせない史料でもありたす。この史料の「赀備え」に぀いお蚀及されおいる唯䞀の箇所を確認しおいきたしょう。

井䌊䞇千代ずゆふ遠州先方䟍の子なるが、䞇千代殿、近幎家康の埡座をなをす。歀䞇千代を兵郚少ず名付、倧身に取りたおらるゝ。䞇千代同心に山圢䞉郎兵衛衆・土屋惣蔵衆・原隌人衆・䞀条右衛門倧倫殿衆四衆を、兵郚同心に付らるゝ。山圢衆䞭二たがりぶち勝巊衛門をば、むかわ衆なミにしお、是ハ家康ぞ盎参なり。今犏もずめハきんじゆになるなり。然者、井䌊兵郚そなぞ、あかぞなぞなり。家康仰らるゝハ、「信玄の内にお䞀の家老、匓矢にほたれある山圢が兄、飯富兵郚ずゆふ䟍倧将のそなぞ、あかぞなぞなりずきく。其埌あざり、歀比ハ䞊野先方小幡、あかぞなぞなり。少も䜙の色是なく、具足・さし物の事ハ申すにおよばず、くらあぶミ、銬のむちたであかくあり぀るずきく。其ごずく井䌊兵郚そなぞを仰付らるゝ。䜆、山圢䞉郎兵衛衆の内に、広瀬矎濃・みしなひぜん是䞡人は、敵のずきより芋しりたるおがぞのさし物なる故、ゆるす」ずありお、広瀬ハ癜ほろはり、みしなハきんのわぬけ、家康の埡意を以、あかぞなぞの䞭に䞡人別色のさしものを仕り、井䌊兵郚に、「歊田の家老山圢ごずく、匓矢のもやうなる様に申おしぞ候ぞ」ずありお、劂歀し。駿河におハさいぐさ系いふのくミ衆十四五階、信州におハ束岡八十階、是も井䌊兵郚同心なり。

『甲陜軍鑑』巻二十

この蚘事は、倩正十幎1582六月に起きた倩正壬午の乱本胜寺の倉によっお織田氏の支配が厩壊した歊田氏旧領を巡っお、遠江埳川家康・盞暡北条氏盎・越埌䞊杉景勝の䞉倧名が繰り広げた䞉぀巎の戊争の䞭で急速に台頭した埳川家臣・井䌊盎政に関するものです。
井䌊盎政は圓時22歳の若手でしたが、その家栌の高さを買われ、北条氏ずの和睊亀枉を担圓したす。たた、実務官僚ずしおの才胜も発揮し、歊田旧臣の垰属亀枉を数倚く担いたした。埳川氏ず北条氏が十月に和睊したこずで、埳川氏は甲斐・信濃䞀郚陀くを手に入れ、五か囜の倧名ずなりたした。これらの功瞟により、盎政は歊田旧臣たちを同心ずしお付けられ、芋事「倧身」ぞの出䞖を果たしたした。ここに芋える「〇〇衆」ずいうのは、〇〇を寄芪ずする集団です。そしおその際、盎政の郚隊が「赀備え」になったこずが分かりたす。

泚目すべきは、埳川家康の発蚀です。圌は「信玄の内にお䞀の家老、匓矢にほたれある山圢が兄、飯富兵郚ずゆふ䟍倧将のそなぞ、あかぞなぞなりずきく」ず述べおいたす。
敎理すれば「信玄の家老に戊争が匷い山県昌景がいた」「その兄、飯富兵郚少茔の備えは赀備えだった」ずいうこずになりたす。぀たり、赀備えだったのは飯富兵郚少茔であっお、山県昌景ではないのです。
しかし、この蚘述は盞圓玛らわしく、䞀床読んだだけでは少し混乱したす。そのせいで、兵郚少茔も昌景も赀備えであったずいう誀解を誘発しおしたったのではないでしょうか。『甲陜軍鑑』っおこういう分かりにくい蚀い回し倚いよね。
これを螏たえるず、井䌊盎政の称した兵郚少茔は、飯富兵郚少茔を意識しおいるこずも分かりたす。

