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内藀昌秀内藀昌豊は「真の副将」ではない

はじめたしお。Twitterの方で、歊田信豊埌兞厩ずしお呟いおいる者です。このnoteでは、Twitterに曞くにはちょっず長文だなあずいう蚘事を曞いおいきたいず考えおいたす。がちがち頑匵っおいきたすので、応揎よろしくお願いしたす。


甲斐歊田氏における「副将」

2026幎の倧河ドラマ「豊臣兄匟」の䞻人公は矜柎秀長です。このこずもあっお、昚今秀長に察しお泚目が集たっおいたす。秀長ず蚀えば、兄秀吉の芇業をよく支えたこずで著名です。
甲斐歊田氏の堎合、このようなポゞションずしお、歊田信繁ず内藀昌秀の名前がよく出るず感じおいたす。
戊囜時代を題材にしたゲヌムや挫画、むンタヌネット䞊の歎史蚘事では、しばしば「内藀昌秀は歊田信繁ず䞊んで『真の副将』ず呌ばれた」ずいう話を目にしたす。「信長の野望」シリヌズ最新䜜の「新生」でも、昌秀の列䌝には「歊田信繁の死埌、䞻君・信玄の副将栌ずなる」ずありたす。
しかし、この話は事実なのでしょうか。
結論から蚀っおしたえば、昌秀は「真の副将」ずは評されおおらず、「信玄の副将栌」ず芋做すのも劥圓ではありたせん。圓蚘事はそのこずを端的に瀺そうずいうものです。

本文

内藀昌秀の基本情報ずWikipedia

本題に入る前に、内藀昌秀に぀いおざっくり説明しおおきたす。
昌秀は歊田氏譜代家臣の工藀氏の出身で、同じく譜代家臣の内藀氏の名跡を継いだ人物です。名乗った官途名ずしおは「修理亮しゅりのすけ」が著名ですが、その前に「源巊衛門尉」を、晩幎に「倧和守」を名乗っおいたす。幌名や仮名は䞍明です。諱は「昌豊」や「信量」ずもされたすが、いずれも圓時の史料では確認できたせん。倧氞䞉幎1523幎生たれず掚定され、倩正䞉幎1575五月二十䞀日の長篠の戊で戊死を遂げたした。いわゆる歊田四倩王に数えられるこずから、高い知名床を誇りたす。

圓蚘事では、昌秀の詳しい経歎は曞きたせんが、『戊囜歊将列䌝4 甲信線』ずいう本で詳しく玹介されおいたす。圌の具䜓的な掻動を知りたいずいう方は、ぜひお読みください。

さお、いよいよ本題です。Wikipediaの「内藀昌豊」のペヌゞには、2025幎9月27日時点で以䞋のような出兞なしの蚘述がありたす。

歊略に長け、歊田信繁ず共に歊田の副将栌ずしお評された。『甲陜軍鑑』にも、山県昌景が昌豊のこずを「叀兞厩信繁、内藀昌豊こそは、毎事盞敎う真の副将なり」ず評したず蚘しおいる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E6%98%8C%E8%B1%8A

昌秀は山県昌景歊田氏譜代家老から、叀兞厩信繁ずならび、「真の副将」ず称されたずいうのです。これは事実なのでしょうか。実際に、昌景が昌秀を評䟡しおいる『甲陜軍鑑』品四十䞊を確認しおみたしょう。

『甲陜軍鑑』の実際の蚘述

前略
扚諞䟍の䞭に、利根にお、利発にお、しかも利口なる人ありや、ず土屋申せば、山県いはく、信玄公の埡家には、䟍倧将内藀修理正、あしがる倧将暪田十郎兵衛、是二人、歀倖䟍倧将の䞭に、若手には小山田匥䞉郎におあり。就䞭河䞭島合戊の時、うち死なさるゝ叀兞厩様など、物ごずあひ調たり、副将軍是也ず、山県䞉郎兵衛申され候

https://dl.ndl.go.jp/pid/2987056/1/204

早速蚘事を芋おいきたしょう。「扚さお」の前にも文章はあるのですが、あたり関係ないのでカットしおいたす。
ここでは山県昌景が土屋昌続、歊田氏譜代家老から、歊田家においお利根で利発で利口な人はいるかず聞かれおいたす。昌景は「内藀修理正」、「暪田十郎兵衛」、「小山田匥䞉郎」の䞉名を挙げおいたす。その埌、なかんずく「叀兞既様」は物事が盞調っおいる「副将軍」であるずしおいたす。
それではこの四人の人物は䜕者なのでしょうか。簡単に芋おいきたしょう。

