見出し画像

【3.17更新!】オカ譚劇的紀行【深夜特急コエド号 ― 熱風!アジア編】&【ラビュー ― 西へ!ユーラシア編】バックパッカー旅

[2026.3.7] 前編配信に伴う記事アップデート
[2026.3.11] 後編配信前の記事アップデート
[2026.3.17]後編配信に伴う記事アップデート 糸冬

番組をお聞きの方もそうでない方もこんにちは。

 ポッドキャスト番組『昭和オカルト奇譚』のマサです。2026年3月はオカ譚公式コミュニティ「でぃすこ藩邸」発のバックパッカーオカルトをだいぶギュッと凝縮して2週に渡ってお届けします。藩邸のお話はひとつ前の記事に詳細がありますが、招待リンクの有効期限がミスっていたので、無制限のリンクを貼りなおしておきます。

※荒らし防止の『合言葉』が必要ですが、リスナーなら楽勝です。

こちらは3月6日・13日配信のオカ譚本配信の関連記事となります。とはいえ、note記事のほうはあくまで理解促進のための補足的なものとなるので、記事そのものは本記事のみです(適宜更新)

本編はポッドキャストでお聞きください。ひとまずnoteは予約投稿できるプランではないので、Xのほうに先行しておこうと思います。


専用カバーアート、どこだかわかるかな?

 ポッドキャスト用のカバーアートも前後編に合わせて2種類(ボツ1種類)作成してみた。

 乗り合いバスに書かれている言語が思いっきりデーヴァナーガリー文字なので、わからいでか、という感じですがまぁそのへんです。国境越えのバスだったように思います。ぼくの席は屋根(安い)でしたが、右下はラオスでソンテウに乗っている現地人化した僕です。

日焼けして現地人化している旅人感あふれる自分

※後編のカバーアートは後日更新予定

公式コミュニティ『オカ譚でぃすこ藩邸』発epスタート

 コミュニティ(現在82名)では、自己紹介用のスレッドがあり、そこでフォーマット的なものを用意してあるが、「現地リポ」関係がお好きな方がとても多く、関連で主におたよりなんかで未だに届くリクエストに、過去のバックパッカー時代の話が聴きたいというものが散見されていた。

でぃすこ藩邸より抜粋

 現地リポは心配せずともストックもあるし、バンコク編againがこの次に控えている(編集終わってる)ので待っていてほしい。バックパッカー話は、過去にちょいちょい配信内でもしていたり、ここnote出張所にもたまに書いたりしていた。でも、もうこういう機会がないと、記憶に埋もれたまま忘れてしまうだろうと、ある種の危機感を覚えたこともあり、スぺース配信の流れもあって、前後編でまとめて配信することにしたのだ。

 もし、オカ譚劇的紀行が気に入ったら、本家でもある深夜特急の小説や、大沢たかおさん主演のドラマ版をぜひご覧になってほしい。今でもガチでたまに見ているぐらい人生に欠かせないものだ。(このエピソードをまとめる際に、そういう気分になるためにドラマ版をまた見直したこともあり)

note出張所のバックパッカー記事まとめ

 せっかくなので、少しまとめておこう。過去に、当時の話を書いた記事はおおまかに以下だと思われる。

 忘れるとかいってる割に、細かく覚えているじゃあないかって?
これはぼくだけの話ではないと思うのだが、写真(画像)が残っているものはその前後の記憶が鮮明というだけの話なのだ。映像記憶から紐づいた前後のストーリーが思い起こされるというだけで、今回のエピソードを配信するにあたっては、まとめる際にもかなり苦心した。

 なぜなら、デジカメ盗まれて持っていない時期や、そもそも撮影もせずに行動していた時期のほうが長かったのだ。

 旅の始まりはある種の高揚感のようなものが脳の大半を占めていて、何でも撮っていたが、慣れてくるに従い、高揚感は次第に寂寥感に、浮足だった気分はなんとなく焦燥感に変化していき、「こんなことしていていいのだろうか?」という思いが常に頭のどこかに残った状態で旅をしていると、何も撮らなくなっていくのだ…。これもまた、バックパッカー“あるある”なのだと思う。

初公開、まさかの“深夜特急”じゃないマサルート

 深夜特急ルートも当然のように2004年当時でも大流行していたが、ぼくはまた違う、独自のルートを辿っていた。当初は、東南アジアだけの予定だったのが、マカオのカジノでバカ勝ちしたことがキッカケで期間もルートも大幅に変更することになる。

 おおまかに主要都市にラインを引いてみたが、ほんとに合理性を欠いたルートに見える。一応、主目的としては「日本じゃ体験できないことを肌で感じること」と「世界遺産」があったことは添えておく。

期間は1年半(飛行機移動も含まれます)