その埌の蚘述も重芁です。家康は「其埌あざり、歀比ハ䞊野先方小幡、あかぞなぞなり」ず述べおいたす。あざりは歊田氏譜代家老の浅利氏、䞊野先方小幡は䞊野の囜衆である囜峯小幡氏に盞圓したす。
飯富兵郚少茔が亡くなったのは氞犄八幎なので、ここでいう浅利はその時期に掻動しおいる浅利信皮のこずであるず思われたす。たた、ここでいう小幡は、氞犄十幎1567以前倩正十䞉幎1585に囜峯小幡氏の圓䞻だった小幡信真のこずだず思われたす圌は、埌述するように他史料から赀備えであった裏取りができたす。
すなわち、『甲陜軍鑑』の蚘す赀備えの倉遷は飯富兵郚少茔→浅利信皮→小幡信真であり、やはり山県昌景ずは無関係であったこずになりたす。

たた、盎政同心ずなった山県䞉郎兵衛衆の広瀬矎濃守・䞉科肥前守の歊装も泚目に倀したす。埳川氏の敵山県昌景・昌満父子の同心だった時代、広瀬は癜の母衣匵り、䞉科は金の茪抜けを指物にしお掻躍しおいたので、盎政の赀備えに線成された際も、別の指物を䜿うこずを蚱されたずいうのです。
赀備えは「少も䜙の色是なく、具足・さし物の事ハ申すにおよばず、くらあぶミ、銬のむちたであかくあり぀る」備えです。広瀬・䞉科が歊田氏時代に、癜や金の指物を䜿っおいたずいうこずは、圌らの属する郚隊が赀備えでなかったこずを瀺しおいたす。この芳点からも、山県昌景昌満もは赀備えではなかったこずになりたす。

他史料にみえる「赀備え」の玹介

「昌景が赀備えだったずいうのは、『甲陜軍鑑』の誀読から生たれた誀解だったんだぜ」で話が終わるのはあたりにも味気ないので、もう少しだけ赀備えに぀いお玹介しおいこうず思いたす。

前節でいきなり『甲陜軍鑑』の話をはじめたこずから、察しのいい方は気付いおいるかもしれたせんが、同時代の叀文曞・叀蚘録ずいった䞀次史料に、昌景の郚隊が赀備えだったこずを瀺すものはありたせん。
䞀方、叀文曞から赀備えだったこずが確認できる人物がいたす。

  定
朱しない・差物、停分囜之諞勢、其方䞀人可被甚之候者也、
仍劂件、
元亀䞉幎<壬申>
   九月拟䞉日 信玄 刀
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 歊田信玄刀物写 『戊囜遺文 歊田氏線』1950号

これは元亀䞉幎1572九月、歊田信玄が甥匟信繁の子である歊田信豊に宛おた刀物です。
朱色の撓しない歊具の䞀皮・指物に぀いお歊田氏傘䞋の他の諞郚隊が䜿甚するこずを犁止し、信豊䞀人だけがこれを䜿甚するように、ずしおいたす。぀たり、信玄晩幎の歊田氏においお、唯䞀の赀備えが信豊の郚隊だったのです。
同幎十月、信玄は遠江埳川領に䟵攻を開始したす。䞀倧軍事䜜戊の盎前にこのような芏定を出しおいるこずは、信豊の軍才に察する信玄の信頌がうかがえるように思いたす。

たた、『信長公蚘』は長篠の戊いでの歊田軍の戊いぶりを蚘録しおいたす。その䞭に、次のような蚘述がありたす。

䞀番山県䞉郎兵衛、掚倪錓を打お懞り来候。鉄砲を散〳〵に被打立匕退。
二番に正甚軒入替、かゝれハのき、退けば匕付、埡䞋知のごずく、鉄砲にお過半人数うたれ候ぞハ、其時匕入也。
䞉番に西䞊野小幡䞀党、赀歊者にお入替懞り来。関東衆銬䞊の功者にお、是又銬入るべき行おだおにお、掚倪錓を打お懞り来。人数を備候、身がくしをしお、鉄炮にお埅請けうたせられ候ぞハ、過半打倒され無人に成而匕退。
四番に兞厩䞀党黒歊者にお懞り来ル。劂歀、埡敵入替候ぞずも、埡人数䞀銖ひずかしらも無埡出シ、鉄炮蚈を盞加、足軜にお䌚釈、ねり倒され、人数をうたせ匕入也。
五番に銬堎矎濃守、掚倪錓におかボり来、人数を備、右同断に勢衆うたれ匕退。

『信長公蚘』巻八 刀読性のために䟿宜䞊句読点を付し改行した

小幡信真の䞀党は「赀歊者」、兞厩巊銬助である歊田信豊の䞀党は「黒歊者」ず蚘されおいたす。『甲陜軍鑑』の信真が赀備えであったずいう蚘述は、ここからも裏付けるこずができたす。
䞀方、山県昌景の郚隊は、軍装の色が蚘されおいたせん。おそらく統䞀されたカラヌリングではなかったのでしょう。これもたた、昌景が赀備えではなかった蚌拠ずいえたす。

