江戸が現代より劣っているなんて、誰が決めたのだろう2(足掻き編)第八話:【恋と約束】桜の木の下で
新宿の春は、せわしなく、そしてどこか冷たい。
コンクリートの隙間から吹き抜けるビル風は、咲いたばかりの桜の花びらを無慈悲に毟り取り、アスファルトの上へと叩きつけていく。
行き交う人々は、足元に広がる薄桃色の絨毯に目を留めることもなく、スマートフォンの画面を見つめたまま足早に通り過ぎていく。
みなみは、西新宿の喧騒から少し外れた場所にある、小さな神社の境内に佇んでいた。
地域課の業務として、境内の老木の管理に関する相談を受け、現地調査に訪れたのだ。
目の前にあるのは、幹のあちこちが空洞になり、痛々しく包帯のような補強材を巻かれた一本の古木の桜だった。
「湊さん、この桜、もう寿命だよ。根っこが参道の石畳を持ち上げちゃって危ないし、次の台風で倒れたらそれこそ大ごとだ。再開発の邪魔にもなるし、今のうちに伐採して、代わりに手入れの楽なツツジの植え込みにでも変えた方が効率的だよ」
役所の関係部署の担当者が、事務的にタブレットの画面をタップしながら告げる。 効率、安全、都市計画。現代の街において、老いた命を維持することは「リスク」であり、コストでしかない。
だが、みなみはその幹にそっと触れた瞬間、胸の奥が張り裂けそうなほどの切なさに襲われた。
この桜の、捻じれながらも天へと手を伸ばす特有の枝振り。見覚えがあった。いや、忘れるはずがなかった。
(……お類さん。私、覚えているよ。あなたが『来年の春、またこの桜の下で』って、涙を浮かべて微笑んでくれたこと)
江戸の春、作之助の身体の中にいたみなみは、仕立て屋の娘・お類と、組屋敷の裏手にある名もなき桜の苗木の下で、淡い恋の約束を交わしたのだ。
「いつか時代が、私たちの運命を分かつとしても、来年の春、またここで会いましょう」と。
あの日、未来の約束を交わしたあの小さな苗木が、二百年の時を超えて、この大都会・新宿の片隅で、巨木となって生きながらえていた。
みなみはコートのポケットの中で、「火打金」を握りしめた。 ただの感傷かもしれない。それでも、この桜を切り倒させてしまったら、あの過酷な時代を懸命に生き、みなみを信じてくれたお類との「約束」まで、現代の効率という刃で踏みにじってしまうことになる。
「作之助さん……お類さんに、会わせて」
祈りが極限に達した瞬間、火打金がこれまでにないほど激しく、心臓の鼓動と同期するように脈打った。
カチ、カチ、カチ――耳元で無数の火花が散る。都会の車の騒音が、一瞬にして春の柔らかな静寂へと反転し、みなみの意識は、眩い光の渦の中へと吸い込まれていった。
「――作之助様。本当に……戻ってきてくださったのですね……」
鈴の鳴るような、しかし震える声に目を開けると、みなみは再び、松村作之助の身体の中にいた。
目の前には、あの日と同じ、お類がいた。彼女の胸元の手には、みなみの現代の持ち物である「多機能ペン」が大切そうに握られている。
驚いたことに、周囲の景色はあの日の別れからちょうど一年後の江戸だった。二人が植えた小さな桜の苗木が、春の陽光を浴びて、数輪の若々しい花を無事に咲かせている。
「お類さん……」
作之助の声が震える。
お類は、多機能ペンの青いインクを使い、和紙の便箋に何かを書き付けていた。
「作之助様。あなたが時折、遠い世を見る目でこの世を見つめていること、私は気づいておりました。このペンが、その明かしです。あなたがどれほど遠いところへ行ってしまわれても、私は寂しくありません。だって、この桜の木が、私たちの時間を共にしてくれているのですから」
お類は、書き終えた和紙の便りを丁寧に折り畳むと、桐油紙に包んで小さな陶器に入れ、桜の苗木の根元に掘った穴に埋めた。
「これは、私から未来のあなたへの文です。何十年、何百年経っても、この木が生きている限り、私の想いはあなたに届くと信じています。だから作之助様、どうかあなたのいるその場所で、健やかに、あなたの想いを全うしてください」
お類のまっすぐな瞳、そして時空を超えた深い愛に、みなみは作之助の目から涙を溢れさせた。
恋の約束は、傍で寄り添うことだけではない。お互いが、それぞれの置かれた「今」という現場で、誇り高く生き抜くこと。それが、二人の愛の形なのだ。
江戸の職人たちが、この一本の苗木を大切に育て、やがて神社として守り継がれていく未来の景色が、みなみの脳裏に鮮やかに浮かび上がる。
(ありがとう、お類さん。私、分かったよ。この桜は、ただの木じゃない。二百年分の人の想いが巡ってきた、タイムカプセルなんだ!)