 わかりにくいが、ベトナムから帰国後にバックパッカーとして覚醒(レベルダウン)し、ソウル(韓国)➡香港➡マカオ➡ハノイ(ベトナム)➡シェムリアップ(カンボジア)というルートから(略)マレー半島➡インドネシア➡インド➡シーラーズ(イラン)➡アゼルバイジャン➡トビリシ➡モスクワ➡エジプト➡ヨルダン➡シリア➡トルコ➡(略)➡成都(中国)➡昆明(中国)➡ハノイ(ベトナム)と、一見合理性を欠いているように見えるが、ハノイに始まり、ハノイに戻る、というルートになっている。

 また、カルカッタからロンドンまで乗り合いバス(深夜特急)で、という縛りも特に入れていなかったので、公共交通機関は大いに活用していた。とはいえ乗り合いバスは移動の大半を占めていたことは間違いない。

 エジプトにいた頃、運命の選択があり(後編で語っている)、その選択次第では南米ペルーに飛んでいたと思うが、そうなると現在の人生とはかなり変わっていただろうことを思うと、実に感慨深い。

2004~5年当時の時代的背景について

 せっかくなので、ポッドキャスト本編であまり触れていない部分を記しておこうと思う。

▼携帯電話事情について
 2004~5年は当然ながらスマホなど存在せず、ガラケー全盛期。カメラ付きはデフォだったが100〜200万画素が“高性能”扱いだったので、コンパクトなデジカメをみんな別で持っていた。機能としては、電話+メール+簡易ネット(iモードとか)が基本の時代。一方で海外は、Nokiaが席巻していた。(フィンランド企業)

 東南アジアでも、中東でもそれは同じで、どこの街を歩いていても、Nokia Tuneと呼ばれる特徴的な着信音が聴こえてきたものであった。

 海外で通話するには国際ローミングサービスを使わなければならず、この料金が死ぬほど高いこともあって、多くのバックパッカーは日本で携帯を解約して旅出ていたのである。(代わりにメールをどこでもおこなえるネットカフェについては過去記事で画像付きで触れている

▼バックパッカーの「バック」事情
 これは人それぞれではあるが、少なくともトランクコロコロ引いている旅人はいないので、みんな大なり小なりのバックパックを担いでいた。途中で、欧米人バックパッカーとも一緒だった時期があり、聞いて驚いたのは、彼らは(特に女性)多くは、(パーティに参加できる程度の)正装が一着は入っているというのだ。

 旅先で、そういうシーンがないとも限らないという備えと、欧米人の“長旅”はスケールが違うので、3年とか余裕で旅しているため、必然的にさまざまな備えが必要となるというわけだった。

 そのため、バックに革靴をひっかけていたりする欧米人バックパッカーは今でも東南アジアで散見される。

欧米人は一回り大きめのバックパックが目立つ

 僕はというと、後編で詳しく語っているが、当初は東南アジア一周の予定だけだったので、そんなに大き目のバックパックではなかった。それが計画変更に伴い、買い替える必要が生じたため、途中のバンコク(タイ)カオサンロード周辺の旅人用品の払い下げ露店で、欧米人が売っぱらったバックパックを安く購入したという流れがあった。

▼お金事情
 メインは現金だ。但し、配信でも語っている現地のATMで日本の銀行の預金口座から現地通貨で引き出せるサービスが一部で存在していた。記憶が怪しい(ググってもピンとこない)が、僕は確か三菱UFJのPlusというのに加入してそれができていたと思う。手数料がかなりかかるので、最終手段としてパスポートと同じぐらい厳重に保管していた。

TCは銀行で発行できた
※制度そのものが終了している

 もうひとつは、トラベラーズ・チェック。(旅行者用小切手)
これも銀行で発行することができた。IDを控えておけば、窃盗・紛失の際に銀行で再発行・換金が可能になるというものだが、これも保健的な位置づけ。僕の場合は、後編を聞けばわかるが、大半の資金源が香港ドル(パタカを選ばないという選択が可能)だったので、現金がメインだった。さすがに多少は、前述の口座に入れておいたが。

▼ダイヤルロック、南京錠は必携

 海外旅行においては(行先によるが)今はそこまで重視していない方も多いかもしれないセキュリティ用品。バックパッカーはとにかく安い宿(ゲストハウス)に宿泊するので、個人部屋などは贅沢の極みである。そのため、他の多国籍な旅人がいるドミトリーに荷物を置いたり、寝たりしないといけないので、自らの持ち物は自らが責任をもって防犯に当たるしかないのだった。

過去記事にも貼っている、実際の安宿のドミトリー部屋

 こんなことがあった。カトマンズのある安宿にチェックインして、身軽な恰好になって外に食事をしに行こうとして、忘れものに気づき、ドミトリーに戻ると、僕のバックパックのポッケにかけていたダイヤルロックを外そうとしている外国人バックパッカー客を目撃してしまった。