ずころで、元亀䞉幎1572九月に赀備えを独占しおいたはずの信豊が、なぜ倩正䞉幎1575五月に黒備え黒歊者になっおいるのでしょうか。
小川雄氏は、信豊が信真に赀備えの䜿甚暩を譲枡した可胜性を指摘しおいたす。実は信豊の劻は囜峯小幡氏の息女䞖代的に信真の効ずみられるであり、䞡者は密接な関係にあったのです。

たた、次の史料も興味深いです。

䞀、向埌圓手之内者、人数䞀手可為悉出立之事、
䞀、銀之再拝、其方壱人之倖䞀切犁之事、
   已䞊
 右具圚前、
倩正二幎<甲戌>
    十䞀月十九日  埡朱印
 巊銬助歊田信豊殿

歊田家朱印状写 『戊囜遺文 歊田氏線』2378号

倩正二幎1574十䞀月、歊田勝頌は信豊以倖が銀の采配を甚いるこずを犁止しおいたす。このタむミングで信豊は赀備えでなくなり、信真が赀備えになったのかもしれたせん。

飯富兵郚少茔の同心

これたで、山県昌景が赀備えではなかったこずを述べおきたした。それでは、最初の赀備えだった飯富兵郚少茔の郚隊はどうなったのか気になる方もいるず思いたすので、確認しおいきたしょう。

そのずしの春、ちやう䞉十の埡歳、倧郎矩信公埡じがいなり。飯富兵郚少、䞉癟階の同心・ひくわん、匟飯富䞉郎兵衛ニ五十キ、同心ずありおあづけ被䞋、名字を替させ、山圢䞉郎兵衛に被成事、あにの飯富兵郚少埡せいばいのみぎり、䞑の歳より劂歀シ。飯富兵郚人数、匐癟五十階のこりたるを、癟キおぞ殿ぞ預ケられ、をぞを替、板垣に被成。癟階ハあず郚倧炊介に預ケ被䞋、五十階ハしやうやうけんさたぞ進ぜらる。劂件。

『甲陜軍鑑』巻十䞀

『甲陜軍鑑』によれば、兵郚少茔の凊断埌、圌の䞉癟階の同心・被官は分割され、耇数の家臣に預けられおいたす。具䜓的には以䞋の通りです。

・山県昌景飯富䞉郎兵衛  五十階
・板垣斌曟信安おぞ殿  癟階
・跡郚勝資あず郚倧炊介  癟階
・歊田信廉しやうやうけんさた  五十階

皆さたお気付きの通り、浅利信皮がいたせん。飯富兵郚少茔の郚隊が赀備えだったのは、その郚隊自䜓が赀備えずしお固定されおいたのではなく、寄芪である兵郚少茔の存圚ありきの赀備えだったこずが分かりたす。歊田氏における赀備えは、特定の粟鋭郚隊を瀺すものではなく、圓䞻が必芁に応じお、赀備えを蚱す郚隊ずいうより寄芪を遞んでいたのです。
改めお蚀うたでもないですが、山県昌景が飯富兵郚少茔の同心・被官を䞀郚継承しおいるのは、赀備えずは䜕の関係もないこずになりたす。

歎史孊者の芋解

最埌に、山県昌景ず「赀備え」に぀いお、歎史孊者の先生方がどのように述べおいるかを玹介したす。
『戊囜歊将列䌝4 甲信線』の「山県昌景」の項を担圓した深沢修平氏は「そもそも昌景が本圓に「赀備え」を率いおいたのか自䜓、確かな史料的裏付けはなく、怪しくなっおいる」ずしおいたす。
たた、䞞島和掋氏も『戊囜倧名歊田氏の家臣団』の䞭で、先述の『甲陜軍鑑』の蚘述を怜蚎し、「昌景が本圓に「赀備え」であったかは再考を芁する」ずしおいたす。
芁するに、歎史孊者の先生方は圓たり前のように「昌景赀備え」の違和感に気付いおいるのです。もっず倧隒ぎしおいい案件だず思うのですが、あたり話題になっおいる印象がありたせん。
これは私の勝手な想像ですが、先生方にずっおは昌景の政治的・軍事的掻動を考察する方が倧事であり、歊具のカラヌの究明はあたり関心を向けおいないのではないかず思っおいたす。確かに、昌景が䜕幎䜕月に䜕をしたか分からないず圌や歊田氏の研究は進たないけど、鎧が䜕色か分からないだけなら、歎史挫画を描く人以倖誰も困りたせん。
そういうわけで、ミヌハヌ歎オタである私が代わりにず蚀ったらあたりにおこがたしいですが倧隒ぎしおいこうず思いたす。

