江戸が現代より劣っているなんて、誰が決めたのだろう 2 (足掻き編)第三話:【食事】孤食を照らすための足掻き
午後八時の新宿。 みなみは、仕事を終えて立ち寄ったコンビニの店内で、所在なく立ち尽くしていた。
棚に整然と並ぶのは、色鮮やかなお弁当や、長期保存が利く惣菜パック。どれも便利で、手軽で、味に狂いはない。
しかし、成分表示に並ぶ無機質な文字列を眺めていると、胃のあたりが妙に冷たくなるのを感じる。
役所の窓口には、日々「食」にまつわる都会の歪みが持ち込まれていた。経済的な困窮からまともな食事が摂れない困窮世帯。夜遅くまで一人で冷たい弁当を食べる「孤食」の子供たち。
その一方で、賞味期限という厳密な数字のルールによって、毎日信じられないほどの量の食べ物が「フードロス」として廃棄されている。 豊かで、何でも手に入るはずのこの街で、人々の食卓はなぜこれほどまでに寂しく、乾いているのだろうか。
(江戸の食事は、もっと質素だった。でも、あそこには確かに『命の温もり』があった……)
みなみは、自身の事務机から持ち帰り、今は常にコートのポケットに忍ばせている「火打金」に触れた。鉄の冷たさが、じわりと体温を吸い上げていく。
彼女は、現代の新宿に江戸の食の知恵を実装しようと考えていた。
区内のスーパーや商店街から、まだ十分に食べられるのに廃棄されてしまう「余剰野菜」を譲り受け、地域の高齢者と子供たちが一緒に温かいご飯を食べる『長屋の食卓プロジェクト』の企画だ。
だが、その活動を始めようとした矢先、保健所の担当者から厚い書類の束を突きつけられた。
「湊さん、気持ちは分かりますがね、集めた野菜の衛生管理はどうするんですか? 万が一、集団食中毒でも起きたら誰が責任を取るんです? 現代の食品衛生法は、江戸時代の長屋のようにはいかないんですよ」
衛生、管理、責任。またしても現代の「正論」という名の壁が、みなみの前に立ちはだかる。
手作りの温もりを届けたいという想いは、システム化された安全性の前では「リスク」でしかなくなってしまうのか。
効率と管理が最優先される現代で、どうすれば人の心を温める「食」を実装できるのか。
「作之助さん……教えてよ」
みなみは、ポケットの中で火打金を強く握りしめた。 その瞬間、掌が爆発したような熱を持った。
カチ、と頭の芯で激しい火花の音が響く。 新宿のコンビニの明るいLEDの光がぐにゃりと歪み、みなみの意識は時空の彼方へと引き剥がされていった。
「おい、作之助様! 火の番をサボるんじゃねえよ!」
小気味よい包丁の音と、お玉の威勢のいい声で目を開けると、そこは湯気が立ち込める長屋の炊事場だった。
みなみは三たび、松村作之助の逞しい身体の中にいた。目の前では、お玉が大きな鍋で味噌汁をかき混ぜている。
「お玉……、それは何の味噌汁だ?」
作之助(中身はみなみ)が尋ねると、お玉はあきれたように笑った。
「何って、裏の畑の間引き菜と、大根の皮さ。少し萎びてたって、味噌と一緒に煮込んじまえば立派なご馳走だよ。江戸の人間はね、物の命を無駄に殺しゃしないんだ」
お玉が差し出した椀には、大根の皮と青菜が入っただけの、文字通りの「一汁一菜」があった。
しかし、一口啜ると、五臓六腑に染み渡るような深い旨味と温かさが広がった。出汁の香りと、お味噌のまろやかさ、そして何より、誰かが誰かのために作ったという「気配」が、作之助の身体を通じてみなみの心を震わせた。
そこへ、長屋に住む一人暮らしの老人や、親が働きに出ている子供たちが、自分の椀を持って自然と集まってきた。
「お玉ちゃん、今日もいい匂いだねえ」
「ほら、みんな座りな。温かいうちに食べちまいなよ」
みなみは作之助の目で、その光景をじっと見つめた。
江戸の食卓には、豪華なご馳走も、徹底した無菌室のような衛生管理もない。あるのは、「目の前にある命を使い切る」という知恵と、「みんなで食べれば美味い」という素朴な信頼関係だけだ。
現代の保健所が言うような「完璧な安全」はないかもしれない。けれど、ここには「孤食」という名の精神的な飢餓は存在しなかった。
お互いの顔が見える距離で、お互いの体調を気遣いながら分かち合う食卓。それ自体が、何よりの安全網(セーフティネット)になっていたのだ。
(そうか……。完璧な管理を目指すから、がんじがらめになるんだ。現代に必要なのは、巨大なシステムとしての食堂じゃない。顔の見える関係の中で、『お裾分け』の延長として食を分かち合う、小さなコミュニティなんだ)
確かな手応えを胸に感じた瞬間、作之助の懐の火打金が、再び激しい熱を帯び始めた。お玉の笑顔が遠ざかり、みなみの視界は再び柔らかな光に包まれていった。
「――湊さん、聞いてる?」
保健所の担当者の声で、みなみは新宿の現実に引き戻された。 目の前には、衛生基準のチェックリスト。 しかし、みなみの心はもう迷っていなかった。彼女はリストを真っ直ぐに見つめ、微笑んだ。
「はい、聞いています。大規模な『食堂』として運営するのをやめます。その代わり、区内の小さな協力家庭や、既存の顔の見えるコミュニティを繋ぐ『お裾分けネットワーク』にします」
みなみはすぐに動き出した。 役所が大きな調理場を管理するのではなく、地域の商店街のお惣菜屋さんや、大河原さんたちが集まるシニアクラブの協力を仰いだ。
スーパーから出た余剰野菜を、地元の「プロの料理人」や「主婦ボランティア」の元へ届け、彼らの慣れ親しんだ、保健所の許可がある調理場で「一汁一菜のお弁当」や「お惣菜」に仕立ててもらうのだ。
そしてそれを、地域のボランティアが「見守り」を兼ねて、孤食の子供や高齢者の自宅へ直接届ける、あるいは少人数で集まって食べる場を作る。
これなら、食品衛生法の高いハードルをクリアしつつ、江戸の長屋が持っていた「お節介の体温」を現代に再現できる。
数週間後、西新宿の一角で、試行された『一汁一菜の灯(ともしび)ルート』が動き出した。
商店街の八百屋から譲り受けた、少し形が歪なだけのカボチャや大根が、温かいお味噌汁と煮物になって、独り暮らしの高齢者や、夜遅く帰宅する子供たちの元へ届けられた。
「お姉ちゃん、このお味噌汁、すごく温かいよ」
塾帰りの小さな男の子が、小さな手で椀を持ち、美味しそうにスープを啜る。その顔には、コンビニのプラスチック容器を広げていた時にはなかった、安らかな笑みが浮かんでいた。
みなみはポケットの中で、そっと火打金に触れた。
現代の効率が切り捨ててきた「手間」という名のやさしさが、今、新宿の夜を静かに照らし始めている。
完璧なシステムではなくても、人の手から手へと渡される一椀の温もりがあれば、都会の孤独はきっと、少しずつ溶かしていくことができる。みなみは確かな歩みで、次なる足掻きへと向かって歩き出した。
連載予定(目次)
第一話:【始動】火打金の使い方
第二話:【ごみ】現代版「資源買い」の足掻き
第三話:【食事】孤食を照らすための足掻き
第四話:【明かり】「陰翳」を取り戻す足掻き
...(中略)...
第十話(最終話)
次回、第四話は「7月23日」に公開しました。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! 