 何か誤魔化していたが1mmも信用できないので、荷物全部持って食事に出る羽目になってしまったなど、こういうことは日常茶飯事だった。

▼当時のドル円相場
 これは今現在でも調べればわかるが、平均で108円/ドルだった。東南アジア各国ではまだ自国通貨とともにUSドルが流通しており、下手に現地通貨に両替をしないほうが有利になることも多かった。

 国境付近でうろついている流しの両替商(店を持たない怪しいおっさん)はレートは良いが偽札やクシャクシャで使えない紙幣を渡してくるので、必ず1枚1枚チェックが必要であった。

▼ビザ(査証)問題
 バックパッカーは移動を余儀なくされることが多々あった。その原因のほとんどがビザ問題だ。現在はネットで申請できたり便利になったが、当時は陸路国境で申請が却下されたり(空路のみOKなど)、ビザが下りるまで期間を要することもあって、基本的にはノービザ滞在期間中に移動をしなければならない。この移動とは、すなはち国境を越えるということだ。なので、縦断・横断などをする場合は、滞在可能日数にかなり気を使わないといけないのである。拉致られたりしている場合ではないのだ。

 このノービザ滞在期間の問題で、せっかく気が合ったのに早々に別行動になる旅仲間もいれば、その逆もある、バックパッカーが群れないのはこういう事情もあったりしたのだ。

 また、入国前の滞在が日本でない場合にビザが必要となるケースもあったり、情報収集をミスると一発アウトというシーンもよくあった。

カンボジアのビザはハノイで取っている

 そして、裏技的に国境を行き来するという手もあった。僕が使ったのは1回しかないが、例えば、ベトナム・中国は当時ノービザで15日間滞在できたので、国境を越えた街で一晩過ごし、翌日ベトナムに戻るというもの。こういうことを繰り返すと、パスポートの査証欄がスタンプで埋まってしまうことになる。

中国側から撮影(2004)

 まさにそこから撮ったものだが、中国河口(かこう)-ラオカイ(ベトナム)国境となる。川を挟んで対岸がベトナムだ。ここは以前、両国が揉めた時に対岸から石を投げあうというニュースがあった…と思ったらまさに僕が旅していた頃だった。危ないところだった…。

Internet Archiveにピンポイントで残っていた

▼乗り合いバス事情
 他の過去時期にもちょっと書いたかもしれないが、まさにカバーアートになっているようなものがそれだ。各国違いはあれど、快適度マイナススタートという意味ではどこも似たり寄ったりだ。

未開の地でエンジントラブル

 ビザ的な問題で翌日には国境を越えねばならないのにエンジントラブルで足止めを喰らったり、もはやバスですらない護送車みたいな乗り物に何十時間も揺られたり、未舗装のぬかるんだ道を行けば、タイヤを取られて乗客全員で泥まみれになって押したり、狭い車内には1席に3人座るという積載量表記どころか物理法則も無視した乗り方をしていたり、ろくな思い出はないが大事な移動手段である。

これどこだったかなぁ・・
ルアンナムターかもしれない

▼服装事情
 ジーンズを1本バックパックの底板代わりにしつつ、基本は半そで・短パン。東南アジアスタートのバックパッカーが多い最大の理由が服装にある。欧州圏からスタートする場合、夏季からスタートしないと防寒着で荷物が増えることになるからだ。赤道周辺は基本いつでも暖かいため、東南アジアが選ばれる、ということ。ジーンズは、キモチ程度ではあるもデング熱とか、蚊を媒介するタイプの病気からの防衛目的。特に川沿いの移動の際には…。

トルコに入る頃には防寒もかなり気にしないといけなくなっていた。

 こんなことがあった。インドのガンジス川沿いの街に移動する際、乗り合いバスがトイレ休憩で郊外のほったて小屋に停車した。そこで用を足していると…見たことない数の蚊の大群が露出している肌のあらゆる場所にとまっているという…悪夢のような現実を見てしまった。

▼トイレ事情
 これはバックパッカーに限らずな気はするが、確かに過酷なトイレが多かったように思う。なんとなく聞きたい層はいるような気がするので、思い出せる範囲だが、20~30時間を越えるような国境越えバスに乗っているとどうしてもローカルなトイレを使う羽目になる。

 カンボジアなどは普通に野外でしろとばかりに田んぼのど真ん中で降ろされたこともあったが、ただの穴であったり、囲いもない謎空間であったり、まともなトイレであったことのほうがむしろ少ない。

これはまだマシなほう

 まぁこれは時代はあまり関係ないように思う。
というのも、最近行ってたマレーシアにおいてもイポーなどの地方に行けば駅のトイレでさえちょっと微妙だったりするからだ。

 でも、ラグジュアリーなホテルとショッピングモールしか行かないようなしょうもない旅系インフルエン(配慮)には耐えがたいことだろう。慣れるしかない。むしろ慣れないと詰む