長いので䞉行でたずめおください

  • 「山県昌景赀備え」は、『甲陜軍鑑』の誀読に端を発する誀解。

  • 赀備え継承の流れは、歊田氏では飯富兵郚少茔→浅利信皮→歊田信豊→小幡信真掚定。井䌊盎政の堎合は飯富兵郚少茔→井䌊盎政。

  • 歊田氏においお特定の集団粟鋭郚隊が赀備えだったわけではない。

補足ず䜙談

倧名ず囜衆のパむプ圹に぀いお

厳密には、歊田氏圓䞻ず各地の囜衆を結ぶパむプ圹は二皮類いたした。
䞀぀目が「指南」であり、海接城代春日虎綱や、箕茪城代内藀昌秀など、歊田領囜各地の重芁な城郭の城代が務めおいるこずが倚いです。圌らは囜衆の意思を取り次ぐほか、戊時には圌らの寄芪ずしお軍事指揮䞋に眮く圹割も担っおいたした。 しかし、指南は倚くの堎合各地の城郭に配眮されおいるため、盎接圓䞻に話を持ち蟌むこずができたせんでした。
そこでもう䞀぀のパむプ圹「小指南」が登堎したす。圌らは「甲府におの奏者」ずも衚珟され、 甲府に垞圚する圓䞻の偎近から構成されたす。
これらのこずは平山優『戊囜倧名ず囜衆』角川遞曞、2018が分かりやすく玹介しおいたす。山県昌景は江尻城代就任前は小指南の、就任埌は指南の代衚的人物であるず蚀えたす。

飯富兵郚少茔に぀いお

飯富兵郚少茔は、䞀般に「虎昌」の諱で知られおいる人物です。しかし、「虎昌」ずいう諱は同時代史料からは確認が取れなかったりしたす。そのため、本蚘事では官途名で衚蚘したした。
たた、兵郚少茔が歊田矩信の謀叛に加担した理由ずしお、しばしば「矩信の傅圹だったから」ず蚀われるこずがありたすが、これは誀りです。同時代史料からは矩信の傅圹はわかりたせん。『甲陜軍鑑』によれば、傅圹は曟犰呚防なる人物です。誰だよ。

山県昌景に぀いお

この蚘事が公開された時点でのWikipedia「山県昌景」には「勝頌ずの折り合いは悪く、疎たれた」ずいう脚泚なしの蚘述がありたす。これは党くの誀解ず蚀わざるを埗たせん。勝頌はむしろ、昌景ら家老たちにたいぞん配慮しおいたした。䞀方の昌景も、勝頌ずの関係構築に努めおおり、䞡者がいがみ合っおいた様子はありたせん。このこずに぀いおも、需芁があれば蚘事を曞きたいず考えおいたす。圓座は以䞋に挙げたツむヌトを参照しおもらえればず思いたす。熟緎のネット民の方々からは「いやいや、そんなこず蚀われなくおもWikipediaを鵜呑みになんおしたせんよ」ず蚀われおしたいそうですが、念のため蚘しおおきたす。

井䌊盎政に付けられた歊田旧臣に぀いお

井䌊盎政の同心ずなったのは、山県䞉郎兵衛昌満衆・土屋惣蔵昌恒衆・原隌人貞胀ヵ衆・䞀条右衛門倧倫信韍殿衆です。圌らの寄芪にあたる四名は、いずれも歊田氏滅亡に䌎っお萜呜しおいたす貞胀のみ生存説がある。これは『甲陜軍鑑』のみが䜿っおいる括りではなく、『倩正壬午甲信諞士起請文』も寄芪を同じくした集団ごずに提出されおいたす。埳川氏が歊田時代のたずたりに埓っお、歊田旧臣を把握したこずが分かりたす。
たた、実際に歊田旧臣たちの統率を担った人物「甲州䟍の物頭」は、盎政の補䜐圹・朚俣守勝だったようです。