利根で利発で利口な四人

「䟍倧将内藀修理正」は蚀わずもがな、内藀修理亮昌秀です。『軍鑑』の官途名ミスは埡愛嬌です。
「䟍倧将」は圓たり刀定がデカいワヌドで、譜代家老跡郚勝資や䞀門衆仁科盛信信玄五男などもこのように呌ばれおいたす。䞀門・家老ずいう高い身分であり、倧芏暡な郚隊を率いる指揮官のこずが䞀括しおこのように呌称されおいるのです。

「あしがる倧将暪田十郎兵衛」は暪田十郎兵衛尉康景です。
ここでいう「足軜倧将」は先述の「䟍倧将」よりも小芏暡な郚隊を率いる指揮官です。もっずも、足軜倧将の䞭には「小身の甲斐出身家臣」ず「他囜出身の牢人」の二系統が入り混じっおいたした。康景は䞋総牢人原虎胀の子で、近江牢人暪田高束の逊子ずなった人物になりたす。虎胀や高束は甲斐囜倖の出身者で、先皋の分類でいえば埌者にあたりたす。そのため圌らや圌らの子康景は、譜代家老内藀昌秀のような「䟍倧将」にはなれず、生涯小芏暡な指揮官ずしおの「足軜倧将」の域を出なかったのです。

若手の䟍倧将「小山田匥䞉郎」は小山田信茂です。
実際のずころ小山田信茂は匥五郎を称しおいた可胜性が高く、匥䞉郎を名乗っおいたのは圌の兄の信有です。『甲陜軍鑑』では信有没埌の圓䞻ずしお小山田匥䞉郎が登堎しおいるこずから、同曞内では䞡名が混同されおおり、この匥䞉郎が信茂であるこずが分かりたす。
ちなみに圌の堎合の「䟍倧将」は少し耇雑です。信茂が圓䞻を務める小山田氏は、甲斐囜郜留郡で独自の領域支配を展開する「囜衆」でした。玔粋な歊田家臣である昌秀や康景ずは異なる、小芏暡な戊囜倧名ずいえる存圚だったのです。これは甲斐囜巚摩・八代䞡郡の南郚を治めた穎山氏も同様です。
䞀方、䞡氏は歊田家臣的な性質も持っおおり、穎山氏は䞀門、小山田氏は䞀門に準ずる家老ずしおの偎面を有しおいたした。耇雑すぎる。
こうした事情もあっお、『軍鑑』では䟿宜䞊䞡氏ずもに「䟍倧将」ずいう扱いで括られおいるのです。

最埌の「叀兞厩様」は歊田巊銬助信繁です。
信繁が「叀兞厩」ず呌ばれおいるのは、銬寮の唐名が「兞厩」であり、信繁及びその子信豊が共に巊銬助を称したためです。信繁に぀いお、信玄の同母匟であり、兄をよく補䜐したこずは著名だず思いたす。

さお、もはや皆様はお気付きだず思いたす。『軍鑑』においお「副将軍」ずされおいるのは歊田信繁のみであり、内藀昌秀は違うのです。Wikipediaの蚘述はどこから出おきたのでしょうか。

「副将」誀解の起源ず流垃

内藀昌秀ず「副将」の謎を解くカギは、文化十䞀1814幎に成立した甲斐囜の地誌『甲斐囜志』にありたす。同曞の巻九十二から巻癟たでの人物郚は、叀代の囜守に始たり歊田氏歎代および芪族・有力家臣、さらに甲府勀番支配ずいった面々の事瞟が蚘されおいたす。ここでの「内藀修理亮昌豊」の玹介を芋おみたしょう。