【深夜特急コエド号 ― 熱風!アジア編】

前編カバーアート

 ポッドキャスト本編を聞けばわかるが、前編は“覚醒前”である。本編の内容をイメージしやすく、かつ膨らませるための補足となるので、本編を聴く前と聴きながら、そして聴いた後、計3回は楽しんでほしい。

 さて。前編は日本を飛び出し、いきなり向かったハノイ(ベトナム)で過ごした日々の話がメインだ。何がキッカケでそうなったのかは過去配信でも述べていたりするが、またあらためて話している。

 恥ずかしながら、この時は、旅行者の登竜門的なトラブルみたいなものは洗礼も含めてひととおり体験している。

 前述のデジカメに関しても、通算して3回ほど盗まれているが、初めてはここハノイであった。旧市街の青空市場で見事にスられた。それもちょっと慣れてきたぐらいの頃だったので、SDカードをたまたま別にして保管していた数枚ぐらいしか画像は残っていない。

2004年当時のハノイ旧市街からの眺め
バイク借りて適当な郊外へ行ったらガス欠になって詰んだ時

 世界遺産ハロン湾も、最近聴くところでは水上生活者の家や学校がなくなってしまったらしく、当時はまだ現役であった。むしろ僕的にはハロン湾の見どころである鍾乳洞に何の感動もなく、こちらの水上で日々を営む人々のほうに興味を持ってしまったものだ。

何せ「ハロン湾」の画像一枚も撮っていない

 今は管理されており、ほとんど観光客への見世物と化している。
こうなると、僕は興味をなくしてしまう。素の姿がやはり良い。

 そして最たるものが、少数民族の住む山岳地帯、サパだ。
ハノイからは南北統一鉄道の寝台車で一晩かけて中国国境のラオカイまで行く。そこから乗り合いバスで数時間、山を登った先の高地にある。ハノイ発の夜便で行くことになるので、旅情感がハンパなかった。

マップではこのへん
中国、ラオスとの国境地帯であることがわかる

 もう貼るのも嫌なのだが旅系Youtuberの最近の動画を観たら、当時のような秘境では完全になくなっていた。

 ロープウェイがかかり(どこにかかってんだ?)、整備された街並み、小奇麗なホテルと、しょうもないラグジュアリー旅しかしないようなぬるいカップル旅系チャンネルが好きそうな場所に成り果てていた。時というのは残酷なものだ。

これが当時のサパ

 ただし、それが少数民族の人たちの問題(配信内にて)を救うことになるのならそれも仕方なしと言えるが、単なる観光資源であってベトナム人だけが得をする構造でないことを祈りたい。便利さと引き換えに、問題が解決されていれば言うことはない。

▼ディエンビエン省における山岳民族の女児と女性に対する人身取引予防事業(第1年次)(外務省)など
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/region/e_asia/vietnam/pagew_000001_00002.html

 僕の頃は秘境であったとはいえ、思い出補正といえばそれまでだ。

この画像はまだ電線がある時点でだいぶ開けている。

 配信で紹介している村では、まさにこの家族にお世話になっていた。(親子関係にあるのは右端2人と左端の子)サパの市街で撮影したもので、この後に前(日本)人未踏の秘境奥深くに半強制的に連れていかれることになる。

特に中央の子(名前はMangと書いてマン)と、その隣の子(クウ)がよくなついていた

 もともとは、サパ市街でのんびり過ごしていたら、金魚のフンみたいについてきて、しまいには滞在していた宿の部屋(サパはドミがなかった)まで朝に寝ているところを凸してくるという、プライベート皆無な状態になる。

ガキに遠慮というものはないんだと痛感した

 なんとなく過ごしている内に、そのまま仲良くなってしまい「国境を見てみたい」というのでベトナム人のバイク屋でレンタルして3人乗りで本当に国境を見に連れていったのだ。ちなみに証拠もある。

証拠(ラオカイ駅)

 自分が何時間もかけて乗り合いバスに揺られてきた道のりを、民族の子どもを乗せてバイクで往復することになるとは思わなかったが、本当に連れていったんだ。が、よく考えると、未成年誘拐とかでしょっ引かれなくて良かった。(割とマジメに)

サパ市街のレストラン

 そのお礼がしたいということで、民族の仲間の子どもたちと、お母さんがやってきて、村に招待してくれることになったという流れ。ファンタは僕がふるまった。

もうRPGだろこれ

 村までの行程は、最強方向感覚を持った僕でも今のGoogle Map上でプロットすることができないぐらいの奥地だった。山を越え、がけ崩れで牛車も通れない道を迂回し、谷を越え、おもむろに松明を渡され、洞窟を抜け、忍者ハットリくんの歌詞以上だった。

