江戸が現代より劣っているなんて、誰が決めたのだろう 2 (足掻き編)第四話:【明かり】「陰翳」を取り戻す足掻き
深夜一時。新宿の街は、まだ真昼の傲慢さを残したまま、ぎらぎらと輝いていた。
ビル群を縁取るLEDの奔流、コンビニエンスストアから溢れ出す暴力的なまでの白い光、そして絶え間なく明滅するスマートフォンの画面。
現代の都会には、本物の「夜」が存在しない。光に追われ、時間を追われ、人々は眠る方法さえ忘れてしまったかのように、充血した眼で夜の街を彷徨っている。
みなみは、深夜の特別巡回を終え、役所の屋上からその不夜城を見下ろしていた。
地域課の窓口には最近、精神的な不調を訴える若者や、深刻な不眠症から近隣との騒音トラブルを起こす住民の相談が急増していた。
いつでも明るく、いつでも繋がれる二十四時間社会。それは一見便利だが、人間の防衛本能を麻痺させ、心身をすり減らす狂気のシステムではないか。みなみには、そう思えてならなかった。
(江戸の夜は、もっと暗くて、もっと優しかった。闇があるからこそ、人は安心して傷を癒やし、眠りにつけたのに)
コートのポケットの中で、みなみは「火打金」に指を這わせた。
彼女は、現代の新宿に「陰翳(いんえい)」を取り戻すための、ある小さな足掻きを企てていた。
題して『新宿・夜行(やこう)の集い』。
週末の数時間だけ、区内の公共公園や古い役所施設の一角の電気を完全に消し、行灯やキャンドルの微かな光だけで静寂を味わう、現代人のための「闇の急速充電処」である。
だが、その企画書を関係部署に持ち込んだ途端、安全管理の担当者から失笑混じりの反対を受けた。
「湊さん、正気ですか? 防犯の観点から言っても、都会の公園を暗闇にするなんてリスクしかありませんよ。段差で躓いて怪我をしたら? ホームレスの不法占拠や、非行少年のたまり場になったらどうするんですか。街を明るく維持することこそが、現代の安全神話なんですから」
安全、防犯、リスク回避。 現代のシステムは、あらゆるリスクを排除するために「闇」を悪と決めつけ、光で埋め尽くそうとする。
しかし、光に暴かれ続けるストレスが、どれほど人を追い詰めているかには目を向けない。
(ただ暗くするだけじゃ、現代では危険な『死角』になってしまう。江戸の町はどうやって、闇の恐怖を飼い慣らし、やさしい安息の場に変えていたんだろう……)
みなみはポケットの中で、火打金をギリ…と強く握りしめた。 刹那、手のひらを焦がすような猛烈な熱が走る。
カチ、と耳元で硬質な火花の音が響いた。新宿のネオンの海がぐにゃりと反転し、みなみの意識は漆黒の時空へと沈み込んでいった。
「おい、作之助。足元に気をつけねえか。泥に嵌まるぜ」
低い、落ち着いた声に目を開けると、そこは完全な「闇」の中だった。
みなみは四たび、松村作之助の身体の中にいた。隣を歩いているのは、夜間交代で町の巡回をしている同心の先輩だった。
手元にあるのは、小さな和紙の提灯が一つだけ。地面を照らす光の直径は、わずか数十センチメートルに過ぎない。
現代の新宿なら「停電」と騒ぎになる暗さだ。
しかし、不思議と恐怖はなかった。
「……静かですね」
作之助(中身はみなみ)が呟くと、先輩はふっと笑った。
「ああ。夜は静かなもんだ。神仏も、ご先祖様も、悪党も、夜は大人しく眠る。この闇があるからこそ、俺たち人間も一日の『仕舞い』をつけて、枕を高くして寝られるんじゃねえか。明かりってのはな、闇を全部消すためにあるんじゃねえ。大切なものだけを、そっと浮かび上がらせるためにあるんだよ」
長屋の脇を通りかかると、小さな窓の隙間から、行灯の揺れる光が見えた。
そこでは、一日の労働を終えた夫婦が、小さな声で言葉を交わしていた。
江戸の明かりは弱い。だからこそ、人は光の周りに自然と集まり、肩を寄せ合う。弱い光の陰には、深い、やさしい翳(かげ)ができる。
その翳の中で、人々は誰にも見られない自分だけの時間を取り戻し、魂を休めていたのだ。
現代のように全てを剥き出しにする光は、人のプライバシーも、心の静寂も奪い去ってしまう。江戸の闇は、人を隠し、守るための「抱擁」そのものだった。
(そうか、明かりを『消す』ことが目的じゃない。大切なものだけを照らす『境界線』を引くために、あえて光を絞るんだ。現代人に必要なのは、孤独な暗闇ではなく、誰かと静寂を分かち合うための、やさしい陰翳なんだ!)