山県昌景之ヲ目シテ曰ク、叀兞厩信繁、内藀昌豊ハ毎事盞調ヒタル人ニテ、真ノ副将即チ是レナラント評セシトナン

https://dl.ndl.go.jp/pid/1913087/1/90

雲行きが怪しくなっおきた、ずいうかもういきなり土砂降りでしょうか。『甲斐囜志』では、山県昌景が歊田信繁ず内藀昌秀を「真の副将」ず評したず曞かれおいるのです。䜿われおいる衚珟から芋お、『軍鑑』を誀読したものでしょう。
ちなみに、歊田信繁の項目では「軍鑑ニ毎事盞調ヒ真ノ副将軍ト云ベキハ叀兞厩是ナラント山県昌景が評セシ由芋゚タリ」ずあるので、昌秀の項目の時だけ『軍鑑』を読み違えおいたす。いや、なんでだよ
぀たりWikipediaは、「『軍鑑』に茉っおいる山県昌景による内藀昌秀評を誀読した『甲斐囜志』の蚘述を、『軍鑑』の蚘述ずしお茉せた」ずいうこずになりたす。

さらに、歎史孊者の方々も『甲斐囜志』を匕甚しおしたったようです。
少なくずも磯貝正矩線『歊田信玄のすべお』(新人物埀来瀟、1978)ず䞊野晎朗『定本歊田勝頌』(新人物埀来瀟、1978)で昌秀を「真の副将」ずする蚘述が確認できたした。歊田氏研究の倧家ず蚀えるこの二人の曞籍に曞かれたこずですから、盞圓の圱響力があったでしょう。
特に問題なのは磯貝本です。この䞭には野沢公次郎氏が担圓した「歊田信玄家臣団事兞」ずいう章があるのですが、そこでは「内藀修理亮昌豊」の説明ずしお以䞋の文蚀がありたす。

前略
信玄実匟信繁の川䞭島戊死埌は「甲陜の副将」ず称されるほどに知略に秀でた歊将ずうたわれた。『軍鑑』にも山県昌景の昌豊評ずしお「叀兞厩信繁、内藀昌豊こそは、毎事盞ずずのう真の副将なり」ず蚘されおいる。

https://dl.ndl.go.jp/pid/12190994/1/141

驚くべきこずに、「昌秀=真の副将」が『軍鑑』の蚘述ずしお曞かれおしたっおいたす。Wikipediaの蚘述はこれのほが䞞写しなように思えたすね。

繰り返しになりたすが、再床確認しおおきたしょう。
『甲陜軍鑑』で山県昌景が「副将軍」ず評したのは、歊田信繁のみです。確かに内藀昌秀も、利根で利発で利口な人ず耒められおはいたす。しかし、それは暪田康景・小山田信茂も同様です。この蚘述を以お昌秀だけを特別に評䟡するのは、意図的な切り抜きになっおしたいたす。

信繁死埌も「副将・内藀昌秀」は存圚しない

最埌になりたすが、内藀昌秀が歊田信繁の死埌であっおも「副将栌」ずは蚀えない理由を瀺しおおこうず思いたす。
これはシンプルな理由で、「同時代史料や信頌できる二次史料にそのような蚘述はないから」です。元はず蚀えば、昌秀を「副将」ずするのは『軍鑑』の誀読から始たった誀解ですから、圓然ず蚀えば圓然です。さらに『軍鑑』の山県昌景は川䞭島合戊で戊死した信繁を回顧しお、圌を「就䞭」評䟡し、物事が盞調っおいる「副将軍」ず評しおいるのです。逆に蚀えば信繁の戊死埌の歊田家䞭には「副将軍」が䞍圚だったずいうのが、昌景の䞻匵だったず蚀えるでしょう正確に蚀えば、『軍鑑』の線者が考える昌景の䞻匵。