僕より健脚だった

 要するに、彼女たちは観光客にモノ(布や衣装、草など)を売るために村からある程度の量をかついでサパ市街まで通っているのだ。簡易宿泊所(ドミ以下)のような場所で寝泊まりができるようで、たまに村に帰っては補充しているということだった。

 “観光客”という枠を超えたことで村に招待された、ということがなんだか嬉しくてホイホイ着いていってしまったが、これはなんかイイ話なので割愛しておく。

 ちなみに彼女たちとの意志疎通は「英語」なのだ。書けないが少し話せる程度。しかし、ベトナム語じゃない時点で事情というか、背景にある複雑な闇を感じて頂ければと思う。教育的なこととかね。ベトナム語も多少は話せる子はいた。

村はこういうおうち。床は地面だ

 本格的にバックパッカーとしての旅を始めてからも、各地でそういうことはあったが、どこの国でも旅人を相手にしてくれるのは、同じ旅人か子どもたちと老人だけであった。

 この出来事が、旅の最後をハノイにした理由であったわけで、最後にもサパに寄っているのだ。というわけで、合理性を欠いてでもそうしたい理由があったことはわかってほしい。

中東でもいろんな出来事があった

 さて。前編では、後日バックパッカーとして覚醒(レベルダウン)するキッカケとなったベトナム旅をメインに語っている。ニャチャンのエピソードは既にバックパッカーになって、カンボジアから陸路でホーチミン入りし、そのまま北上して寄った時のことだ。時系列が複雑だが、ベトナムエピソードとしてまとめてある。

 そして本配信、ニャチャンで実際に体験した奇妙なハナシ。そのエピソードで語っている“ポンコツ”がこちら。詳細は、ポッドキャストにてお聞きください。

目を覚ました時。

 早速、過去にマジックなキノコ経験者からは「やっぱキノコじゃないっすかね~似たような幻覚を見たことあります」というリアリティついでに誤解を生じさせるようなDMがきている。

※掲載許諾済

 わかるわかる、ガンジス川がレインボー色に輝いて見えたり…したことは決してないが、やはりどこかで盛られていたのだろうか。ということは、少なくとも女性ソルジャーと一緒に摂取したことになる。

 そしてハノイ随一(当時)の国営デパート、チャンティエンプラザで怪しいパンチョから購入してしまった、日本製のハイブランド『ゼクライ ほんもののイタリ皮』の画像をお見せしよう。なんのこっちゃわからない方は、ポッドキャスト本編を聞いてほしい。

ほんとに買った

 ツッコミどころしかない財布だが、思いのほか手触りがよくて、インドで盗まれるまではそれなりに愛用していた。

【深夜特急ラビュー ― 西へ!ユーラシア編】

※3月11日の先行公開と、配信後にまた少しアップデート予定です。
 例によって、ポッドキャストで配信する本編とは被らない、あくまで補足的な内容となります。

後編カバーアート

 というわけで、後編のカバーアートは、僕的なゴールだったイスタンブール。537年にビザンツ帝国が教会として建立したアヤソフィアと呼ばれている建物です。ガラタ橋が新旧市街をつないでいるんですが、当時はフェリーも普通に行き交ってました。今もあるなら、乗船してみてください。時間の流れ方そのものが日本と違うことに気づくはず。

 後編は一気に駆け抜けてしまったけど、なんとなくまた次がいつかありそうな予感もするので、noteでもやはり補足ぐらいにとどめておこうと思います。この記事の冒頭に書いているとおり、そもそも画像が残っていないところは記憶もやや薄めです。ご了承ください。

 さて。韓国から澳門(マカオ)に飛んだわけだが、ここは財政の90%近くがカジノ収益によるもので、“中国人が1年間鉄鍋を振って得たカネを一晩で使う”などよく言われているほどに熱狂している。そしてどこもかしこもカジノだらけだ。

深夜特急の聖地『澳門皇宮』

 沢木さんが大小に興じていたのはこのカジノだが、小説のように音で聴き分けるのは無理だった。というわけで、魔王城のような外観のリスボアで本当に24時間以上興じることになる。

屋上で決戦しそうな悪の居城のようなビル
撮影:マサ

 本編でも少しその闇に触れているが、ホテル兼カジノとなっており、ステージ以外にもフロアに客を求めて売春婦がたくさんうろついている。この様子から、「マカオの回遊魚」とか言われている。ちょうど呪術廻戦の死滅回遊が放送中でもあるんで、触れておきたかった。もっとエグイ話は、梅田ラテラルのトークライブで販売予定の『ここだけのオカ譚ZZ』(ダブルゼータ)に収録しておこうかなと思っている。

