見出し画像

江戸が現代より劣っているなんて、誰が決めたのだろう 第三話:【歩く】大地を噛む足跡、空を切る速度

 江戸の朝、みなみ(中身は現代の公務員)は自らの脚に宿る、未知の「力」に戦慄していた。

 現代の湊みなみの身体は、冷房の効いたオフィスでのデスクワークと、駅のエスカレーターに頼り切った生活で、わずか三階分の階段を上がるだけで息が切れる。だが、今この作之助の身体は、まるで別種の生き物のようだった。

 太ももは丸太のように太く、ふくらはぎは歩くたびに鋼のような筋を浮き上がらせる。草鞋(わらじ)越しに伝わる地面の感触は、驚くほど鮮明だ。一歩踏み出すごとに大地を深く噛み、その反動を力強い推進力へと変えていく。

 「……これが、『歩く』ということの本質だったの?」

 今日は御用のために、千駄ヶ谷の組屋敷から江戸城の近くまで行かなければならない。現代の地図感覚で言えば、大江戸線に乗ればほんの数駅、十五分もあれば辿り着く距離だ。

 だが、この世界に地下鉄はない。あるのは、どこまでも続く土の道と、自分自身の二本の足だけだ。

 みなみは、鼻緒が足の指の間に食い込む独特の痛痒さを楽しみながら歩き始めた。
 江戸の道はアスファルトではない。人が踏み固め、雨に洗われ、また踏み固められた生きた土の道だ。場所によっては青々とした草が芽吹き、石が転がり、昨夜の雨の名残でぬかるんでいる。だが、その「不均一さ」がたまらなく心地よい。

 平坦なタイルを歩く時、人間は無意識に身体のセンサーをオフにする。
 しかしこの道では、一歩ごとに足首が絶妙な角度で調整され、膝が衝撃を吸収し、背骨がバランスを取る。全身の細胞が呼び起こされ、大地と対話しているような全能感があった。

 何より驚いたのは、道ゆく人々との「距離」だった。
 新宿駅の地下通路では、人々は互いを「障害物」としてしか見ていない。 最短距離を歩くために他人の肩を掠め、ぶつかりそうになれば舌打ちを交わす。そこには、同じ空間を共有する者同士の敬意など存在しなかった。

 だが江戸の道では、すれ違う人々がみな、お互いの存在を「生命」として認識している。狭い道では一方が立ち止まって「お先にどうぞ」と会釈をし、重い荷を担いだ男がいれば、自然と道が開く。

 (歩く速度が遅いから、相手の顔が見える。顔が見えるから、心が通うんだ……)

 道端の地蔵に供えられた野花、職人が鉋(かんな)を引く小気味よい音、どこかの家から漂う炒り糠の匂い。

 時速四キロ、人間が本来持っているスピードで見える世界は、あまりに情報量が多く、そして温かかった。



 一方、現代の新宿。
 作之助(中身はみなみ)は、朝の通勤ラッシュという名の「無機質な行軍」に放り出されていた。

 「……これは、何かの戦場か? それとも、魂を抜き取る儀式か?」

 新宿駅、西口改札。
 無数の人々が、まるでものすごい速さで回る巨大な機械の歯車になったかのように、一方向へと突き進んでいく。誰一人として声を出さず、誰一人として隣を歩く者の顔を見ない。ただ一点、前方の出口やスマートフォンの画面だけを見つめて、硬いコンクリートの床を叩く靴音が響き渡る。

 作之助は、その「速度」と「密度」に、激しい乗り物酔いのような感覚を覚えた。

 自分の足で歩いているはずなのに、大地を踏み締めている感覚が全くない。靴底は厚いゴムに覆われ、地面はタイルやアスファルトに遮断されている。土の温もりも、草の柔らかさも、石の硬さも、この街からは完全に排除されていた。

 「この国の民は、これほどの速さでどこへ向かっているのだ。目的地に着くことだけを急ぎ、その道中に落ちている大切なものをすべて踏みにじっておるではないか」

 ようやく区役所のデスクに辿り着いた作之助は、足の裏を襲う奇妙な痛みに気づいた。

 江戸の土道を一日中歩き回った時よりも、新宿の地下通路を十五分、他人の殺気に当てられながら歩いた今の方が、身体は重く、心はささくれ立っている。

 現代の移動は「効率」という名の怪物に支配されていた。
 一秒でも早く辿り着くことだけが正義とされ、その過程にある風景や情緒、他人との触れ合いはすべて「無駄」として削ぎ落とされた。
 しかし、その削ぎ落とされた「無駄」こそが、人間が人間らしくあるための「余裕」だったのではないか。

 「速すぎる……。速すぎて、魂が身体に置いていかれておるわ」

 作之助は、みなみの記憶を掘り起こし、指先でスマートフォンの地図アプリを開いた。
 現在地から目的地まで、最短ルートが冷たい青い線で示されている。
 だが、その線の上には、風の匂いも、道端の語らいも、大地を噛みしめる喜びも、何一つ描かれていなかった。



 江戸のみなみは、ようやく目的地である武家屋敷の門前に辿り着き、手ぬぐいで額の汗を拭った。

 身体は心地よい疲労感に包まれている。筋肉は熱を持ち、血の巡りはかつてないほどに良い。
 道中で見かけた、夕陽に映える瓦屋根の美しさや、通りがかりの子供と交わした他愛のない挨拶が、胸の奥で確かな記憶の「厚み」となって積み重なっていた。

 (便利な乗り物がなくても、私たちの足は、こんなにも遠くまで行ける。そして、自分の足で歩いた分だけ、この世界を自分自身のものにできるんだ)

 江戸の人は、歩くことで自分の住む街の息遣いを知っていた。
 現代の人は、運ばれることで世界を記号として消費している。

 みなみは、作之助の逞しい脚を愛おしそうに撫でた。
 そこには、一歩ずつ自分の人生を刻んでいく、人間らしい「住みよさ」の鼓動が宿っていた。

 「賢い生き方」とは、いかに速く、楽に辿り着くかではない。いかに自分の足で大地を感じ、その道のりを味わい尽くすか。
 泥を跳ね上げ、草の匂いを嗅ぎながら歩く江戸の道が、現代の滑らかで無機質なエスカレーターよりもずっと、生命の輝きに近い場所にあることを、彼女は確信していた。

 みなみは、次の目的地に向けて、再び力強く大地を蹴り出した。
 空を切る速度ではなく、大地を愛でる足跡とともに。

連載予定(目次)
第0話:プロローグ:時をかける清掃員
第一話:【ごみ】消えた「不要」の境界線
第二話:【食事】舌の上で解ける「命」の重み
第三話:【歩く】大地を噛む足跡、空を切る速度
第四話:【明かりと闇】深く、優しい「夜」の守

  • ...(中略)...

  • 第十話:【巡る】江戸の風が現代をなでるとき

次回、第四話は「5月29日」に公開しました。
始まりの第0話はこちらです

いいなと思ったら応援しよう!

こんにゃくの木登り よろしければ応援お願いします!