胸の奥に溢れるほどの愛しさと覚悟が満ちた瞬間、作之助の懐の火打金が、最後の熱を放った。お類が優しく微笑み、多機能ペンを胸に抱く姿を最後に、みなみの視界は再び、薄桃色の光に包まれていった。
「――おい、湊さん。聞いてるか? 伐採の業者、手配しちゃうよ」
担当者の無機質な声が、みなみを新宿の現実に引き戻した。 目の前には、包帯を巻かれた古木の桜。
しかし、みなみの目には、溢れんばかりの涙と、それを遥かに超える強い光が宿っていた。
「待ってください! この桜は、絶対に伐採させません。区の『天然記念物・保護樹木』としての指定を申請します」
みなみはすぐに動き出した。 彼女は、足掻くことで繋がった『新宿普請館』の仲間たちや、大河原さんたち引退職人のネットワークに声をかけ、桜の木の「根を守るためのクラウドファンディング」を立ち上げた。
参道の石畳を取り外し、根が自由に呼吸できるような木製の「縁側状のデッキ」を周囲に設置する計画だ。
さらにみなみは、お類が便りを埋めたと思われる根元の土壌を、樹木医の立ち会いのもとで慎重に調査した。
もちろん、二百年の歳月で紙の便りは土へと還っていただろう。しかし、その土の中から、確かに覚えているあのものが発見された。
それは、経年劣化でボロボロになりながらも、根にしっかりと抱え込まれていた、お類の使っていた小さな桜の模様のある陶器だった。
それを見た瞬間、みなみは確信した。あの約束は、お類の想いは、間違いなくここに届いていたのだと。
みなみは、その陶器と、この桜が江戸時代から新宿の発展を見守り続けてきたという歴史的な資料をまとめ、SNSや区の広報で発信した。題して『時をかける桜プロジェクト』。
効果は絶大だった。 「冷たい街」だと思われていた新宿の住民たちが、一本の桜に秘められた壮大な時間の物語に深く共感し、瞬く間に多額の支援金が集まった。
伐採計画は撤回され、桜の周囲には、人々が腰を下ろして憩える美しいウッドデッキが完成した。
春の終わりのある日の夕暮れ。 みなみは、新しく生まれ変わったデッキの上で、満開の桜を見上げていた。
ハラハラと舞い散る花びらが、彼女の肩を優しくなでていく。まるで、お類がそっと手を置いてくれたかのように。
みなみは手の中で、火打金と、あの日、土から見つかった小さな陶器をそっと握りしめた。
時代は離れていても、私たちは同じ桜の下で、確かに繋がっている。 現代の新宿に、お類が送ってくれた江戸の優しい風が、今、人々の心を温かく包み込むように、いつまでも吹き抜けていた。
連載予定(目次)
第一話:【始動】火打金の使い方
第二話:【ごみ】現代版「資源買い」の足掻き
第三話:【食事】孤食を照らすための足掻き
第四話:【明かり】「陰翳」を取り戻す足掻き
第五話:【繋がり】頑なな都会の心に足掻く
第六話:【道具】物を使い捨てるおごりに足掻く
第七話:【風土】名建築の記憶に足掻く
第八話:【恋と約束】桜の木の下で
...(中略)...
第十話(最終話)
次回、第九話は「8月12日」に公開しました。
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