 そして、そんなマカオの健全な部分の親善大使でもある方が実はオカ譚の準レギュラーの山本ミッシェールさん(と、牛窪社長)なのである。闇部分はぼくに任せてほしい。

 香港もそれなりに満喫していたが、“魔窟”と呼ばれるチョンキンマンションに滞在していた。ここがなぜ“魔窟”と呼ばれているのかは、このエピソードを配信する段階であらためて調べて初めて知ることとなる。知りたい方は、ポッドキャスト本編から。自分も驚いた。

チムシャーツォイは「尖沙咀」と書くよ
香港なのになぜか多国籍なエリアとなっていたのは本当の話。

 陸路、川の国境ってどうなっているかって島国日本に住んでいるといまいち想像もしにくいかと思うので、あるものだけ。

 これは、ファイサーイ国境。ラオス側から渡し舟に乗って、メコン川を渡りタイ側に入国する。どうやら今は橋が架かっているようなので、もしかすると貴重な体験だったのかもしれない。

 普通は空港のようなイミグレーションや厳格なチェックをイメージするだろうから、想像以上に簡素なものという印象ではないだろうか。

この門をくぐればタイ

 陸路の国境もこの時代はどこもこんな感じであった。ここは今ではだいぶ開発されたらしいが、かかる時間は変わらないといわれている、カンボジア・ベトナムの、バベット・モクバイ国境。プノンペンからホーチミンまで、10時間ほど。

明らかに建造物がある側がベトナム
カンボジア側。向こうに見える小さな小屋がイミグレーション

 この回で紹介したトクリュウ関連の闇バイトが軟禁されている街がまさにバベットだった。つい最近もこの近辺でアジトが摘発されたニュースを見たような気がする。

 インドには色々なことを教えてもらった気がする(遠い目)。

 まず、路上屋台のものは(火を通していても)安易に食べるな、そして、人を簡単に信用するな、子どもは無垢とは限らない、寝る(意識を手放す)のは隙を見せることだと知れ、などなど、これ以降の旅にもとても役立つ教訓を実体験として得られたのは感謝したい。

日本人をカモにしようとするリキシャ

 リキシャとかも交渉した値段通りに行ってくれないし、「他の日本人客を安心させたいからノートに日本語で良いように書いてくれ」と、今しがたボッタくった相手である僕に書かせるという厚かましさである。

 無論、書いておいた。「ぼったくりなので乗るな(⌒∇⌒)」と。

 最近、どこぞの幻冬舎の出たがりな編集者と不倫がスッパ抜かれた女性インフルエンサーがインドに対して正直な感想を述べたところ炎上したばかりでアレなのだが、個人的には、まぁインドだしなと思うし、行ったこともないやつらが想像で批判するなとも思ったわけだが、ぬるい旅系配信者はそもそもどうでもいいと思っているので、僕は僕の当時感じたことを率直に語っている。そもそも…

➡ 案件ではない ※これ重要
➡ 20年前のガチの体験から語っている
➡ 差別はしていない
ので、セーフだと思う。というか自分に嘘をつきたくない

 そしてインドの野グソなんて行けばわかることをわざわざ書くのもアレだが、本当にあちこちにあったのだから仕方ない。これは衛生観念が高い日本に生まれて、日本しか知らない人なら信じ難いのも無理はない。その気持ちもわかる。

 だが、真実なのだから仕方ない。ポッドキャスト本編を「インド人から嫌われたいのか」とか批判しようとした方は、一旦冷静になって現実をみてほしい。向こうからすりゃ「まぁそうだけど?」でしかない。

インドは世界的に見ても、排泄の衛生問題がかなり深刻な国の1つだ。インドは世界で最も多くの人が屋外で排便をしている国であり、いわゆる“野グソ”人口はなんと6億2000万人以上にのぼる。つまり、全国民の半分はトイレで排便をしない。

IT media

 2014年でこれ(↑)だぞ?本編の10年後だ。察してくれ。

 noteにも、2006年のインドのトイレ事情に触れている記事があったので、こちらも貼っておこう。世界は広いのだ。自分のものさしだけで測ろうとするのは傲慢というものだ。

 こちらは当時のバラナシのガンジス河前。後ろに沐浴をしている男たちがいるからといって、安易に入らないことだ。

 昔、『ガンジス河でバタフライ』という、何を幇助しているのか何とも言えないエッセイ本が流行した気がするが、それを真似てバタフライしたやつは、後日顔面が真っ青になって、口と肛門から入り込んだ聖なる河の水に含まれていた寄生虫に苦しむ羽目になったことはしっかり記しておこうと思う。残念ながら本当だ。ちなみにカンボジアのトンレサップ湖でも似たような事態になった男を知っている。

死体も普通に焼いたのと生のを流しているよ

 ひとつだけフォローするなら、ラグジュアリーなパッケージツアーで行くならまた違う感想を持つんじゃないかと思う。たぶんね

 エジプトとかそのへんは過去に記事にしているので、ペトラ遺跡(ヨルダン)に触れておこうか。断崖絶壁をくり抜いて造られた古代都市で、紀元前のナバテア人がつくったといわれている、ロマンの塊である。

