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江戸が現代より劣っているなんて、誰が決めたのだろう3(二十四節気編)第五話:【処暑】変わりゆく季節のグラデーション

 「カレンダー通りに動いていれば、季節なんてただの『記号』だよ」

 八月も終わりに近づいたある日の午後、役所の休憩室で同僚が自嘲気味に呟いた。

 外はまだ、肌を刺すようなぎらついた太陽が照りつけ、アスファルトからは陽炎が立ち上っている。

 現代の都会において、夏から秋への移行はグラデーションではなく、「八月三十一日から九月一日へ」という、カレンダーのデジタルな数字の切り替えによって一刀両断にされる。

 みなみは、地域課が主催する『秋の親子自然観察会』の準備を進めていた。しかし、案内パンフレットを前にして、ひどい行き詰まりを感じていた。

 現代の新宿で暮らす子供たちにとって、季節の変化を見つけるのは至難の業だ。年中無休のコンビニには一年中同じ野菜や果物が並び、ビル街の街路樹は排気ガスでくすんでいる。

 冷暖房で常に28°Cに保たれた室内で暮らす彼らにとって、季節とは「衣替えの月」という頭の中の知識でしかなくなっていた。

 地域課の窓口には、夏休みの終わりが近づくにつれて、行き場のないイライラを募らせる親子の相談が増えていた。

「宿題が終わらない」「子供が部屋にこもりきりで、情緒が不安定になっている」 ――。

 分刻みのスケジュールと月単位の無機質な区切り。その中で、人間の心も体も、季節のなだらかな変化に追いつけず、小さな悲鳴を上げているようだった。

 (八月が終わるから夏が終わるんじゃない。自然はもっと優しく、少しずつ形を変えていくのに。どうして今の私たちは、その小さな変化に気づけないんだろう……)

 みなみは、事務机の引き出しの奥にある「火打石」にそっと指先を滑らせた。 カチ、と静かな音が耳の奥で響く。石の表面が深い翡翠色の光を放ち、パソコンの液晶画面の光がにじむようにして、みなみの意識は、季節の呼吸が皮膚に直接伝わる過去の世界へと吸い込まれていった。


「――おや、作之助様。……耳をすましてごらんなさいませ。もう、次の季節の使いが来ておりますよ」

 鈴の鳴るような優しい声に目を開けると、みなみは今また、普請役の松村作之助の身体の中にいた。

 目の前にいたのは、薄い藍色の単衣をまとったお類だった。二人が腰を下ろしているのは、組屋敷の裏手、あの小さな桜の木の木陰だ。
 周囲を見渡しても、まだ日差しは強く、セミの鳴き声がせわしなく響いている。現代のみなみの感覚では「まだ真夏」だった。

 「お類さん、まだこんなに暑いのに、秋の使いとは?」

 作之助中身はみなみが首を傾げると、お類はクスリと微笑み、桜の木の枝先を指さした。

 「今は『処暑』。暑さが収まる頃にございます。ほら、あのセミの声の中に、かすかにツクツクボウシが混じっているでしょう? それに、風の吹き抜ける音が、ほんの少しだけ高くなりましたわ」

 お類に言われて耳をすますと、確かに、暴力的な夏のセミの声の奥から、哀愁を帯びた別の声が聞こえてくる。肌をなでる風も、じっとりとした湿気が抜け、どこか涼やかさを孕んでいた。

 江戸の暦には、一年を二十四に分ける『二十四節気』、さらにそれを三つずつ、計七十二に分ける『七十二候』があった。

 「天地始めてしゅくす」「たかすなわち鳥を祭る」「こくものすなわち実る」――。

 江戸の人々は、一ヶ月という大雑把な括りではなく、わずか五日ごとに移り変わる自然の微細なサイン、グラデーションを五感で捉えて生きていた。

 「季節は、ある日突然変わるものではございません。草木の色の陰り、虫の声の変化、朝の露の冷たさ……。そうした小さな移ろいを愛おしむことで、私どもの心も、ゆっくりと次の季節を迎える支度ができるのでございます」

 お類が差し出してくれた、初秋の梨の瑞々しい甘さを噛み締めながら、みなみは胸が震えるのを感じていた。

 現代人が季節の変わり目に体調や心を崩すのは、五日ごとのグラデーションを無視して、ある日突然「秋の生活」へと自分を強制的に切り替えようとするからだ。

 自然の歩幅に合わせて、心にブレーキをかけ、歩調を緩めること。それが江戸の時間の優しさだった。

 (そうか……。カレンダーの数字を見るんじゃない。都会の真ん中でも、五感を開けば、季節のグラデーションは確かにそこにあるんだ)

 確かな答えを得た瞬間、手のひらの火打石が、優しく翡翠色に発光した。お類の穏やかな笑顔と虫の声が遠ざかり、みなみの視界は再び光の渦に包まれていった。


「――湊さん、自然観察会の資料、これで印刷に回していい?」

 同僚の声で、みなみは新宿の現実に引き戻された。 画面には、典型的な「九月の予定」という文字。

 しかし、みなみは「待ってください」と手を挙げた。

 「資料のタイトルを変えさせてください。『九月の自然観察会』ではなく、『処暑のひそやかな秋探し』にします」

 みなみは企画の内容を大幅に書き換えた。 ただ図鑑の植物を探すのではなく、みんなで作った西新宿の遊休地の『江戸の縁側処』に集まり、子供たちや親たちと一緒に、デジタル時計を外して「五感の耳」を澄ますワークショップにした。

 「目を閉じて、三分間、音を聴いてみよう」

 集まった都会の子供たちに、みなみは優しく語りかけた。

 最初は「車の音しか聞こえない」と言っていた子供たちが、じっと耳をすますうちに、「あ、ビルの隙間から、変な虫の声がする!」「風が吹いたとき、クヌギの葉っぱがカサカサって乾いた音を出した!」と、次々に声を上げ始めた。

 さらに、地元商店街の果物屋さんが協力してくれた、出始めの「初物の梨」を全員で味わう。

 まだ夏の暑さが残るコンクリートの真ん中で、子供たちも、日々の家事や仕事に追われていた親たちも、確かに「秋の始まり」を肌で、耳で、舌で感じていた。

 「カレンダーを見るのをやめたら、なんだか、ホッとしました」

 一人の母親が、子供の楽しそうな姿を見つめながら、穏やかな表情でみなみに言った。

 みなみはポケットの中で、静かに眠る火打石に触れた。 月日の数字という檻を少しだけ外して、五日ごとの季節のグラデーションに身を委ねる。彼女の小さな足掻きは、生き急ぐ都会の人々の心に、優しい「処暑」のブレーキをかけていた。

 変わりゆく季節の風が、新宿の街の隙間を、ゆっくりと、愛おしむように吹き抜けていた。


連載予定(目次)

  • 第一話:【時計】秒針に追われる都会の迷子

  • 第二話:【立夏】コスパという名の病

  • 第三話:【夏至】日の出と日の入り、お天道様の時間

  • 第四話:【大暑】夕涼みという名のブレーキ

  • 第五話:【処暑】変わりゆく季節のグラデーション

  • 第六話:【秋分】一本の苗木が育つ時間

  • ...(中略)...

  • 第十話(最終話)

次回、第六話は「9月9日」に公開しました。

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