香港編5. ロレックスに似ている時計と、ホテル難民の午後|2日目 中編
「今日は別のホテルがいい」
飲茶を終えて、これからの拠点を決めようとしていた時、Y さんがそう言った。初アジア旅でかなり堪えたらしい。
ガイドブックを開くと、「ゴダイゴ」というホテルの名前が目に飛び込んできた。
旅は、こうやって予定が変わっていく。
日記:2002年9月 九龍、ホテルを探して
「ゴダイゴ」を目指して歩き始めたが、これがなかなか見つからない。
ガイドブックの地図を見ながら歩いて、それらしいビルを覗いて、違うと気づいてまた歩く。
香港の街は同じような看板と建物がひしめき合っていて、地図と現実が一致しない。
何度も人に尋ね、ジェスチャーで聞き、ようやく辿り着いた時には——満室だった。
「マジか……」
汗だくのまま、別の宿を探す。
結局、女人街近くの「北京賓館(Peking Guesthouse)」に流れ着いた。
フロントとのやり取りは英語がまったく通じず、ジェスチャーと単語の羅列だけでなんとか意思疎通。
最初「250香港ドル」と言われたのを、ジェスチャーと満面の笑みで粘って交渉した結果、2人で1泊220香港ドルまで下げてもらえた。
小さな勝利だが、旅中の値段交渉の成功は本当に嬉しい。
ホテルが決まると、Y さんが急に元気になった。
「さっきのあの時計、見に行こう」
Y さんは旺角の路上で見かけた、有名ブランドにそっくりの時計が気になっていたらしい。
そして、Y さんは僕がもし一人だったら、絶対にできないチェックと交渉を、堂々とやってのけた。
「ここ(の部分)、もっと似ている物ある?」
「いくら?」
「××ドル」
「高い、××ドルで」
ジェスチャーと数字の押し問答。
僕は横で「すごいな」と感心しながら見ていた。
最終的にY さんは満足のいく価格で時計を購入。
旅仲間がいるって、こういうことか、と思った。
僕一人では絶対に得られなかった体験だった。
時計交渉を終えて、ようやく観光らしい観光ができるかと思った頃には、もう午後になっていた。
向かったのは「金魚街(西城街)」。
通り一面に金魚屋が並んでいて壮観だ。
大きな袋に入って店頭に吊るされた金魚たち、カラフルな熱帯魚、巨大な錦鯉……。
ここが香港だということを忘れそうになるほど、非日常的な光景だった。
続いて「花墟道(フラワーマーケット)」へ。
香港では花を贈る文化が根付いていて、市場には驚くほど多くの種類の花が並んでいた。
午後の光の中、花の香りに包まれながら歩くのは気持ちよかった。
通りには夫婦や外国人カップルも多く、花の香りに似合わない、薄汚れた二人の男が歩いている状況が、なんだかおもしろく思えた。
44歳の今、振り返って。
スムーズに進まなかったあの午後を、今でも鮮明に覚えている。
ホテルが見つからず、汗だくで歩いた時間。
Y さんの時計交渉を横で見ていた時間。
予定通りにいかない時間こそが、旅の本体だったと思う。
【セルバンテス:『ドン・キホーテ』より】
「旅とは、目的地に着くことより、道のりにある」
ホテルが満室で、汗だくになって、結局違う宿に泊まる。
そんな無駄に見える時間が、24年経っても忘れられない。
スムーズな旅は、記憶に残らない。
【孔子:『論語』より】
「過ちて改めざる、これを過ちという」
Y さんは「やっぱり違うホテルがいい」と素直に言える人だった。
予定を変える勇気が、旅にも人生にも必要なんだと、今ならわかる。
次回は「香港2日目 後編」。
バードガーデンの不思議、閉まった廟、そして謎のスープ。
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