有名なのは崖を丸ごと彫って作った巨大な神殿で、初めてあれが目の前に現れたときは、「あ、これインディ・ジョーンズのやつだ」ってなる。

©インディ・ジョーンズ/最後の聖戦

 実際に映画のロケにも使われているので、インディになったような没入感に浸れる。ただ、思ったより広いのだ。感動したあとにめちゃくちゃ歩かされる。しかもラクダのお兄さんがずっと横で「乗る?安いよ?」って言いながらついてくる。頼むからどっか行けと。

ペトラ遺跡 ぼったくりラクダ乗りも多い

 カッパドキア(トルコ)で行き倒れたのもガチな話で、ネタのように聞こえただろうが、新選組の羽織を持っていたのも、助けてくれた女性にそれを差し上げたのも全部本当のことだ。

奇岩には何の興味もなかった

 普段着ていたわけではなく、観光地で軽いサムライ感を出そうと持っていただけで、当時やってたブログのネタ用だと思ってくれればOKだ。

かさばるから観光用の薄い羽織だけどね

 とはいえ、エジプトまで行くことを決めた時は、『維新前夜~スフィンクスと34人のサムライ~』ごっこをやれるじゃあないか、と浮足立ったものであった。

 本当に観光客が現地で訪れるオプショナルツアー事務所に飾ってくれたので、カッパドキアに行くリスナーがいたら、探してみてほしい。当時は、額に入れて飾る、といっていた。

 さて、この記事最後の更新だが。
 とはいえ、もうネタ(画像)もあんまりないのだ(´・ω・`)
画質がゴミなおかげで容量あんまり喰わないから、MSNのメールに送っていたものとかからサルベージできたものもあった。

この首の長さは観光用とはいえないだろう

 旅人のバイブル『深夜特急』の沢木耕太郎さんも後年、いつも語っていた。「最初に訪れた香港が最も印象に残った」と。それは僕も共感するものがあって、自分の場合はやはりベトナムが特別だった。

 少しでも現地のコトバが話せるというだけで、経験できることは10倍どころか青天井に広がっていくのを知ってしまったからだ。記事のアタマに貼った動画(↑)にもあるように、普通の旅ではありえないようなことも、ベトナムなら向こうから舞い込んでくるようなフシすらあった。

今なにしとるんやろなぁ
右のポニーテールの子の故郷、ハーナム省にて
嫌いっていうわりに連れてきてくれたんだ(ツンデレ好き)

 本編ではあまり細かく説明しなかったが、現在のようにポケトークなどもなかった時代だが、「旅の指さし会話帳」というのが流行っていた。

 ベトナム語版を擦り切れるぐらい読んで、画像の子たちや他のベトナム人に教えてもらい、誰も読まないような最後のほうの辞書ページもすべて暗記したことで、ちょっと話せるようになったという経緯だ。あとはもう、コミュニケーションよね。

なつかしい・・

 ただ、ホーチミンであまり通じなかったのはショックだった。(北と南で所謂“方言”的なものがあって通じにくい)

 動画が女性多めなので勘違いされがちなので一応断っておくが、男の友達も道連れも、同世代からおじさんまで含めてたくさんできた。

 実はバックパッカー旅のスタート地点を韓国(ソウル)にしたのは理由があって、その前のハノイで、このおじさん(キムさん)に世話になったからだ。ワイン工場をハノイに持っていると言っていた。長期滞在しているのに、なぜか韓国から送らせた辛ラーメンばかり食べている変わった人だったが、とても気が良くて、世代を超えて仲良くなった。

最後のほうムスコと呼ばれてたな

 こちらはトルコの悪いひとたちと。(まんなかワイ)
地下室で夜な夜なヤバい会合がおこなわれているのをたまたま偶然踏み込んでしまい、一触即発の雰囲気になったがなんやかんやで歓迎された。気のせいか人を56せる武器を出された気がするが、都合よく忘れることにした。

生きてんのかな

 それでもやはり、この記事にも書いたとおり、ただ通り過ぎるだけの旅人に良くしてくるような奇特なのは、基本的には子どもと、そして老人が大半であったことはどの国でも変わらなかった。

助けられた恩返しで
面倒みてやってた子たち(カッパドキア)

 そんな旅の日々でずっと気になっていたことは、やはりサパで世話になっていた少数民族の家族たちだった。帰る家はあるけど、帰属する国も後ろ盾もなく、流浪するように生きる人々。この記事にも書いたが、今でも根絶していないさまざまな問題に直面している。子どものうちはいいが、村に年ごろの(20歳前後の)女性がいなかったことで、その闇を知ることになったわけで…。

