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仕事のストレス、『Tシャツが乾くまで』、親子問題、フィナンシェとマドレーヌの違い、「受け渡し構造」について

ここのところ本業仕事の状況が、言葉を選んでお上品に丁寧に書くとすると、クソである。

守秘義務があるのでもちろん詳しくは書かないが、よりにもよって折り重なるあれもこれもという物量と、それに伴うムニャムニャで、さらにこの猛暑の中を出社するような状況もあって…というやつだ。

ひどい状況になるとトラブルが起こり、トラブルが起こると人は不快の感情を「受け渡す」ので、それを誰が引き受けるのかという感情問題がついてくる。これが仕事のストレスの本質的な部分である。

分析してる場合じゃない。

8月に入った。7月が終わってしまった。もう夏至か、と思ったのがついこの前のような気がする。道端の紫陽花を写真に撮った記憶がある。

土曜日の朝、起きてベッドの中でiPadからNetflixを開いてみると、『Tシャツが乾くまで』の第四話が配信されていたので観る。

主演は蒼井優と中島歩。同じバス事故でそれぞれのパートナーを失ってしまった男女の話である。ところが傷心の二人に、彼らのパートナー(松山ケンイチと夏帆)が不倫していた疑惑まで絡んでくる。

蒼井優と中島歩が初めて言葉を交わすのがコインランドリーでの待ち時間。なのだが、松山ケンイチと夏帆が実は同じコインランドリーで月に一回ペースで会って仲良く会話をしていたことが明らかになる。タイトルの『Tシャツが乾くまで』はここから来ている。

前話で、いちおう行方不明扱いになっていた松山ケンイチが生きていたことがわかる。自らが経営していた喫茶店に短い電話があったからだ。それをたまたま店に手伝いに来ていた蒼井優が電話を取ってしまう、という展開になっている。

ただ、似たような境遇にあるとはいえ、この2人がくっつくというのはあまりピンと来ない。

最新の第四話では、親子問題が顔を出してきた。虐待親や、いわゆる毒親というほどではない。でもノンデリという軽い言葉で片付けるには少々根深い、少なからぬ人が思い当たるのではないかと思わせる、子を決定的に傷つける無神経な親の挙動。よしもとばななのnoteを思い出す、不幸な親子関係。子どもが大きくなってからは親の元に寄り付かなくなる、関係を疎遠にしようと必死になる、過干渉も含めた親の挙動のリアルがさらりと描かれていた。


『Tシャツが乾くまで』は映画ではなく連続のドラマなので、各話の最後に「引き」をうまく作っていて、次の話が気になるようになっているなあという当たり前のことがまず一つ。

脚本家は注目されている生方美久(うぶかた・みく)だが、なんとなく坂元裕二的な雰囲気のある言葉選びだなと思ったら、Wikipediaに「特に尊敬している脚本家に坂元裕二…」と書いてあった。

この『Tシャツが乾くまで』で使われているアイテムにフィナンシェがある(ちなみに坂元裕二脚本では「ミルフィーユ」が頻出する印象がある)。

夏帆演じる中島歩の奥さんはフィナンシェが嫌いだったのに、別のシーンでは好きだと即答していて、それを中島歩は知らないというエピソードがあるのだ。こう書くと、本当に何でもないやり取りだけれど、次のようなセリフが何度か出てくる。
「フィナンシェとマドレーヌってどう違うかわかります?」
これはおそらく何かを象徴したセリフだろうと思う。一見同じように見えるが中身は結構違うものという、人間の見えづらさを表したメタファーではないだろうか。

ちなみに、フィナンシェとマドレーヌの違い(AI調べ)。

フィナンシェ
・卵白だけを使用
・焦しバターを使用
・アーモンドを使用
・形は長方形

マドレーヌ
・全卵を使用
・溶かしバターを使用
・アーモンド不使用
・形は貝殻状

なお、どちらのお菓子もフランス語で、フィナンシェは金融家を意味する「financier(フィナンシェ)」から。ファイナンスと同じだね。「19世紀のパリ証券取引所周辺で、忙しい金融マンが手を汚さずに素早く食べられるよう考案されたこと、形や色が「金塊(金の延べ棒)」に似ていたことに由来」だそう。
マドレーヌは人名由来で、複数の説あり。

マドレーヌと言えば、フランスの小説家マルセル・プルーストの長編小説『失われた時を求めて』の冒頭に出てくる「マドレーヌ効果」(というかこの小説から名前のついた心理現象)の描写が有名である。読んでないけど。


焼き菓子で引っ張りすぎた感があるので終わる。


冒頭の仕事の話で、「受け渡す」という言葉を使った。急に大きな話になるようだが、自分の見立てとしては、この社会は壮大な「受け渡し構造」でできている。人の「善なる行い」も功績も、逆に悪とされることも、土台として「受け渡し構造」の前提の上にあると思っている。親子関係の問題もそうだ。ハラスメントの問題、暴力の問題…。つまりは「連鎖させない」ということが大事だと言いたいのだ。

生まれてくるというのは「負わされるもの」で、子どもは限られた情報しかない状態だ。子どもは、家庭という密室の中、親という未熟で情緒不安定な人間の感情をまともに受け止めることになる。この親の振る舞いは当たり前ではなかったのだと気づき、子どもは自立して自らの居場所を探すことになる。ある者はその傷によって家庭を作ることを放棄し、ある者は親とは違う家庭を作ろうと挑む。

そして、視点を変えて見えてくるのは、上記に書いたように子を傷つけてしまう親というのは、元々はその親から何かネガティブな感情を「受け渡された」子どもだったという事実である。

だから免罪されるという話ではない。ここが難しいところである。

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shinobu_note やぶさかではありません!