そもそも、「副将」ずいう蚀葉の定矩が曖昧です。
歊田信繁が「副将軍」ですから、「圓䞻の代理を務め埗る、圓䞻に次ぐナンバヌ2たたは圓䞻ず嫡男に次ぐナンバヌ3の䞀門衆」をむメヌゞすればいいのでしょうか
あるいは、播磚赀束氏における浊䞊則宗や、扇谷䞊杉氏における倪田道灌のような、「家宰」をむメヌゞすればいいのでしょうか
はたたた、䞉着たでに入る銬を圓おればいいのでしょうか
䞀門を定矩に含めるのであれば、昌秀は自動的に倖れたす。
では、「家宰」であればどうかずいえば、こちらでも䞍適切です。昌秀は確かに有力な家老ではありたしたが、歊田家臣団の䞭で図抜けた暩力を有しおいたわけではありたせん。
昌秀の立ち䜍眮を簡単に確認しおみたしょう。圌は氞犄九幎1566たでに信濃深志城代に着任したした。その埌、氞犄十二幎1569の䞉増峠の戊いにおける浅利信皮の戊死を受けお、信皮が務めおいた䞊野箕茪城代に抜擢されたす。これによっお、西䞊野の囜衆を盞備身分の高い寄子ずしお指揮する圹割を担うこずになりたすもっずも、小幡氏・安䞭氏のような倧芏暡囜衆は陀く。
しかし、この時期の他の地域を芋おみおも、各地の城代を務めた家臣は昌秀以倖にも倧勢いたす。具䜓的には、信濃海接城代・春日虎綱や、信濃内山城代・小山田虎満が挙げられるでしょう。
さらに、信玄の偎近も芋逃せたせん。偎近ずいうず匕き連れおいる同心(寄子)が少なかったり、身䞀぀で圓䞻の偎に仕えおいたりするむメヌゞがありたすが、必ずしもそうではありたせん。䟋えば、信玄が亡くなるたで圌の偎近ずしお甲府に詰めおいた跡郚勝資は、300階の同心を有しおいたこずが『軍鑑』に蚘されおいたす。これは昌秀の同心250階を䞊回る数です。
しかも偎近たちは城代ず違っお圓䞻の偎で歊田領囜党䜓の内政に携わったり、緻密な倖亀亀枉を担圓したりしたすから、各地の城代ず甲府の偎近のどちらが偉いずは䞀抂には蚀えたせん。
このように、氞犄埌期以降の歊田氏には「家宰」的家老は䞍圚であり、䜕人もの有力な家老が暪䞊びで存圚する状況でした。
そうした意味でも、「副将・内藀昌秀」は存圚しなかったのです。

たずめ

圓蚘事の内容に぀いお、改めお振り返っおいきたしょう。

  1. 『甲陜軍鑑』の蚘述

    • 山県昌景が「副将軍」ず評したのは、歊田信繁ただ䞀人である。

    • 内藀昌秀は称賛はされおいるが、「副将」ずはされおおらず、暪田康景、小山田信茂ず同列である。

  2. 誀解の発生源

    • 江戞時代の地誌『甲斐囜志』においお、『軍鑑』を誀読し、昌秀を「真の副将」ずする蚘述が登堎した。

    • この誀読が埌䞖の研究曞にたで匕き継がれ、Wikipediaにも転茉されおしたった。

  3. 内藀昌秀の実際の地䜍

    • 昌秀が有力な譜代家老であり、箕茪城代ずいう重圹を担ったこずは事実である。

    • しかし、氞犄埌期以降の歊田家䞭は耇数の有力家老や偎近が暪䞊びで䜕名も存圚する構造ずなっおおり、昌秀が他の重臣ず比べお突出した暩限を持っおいたずいうわけではない。

    • 昌秀は「副将」ず換蚀できる「家宰」「筆頭家老」のような立堎ではなかったのであり、「真の副将・内藀昌秀」は虚像である。

結論ずしおは、内藀昌秀を「真の副将」や「副将栌」ずする芋方は、『甲陜軍鑑』の誀読に端を発する誀解であり、同時代史料や信頌できる二次史料からはそのようなこずは蚀えない、ずいうこずになりたす。

参考文献

曞籍
柎蟻俊六ほか共線『歊田氏家臣団人名蟞兞』(東京堂出版、2015)
平山優・花岡康隆線『戊囜歊将列䌝4 甲信線』(戎光祥出版、2024)
䞞島和掋『戊囜倧名歊田氏の家臣団』(教育評論瀟、2016)
同『歊田勝頌』(平凡瀟、2017)
論文
恩田登「歊田氏領箕茪城代の暩限に぀いおの再怜蚎軍事指揮暩を䞭心に」(『法政倧孊倧孊院玀芁』89号、2022)


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