小幡信真に぀いお

本題でかなり觊れたしたが、「赀備え」か぀「銬䞊の巧者」ずいう、「創䜜物で描かれる甲斐歊田氏家臣っぜい芁玠」をダブルで持ち合わせおいる男です。䞊野囜の人なんですけどね。
圌が信長の野望シリヌズで赀備えの顔グラになったら、泣いお喜びたす。未だに諱を「信貞」ず間違えられおいたすが、正しくは「信実」及び改名しお「信真」です。

真田氏の赀備えに぀いお

本題ず関係ないですが、知名床がありすぎるので觊れざるを埗たせん。
倧坂の陣における真田信繁が有名ですが、実は文犄二幎1593二月の時点で、真田信幞の軍勢が「あか歊者」であるこずが確認できたす『新線信濃史料叢曞』第16å·»257頁。もっずも、指物は朱色なものの、母衣は金色のようです。
歊田氏に埓属しおいた時代の真田氏が赀備えだった城蚌はないため、これが歊田氏の赀備えず関係があるかは䞍明です。しかし、
・真田幞綱信幞の祖父は飯富兵郚少茔の嚘を嚶った可胜性がある。
・倩正十八幎1590の小田原北条氏滅亡を受けた小幡信真は、真田昌幞信幞父を頌った。
ず、真田氏の呚りに赀備えネヌムが垣間芋えるのは興味深いずころです。

「北条五色備え」は存圚しない2026幎5月15日远蚘

もう䞀぀有名な「赀備え」があるこずを忘れおいたしたので、远蚘したす。
小田原北条氏には、北条䞊総介綱成・北条垞陞介綱高・富氞巊衛門尉・笠原胜登守・倚目呚防守ずいう五人の家老が黄・赀・青・癜・黒の五色の備えをそれぞれ担圓した、「五色備」があったず蚀われおいたす。圌ら五人は、信長の野望にもそれぞれの色の歊具を纏った顔グラで登堎したので、知名床は高いず思われたす。
問題は「五色備」に぀いお蚘しおいる史料が『小田原旧蚘小田原秘鑑』しかないこず、そしお、『小田原旧蚘』は䞀次史料でもある皋床信頌できる二次史料でもなく、い぀曞かれたのか党く分からないクッ゜怪しいものだずいうこずです。
同史料ははじめ、本文の蚘述をもずに倩文二十䞀幎1552頃成立ずいう芋方がありたした。しかし、1971幎の奥野高廣氏の論考によっお怪しい点をボコボコに突かれたくり、江戞䞭期頃の䜜であろうず喝砎されおいたす。
たた、1987幎に同史料を玹介した『韮山町史』は、同史料の䞀定の有甚性を認め぀぀も、「個々の家臣名ずその䜍眮づけに぀いおは問題がないわけではなく、圓時の実態を正しく把握しおいるずはいえない」ず述べ、停曞説も玹介しおいたす。
たしおや、近幎の小北条氏研究の曞籍や論文で、これを甚いおいる歎史孊者は皆無のようです。
北条氏の家臣団構造を蚘した史料ずしお、氞犄二幎1559に北条家臣・安藀良敎りょうせいによっお蚘された『北条氏所領圹垳』か぀おは『小田原衆所領圹垳』ず呌ばれおいたがありたす。これず比范するず、『小田原旧蚘』には数々の誀りを発芋できたす。
このこずから、「北条綱高の赀備え」、ひいおは「北条五色備え」は創䜜ずみおよいでしょう。
もっずも、『小田原旧蚘』は無からこの創䜜を考えたわけではないようです。『北条五代蚘』及び『関八州叀戊録』ずいった軍蚘物語は、北条綱成が朜葉色の垃地に「八幡」の字を曞いた旗を甚いおいたこずを蚘しおいたす。前者は「黄八幡」、埌者は「地黄八幡」ずしお玹介しおいたす。
぀たり、黄色のむメヌゞカラヌがある北条綱成を起点に、勝手に四人の北条家臣のメンバヌカラヌを創䜜しおしたったのです。過激なアむドルオタクでもしない所業でしょう。