 実は、この時期、辞めた会社のCFOからカムバックしないかとメールが来ていた。実際には、帰国後に別の企業に再就職し、その数年後にほんとに戻ることになるのだが、それはまた別のお話。

 要は、次にいつ来れるのか、もう一生来ることはないんじゃないかと悟っていたこともあり、旅の最期にまたベトナムに帰ることにしたのだった。本当は、シルクロードを通って帰ろうと計画していたことは内緒だ。

(自分の)目がヤベェ・・

 出会いと別れを死ぬほど繰り返したひとり旅。もう地球のどこに放り出されても生きていける気がするというある種の万能感と達観したマサが、また最初の地、ベトナムに戻ってきた。なんとなく目が死んでいる。

 せめて、世話になったあの家族とその仲間たちは、幸せになってほしいなという思いで、その死んだ目に焼き付けに、再びサパへ。

 すると、そこにいたのはーーー

モン族として初めて、観光ガイドとなって活躍するマンの姿であった。

首から誇らしげにガイド証?をぶらさげていた

 確かに彼女は英語が他の子よりも堪能だった。これからは、他の子たちに教えて、ガイドを育成するのだと語っていた。

 そんな姿をみて、

 ぼくは、安心して、日本に帰ろうと決心したのだった。


あれ、なんかいい話になってしまってなあい?
今回そういうのナシだったのに。ごめんちゃい。
でもこの時、将来は観光系で活躍したいなと思ったのは本当で、そして今その思いは叶っています。(観光関係やねん)

2026.3.20 配信『オカ譚どうでしょう』予告

 この流れで、2月のバンコクagain編を前後編で配信予定だ。とはいえ、前回、厳しいスケジュールの中でパワースポットもオカルトスポットもさんざん行ったわけで、たまのバカンスぐらいはのんびりしたいという気持ちを優先したところ、見事なクソ撮れ高になってしまった。

 せめてもの償いで、タイホラーと、タイの洒落怖朗読とその考察なども前後編どちらにも加えているので、ขอโทษ。

 地獄寺とかシリラート死体博物館、人体の不思議展リポは前回です!

昭和のバラエティとかUOを思い出すカバー

 たまにカオサンロードを大げさに語っている著名人がいるけど…歌舞伎町のほうがよっぽどカオスだぞ。

深夜特急篇の次は、バンコク旅againへ続く

 もしかしたら合間に別の回を挟むかもしれないが、一応バンコク編の編集はもう終わって完パケ(前後編)になっている。現地リポメインだがバンコクが二度目なので、撮れ高とインパクトがアレかなと思って、タイホラーとその考察も織り交ぜる構成になっているので、楽しみにしていてほしい。

 そしてこれはもう当時のバックパッカー旅をした方しかわからないかなりニッチな共感を求める内容になってしまうのだが…ワットパクナムのMRTバンパイ駅(Bang Phai)を降りた時に、記憶中枢を刺激する、ある音楽が流れてきたんだ…

 そう、あの時代の東南アジアを旅していた旅人なら必ず一度は耳にする、Wall'sのアイスクリーム売りの音。

 Wall's、生きていたんかワレ…(´;ω;`)ウッ…ってなった。
当時はこんな電動チャリじゃなくて、オフィスヤクルトみたいなコロコロ転がすタイプのアイス売りだったけど。

 というわけで、この記事そのものは先行公開になるが、興味を持った新規リスナー諸君も、3月6日、13日の本配信を聴いてほしい。

3月20日(祝・金)大阪・梅田ラテラルトークライブ

 最後に、今月に控えたトークライブの告知です。

➡梅田のメインは『豊臣兄弟』!?
2026年早くも期待値爆上がりの大河ドラマの主役に関係する、とある都市伝説に深く切り込みます。大阪ならでは、いいや、もっと広範囲に解釈したテーマは西のリスナー必見!🏯
📵映像資料・スライドを多用するため後日の配信はありません。
✂︎ …………………………………………………………………
田ラテラル ・2026年3月20日(金・祝)OPEN 18:00 - START 19:00
チケット販売中
https://livepocket.jp/e/13_gu
オンライン配信チケット https://premier.twitcasting.tv/lateral_osaka/shopcart/412335
※どちらも本公演終了後の交流会(懇親会)あり、恒例の抽選会も実施!梅田はタイの呪物マーケットで買ってきた呪物土産も!?

※ご利用のポッドキャストアプリでの登録、Xのフォロー、いいねなど
応援よろしくお願いします!各種リンク先はこちら。

いいなと思ったら応援しよう!

昭和オカルト奇譚@Podcast🎧 note出張所 500円以上のサポートをいただいた支援者さまには番組のオリジナル返礼品をご送付させていただいています。詳細は記事をご覧ください。 ▼【改定版】番組サポートのご返礼について https://note.com/showaoccult/n/n122cb5e6332d

この記事が参加している募集