江戸が現代より劣っているなんて、誰が決めたのだろう3(二十四節気編)第六話:【秋分】一本の苗木が育つ時間
「そんな何十年も先のビジョンなんて、今の投資家には響かないよ」
九月の終わり、秋分の日の午後。西新宿のコワーキングスペースで、外部の民間コンサルタントがみなみの資料を冷ややかに指差した。
『江戸の縁側処』の成功を受けて、みなみが次に進めようとしていた『百年・二十四節気の杜』の本格的な予算獲得のためのプレゼン資料だった。
みなみの提案は、新宿区内の遊休地に、ただベンチを置くだけでなく、明治神宮の森の知恵を取り入れた「多層林」の苗木を植え、何世代にもわたって街の生態系と人の繋がりを育むという長期的なものだった。
しかし、現代のビジネスの現場が求めるのは、常に「短期的なリターン」だ。
「湊さん、今はあらゆるビジネスが数ヶ月、長くても数年単位で回っているんだ。タイパを重視する現代において、『成果が出るのは五十年後、百年後です』なんて言われて、誰が金を出すと思う? もっと早く、目に見える収益が出る計画に書き換えてくれないか」
短期決戦、即時回収。現代の時間は、あまりにも短く区切られ、消費されている。 デスクに戻ったみなみは、手元のスマートウォッチが「次のタスクまで、あと15分」と正確に告げるのを見つめながら、深い無力感に囚われていた。
(数年先の利益のために、私たちは未来の資産を前借りして生きているだけじゃないのかな。どうして今の私たちは、もっと長い時間を信じることができなくなってしまったんだろう……)
周囲のスピードに置いていかれるような焦燥感と、自分がやろうとしていることの「無謀さ」に押しつぶされそうになった時、みなみは震える手で、引き出しの奥の「火打石」を握りしめた。
(作之助さん……、助けて。現代の時間は、あまりにも短すぎて、一本の木を育てる余裕すらないの……)
カチ、と静かな音が響き、火打石が深い翡翠色の光を放つ。 現代のキーボードを叩く音や、都会の喧騒が瞬時に消え去り、みなみの意識は、どこまでも長く、深い時間が流れる過去の世界へと引き剥がされていった。
「――これはこれは、作之助様。よくぞおいでくださいました。山はちょうど、秋分の見頃でございますよ」
素朴で温かい声に目を開けると、みなみは普請役を務める松村作之助の身体の中にいた。
周囲を見渡すと、そこは江戸の長屋ではなく、ひんやりとした山の空気に包まれた、見渡す限りの見事な杉とヒノキの美林だった。
江戸の町の建築資材(材木)を調達・管理するため、作之助は普請役として、武蔵国の御岳山近くの植林地へと視察に訪れていたのだ。
声をかけてきたのは、日焼けした顔に深い皺を刻んだ、地元の老山守(やまもり)だった。
「棟梁から聞いております。作之助様は、江戸の町を数十年、百年先まで火事や天災から守るための『普請』を考えておられるとか」
「ああ……。だがな、山守。町では皆、今すぐ家を建てる材木ばかりを求めて、目先の利益に追われている。百年先のことなど、誰も考えてはいないのではないかと、虚しくなることがあるのだ」
作之助が落胆混じりに呟くと、老山守は白髪の頭をかきながら、一本の巨大な杉の幹を愛おしそうに叩いた。
「作之助様、この木をご覧くだせえ。これは、私のじい様が苗木を植え、親父が枝を払い、そして私が手入れをして、ようやくこうして江戸の町へ送り出せる大木になったものでさあ。山を生きる俺たちはな、自分が植えた木の成果を、自分の代で受け取ろうなんて思っちゃいねえんでさあ」
山守は遠く、まだ植えられたばかりの小さな苗木の山を指差した。
「あそこの小さな苗木が立派な柱になる頃には、私も、私の息子もこの世にゃあ……でしょうが、百年先の江戸で暮らす名もなき誰かが、この木の下で雨をしのぎ、笑って暮らしてくれりゃあ、それで職人の仕事は全うされる。時間をかけて『未来への仕送り』をする。それが、山を生きる人間の誇り、国を支える『始末』ってなもんでさあ」
秋分の日の穏やかな夕陽が、幾世代もの人間の手を経て育てられた美しい森を、黄金色に染め上げていく。
江戸の人々にとって、時間は「自分の人生の長さ」だけで区切るものではなかった。 一本の木を育てるように、自分の仕事が、過去から未来へと繋がる大きな時間の流れの一部であることを、彼らは当然のように受け入れていたのだ。
(そうか……。自分の代で成果を出さなきゃいけないと思うから、焦るんだ。百年の杜は、現代の私たちが、まだ見ぬ未来の子供たちへ送る『仕送り』なんだ)
胸の奥の焦りが消え、果てしなく深い安心感と覚悟が満ちていく。 その瞬間、作之助の懐の火打石が、優しく翡翠色に発光した。山の木々をなでる秋分の風の音が遠ざかり、みなみの視界は再び光の渦に包まれていった。
「――湊さん、聞いてる? 資料、どう書き換える?」
コンサルタントの声で、みなみは新宿の現実に引き戻された。 目の前には、短期的な利益を求めるデジタルなグラフ。
しかし、みなみの瞳には、百年の時を見据える山守と同じ、揺るぎない光が宿っていた。
「いいえ、資料は書き換えません。私は、この『百年の時間』そのものを、今回のプロジェクトの最大の価値として提案します」
みなみは真っ直ぐに相手を見つめた。
「タイパを追い求め、数年先のリターンに一喜一憂する現代だからこそ、私たちは未来に投資する豊かさを忘れてしまっています。このプロジェクトは、今すぐ利益を生むものではありません。ですが、百年先の新宿に『変わらない心の安らぎ』という資産を遺すための、現代の私たちができる唯一の仕送りなんです」
みなみの熱い言葉と、江戸の山守から受け継いだ「長い時間」の覚悟に、コンサルタントは一瞬圧倒されたように目を見張った。そして、手元の資料をじっくりと見つめ直し、やがて小さく微笑んだ。
「……効率ばかりを追う書類を見飽きていたから、新鮮だよ。分かった、この『百年の時間』を売る方向で、僕もプレゼンを組み立て直してみるよ」
数日後、西新宿の『江戸の縁側処』のベンチの横に、新しく小さな「ヒノキの苗木」が、秋分の日の柔らかな風を受けて植えられた。
通りかかるビジネスパーソンたちが、その苗木の前に新しく設置された『この木が大きくなる百年後、あなたの大切な誰かが、ここで一息ついていますように』という看板を、足を止めてじっと読み込んでいく。
みなみはポケットの中で、静かに眠る火打石にそっと触れた。 生き急ぐ都会の真ん中で、彼女の足掻きは、人々の心に「百年」という壮大な時間のブレーキをかけていた。
秋分の日の優しい雨が、新宿の街の、そして一本の苗木の根元を、静かに潤すように降り注いでいた。
連載予定(目次)
第一話:【時計】秒針に追われる都会の迷子
第二話:【立夏】コスパという名の病
第三話:【夏至】日の出と日の入り、お天道様の時間
第四話:【大暑】夕涼みという名のブレーキ
第五話:【処暑】変わりゆく季節のグラデーション
第六話:【秋分】一本の苗木が育つ時間
第七話:【寒露】立ち止まる恐怖、進む焦り
...(中略)...
第十話(最終話)
次回、第七話は「9月14日」に公開予定です。
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