胸の奥に確信が満ちると同時に、作之助の懐の火打金が、再び脈打つような熱を放った。
遠くで聞こえる夜鷹の声を切るように、視界は黄金色の光に包まれていった。
「――だからね、湊さん。街灯を減らすなんて提案は通らないよ」
担当者の冷たい言葉で、みなみは新宿の現実に引き戻された。 目の前には、煌々と照らされた事務室。 しかし、みなみの瞳には、迷いのない「陰翳」が宿っていた。
「分かりました。街灯を消すのではなく、光を『演出』させてください。防犯の基準を満たしたまま、都会に安息の夜を作ります」
みなみはすぐに企画を練り直した。 対象にしたのは、区役所の敷地内にある、普段は夜間に使われていない日本庭園のスペース。防犯カメラが作動する最低限の動線だけを確保し、それ以外の過剰なLED照明をすべて遮光カバーで覆った。
その代わりに、地域のボランティアや大河原さんたち職人の協力を得て、伝統的な「竹行灯」や、和紙で作った間接照明を等間隔に配置したのだ。
光を遮ることで、あえて深い「翳」を作り出す。 スマートフォンや電子機器の持ち込みは一切禁止。ただ、仄暗い空間の中で、微かな虫の声や、風に揺れる木の葉の音、そして行灯の柔らかな揺らぎだけを眺める空間――『新宿・陰翳の庭』の試行が始まった。
金曜日の夜。不眠やストレスを抱えた都会の若者や、仕事帰りの会社員たちが、半信半疑でその庭を訪れた。
最初は「暗くて何も見えない」と戸惑っていた人々が、数分もすると、暗闇に眼を慣らし、静かに腰を下ろし始めた。
行灯の淡いオレンジ色の光が、訪れた人々の横顔をそっと浮かび上がらせる。
現代のネオンの下では険しかった彼らの表情が、翳の中に溶け込むにつれて、驚くほど穏やかに、やさしく変化していくのが分かった。
誰一人として言葉を発しない。ただ、同じ静寂を、同じ闇を分かち合っているという、言葉にできない連帯感だけがそこにあった。
「……ここ、すごく落ち着く。自分が、ちゃんと生き物に戻れた気がする」
一人の疲れ果てた表情の女性が、ぽつりと、しかし満ち足りた声で呟いた。
みなみはポケットの中で、そっと火打金に触れた。
すべてを照らし出す現代の光に対して、彼女の足掻きは、都会の真ん中に小さな「安息の隠れ家」を作り出した。
完璧な効率の世界に、ほんの少しの「翳」を混ぜるだけで、人はこんなにも自分を取り戻すことができる。
江戸の優しい夜の風が、今、新宿のコンクリートの隙間を、静かに、そして確かに癒やすように吹き抜けていた。
連載予定(目次)
第一話:【始動】火打金の使い方
第二話:【ごみ】現代版「資源買い」の足掻き
第三話:【食事】孤食を照らすための足掻き
第四話:【明かり】「陰翳」を取り戻す足掻き
第五話:【繋がり】頑なな都会の心に足掻く
...(中略)...
第十話(最終話)
次回、第五話は「7月28日」に公開しました。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! 