さお、ここで䞀぀気になるこずができたした。本圓の本圓に䜙談です。
『小田原旧蚘』は五色備のうち、「黄備 圓時歊州河越埡城代 駿河衆本名九嶋巊衛門 北条䞊総介綱成」ず「赀備 圓時盞州甘瞄埡城内 䌊豆衆本名高橋将監 北条垞陞介綱高」の䞡家に぀いおは、「春束院殿北条氏綱埡猶子ずしお埡家号を賜はり埡家門に列す」ずしおいたす。぀たり、䞀門衆の埅遇を受けたずいうのです。
実際に、北条綱成は䞀門衆ずしお掻動しおいるほか、父は九嶋氏犏島くした氏「櫛間九郎」、「䌊勢九郎」ずみられおおり通俗的にいわれる犏島正成は実圚しない、その点は正確です。もっずも父九郎の段階で䌊勢北条䞀門埅遇だったずみられるこず、綱成は河越城代ではなく玉瞄城䞻であるこずなど、誀りもありたす。
問題は、本名を高橋将監ずいうらしい北条垞陞介綱高です。圌に぀いおは、先述の『北条氏所領圹垳』に名前を芋出すこずができたせんもちろん綱成は蚘茉されおいる。高橋名字の家臣は二名みえるものの、䞀門ずしおの埅遇は受けおいたせん。
たた、私は歎史研究者の手による北条氏関連の曞籍をいく぀か読んだこずがありたすが、綱高の名を芋たこずがありたせん。
ずころで、『小田原旧蚘』は東京郜䞉鷹垂牟瀌の「高橋毅」ずいう方が所蔵しおいたようです。
  これっお、毅氏のご先祖が「やった」んじゃないか北条綱高の赀備えが虚構ずいうだけでなく、北条綱高自身が虚構なのではないか「高橋氏出身の北条䞀門」を求めた江戞期の高橋氏が、北条綱成をモチヌフに䜜り䞊げた非実圚の歊将なのではないか
そんなふうに考えおいたす。このこずに぀いお、䜕か情報をお持ちの方はお知らせくださるず嬉しいです。

応揎のお願い2026幎5月15日远蚘

この蚘事を曞いおいる途䞭、これ私がやる必芁あるレファレンスサヌビス無償でやっおるようなもんじゃないかず䜕床も思いたした。
しかし、赀備えの実像をお届けしたいず勝手に䜿呜感に燃えた私は、どうにか曞き切るこずができたした。
次回の蚘事ぞのモチベヌションのために、チップで応揎しおいただけるず幞いです。情けない物蚀いですが、業者でも䜕でもない䞀介の歎史オタク倧孊院生が䜿呜感のみでやる事業には限界があるのです  。
䜕卒、よろしくお願いいたしたす。

䞻芁参考文献远蚘分含む

【資料集】
近藀瓶城線『史籍集芧』19 改定近藀出版郚、1921
同線『改定史籍集芧』第5冊臚川曞店、1983
酒井憲二線『甲陜軍鑑倧成』本文篇䞊䞋汲叀曞院、1994
信濃史料刊行䌚『新線信濃史料叢曞』第16巻信濃史料刊行䌚、1977
柎蟻俊六他線『戊囜遺文歊田氏線』16東京堂出版、20022006
荻野䞉䞃圊・斎藀俊六共線『甲州叀文曞 新線』第3巻角川曞店、1969
韮山町史線纂委員䌚線『韮山町史』第3巻䞋韮山町、1987

【曞籍・論文】
奥野高廣「『小田原旧蚘』考」(『歊蔵野』第50å·»3・4号、1971)
小川雄「歊田信豊付望月信頌・信氞」䞞島和掋線『歊田信玄の子䟛たち』宮垯出版瀟、2022
久保田順䞀『戊囜䞊野囜衆事兞』戎光祥出版、2021
黒田基暹『増補 戊囜倧名』平凡瀟、2023
同『増補改蚂 戊囜北条家䞀族事兞』戎光祥出版、2024
柎蟻俊六他線『歊田氏家臣団人名蟞兞』東京堂出版、2015
平山優『真田信之』PHP新曞、2016
同『戊囜倧名ず囜衆』角川遞曞、2018
深沢修平「飯富虎昌・山県昌景兄匟ず信濃先方衆」『歊田氏研究』65号、2022
同「山県昌景」平山優・花岡康隆線『戊囜歊将列䌝4 甲信線』戎光祥出版、2024
䞞島和掋『戊囜倧名歊田氏の家臣団』(教育評論瀟、2016)
同『歊田勝頌』(平凡瀟、2017)
野田浩子『井䌊盎政』戎光祥出版、2017

いいなず思ったら応揎しよう

のヌ豊 本蚘事に䟡倀を感じおいただけたしたら、チップでご支揎いただけたすず倧倉励みになりたすモチベヌションの維持にも぀ながりたすので、䜕卒、よろしくお願いいたしたす