吉本ばななのnoteを読んで
敬称略で書いていきます。
6月5日、吉本ばななのnoteエントリ、
『クラウディクラウドファンディング』を購入して読んだ。
エントリ自体の公開は6月4日の午後。
いや、この文章の正式なタイトルは『1 魂の死について』の方だろう。有料部分の文末に「もしかしたら単行本に向けて「2」もあるかもしれないけれど」とある。
SNSで多くの人も書いているが、簡単に人に薦められる内容ではない。家族の相剋、もっとストレートに言えば虐待の告白であり、毒親とその犠牲になる子どもたちの問題が、非常に赤裸々な筆致で克明に描写されている。どこにでもある家庭の話、というには凄絶であることは疑いがない。
現代の家庭における、密室状況で起こり得る毒親の問題についての話でもある。現代と書いたが、これは時代の新旧を問わないだろう。いつだってこういう問題はあった。なんなら昭和の時代の方があからさまで暴力的だったとすら言える。
共同体の問題は、その密室性にあると私は思っている。家族(虐待)であれ、学校(いじめ)であれ、会社(ハラスメント)であれ、歪みを持った者が密室の中で力を持ったとき、その集団の中で犠牲になる人が出てくる。それは以下のような存在だ。
力のない者。
攻撃という形での自己主張を嫌う者。
人間の善性を信じたいと願う者。
つまり、弱く優しい者が集団という中においてはもっとも犠牲になりやすい。これはパラドックスでも何でもない。他人を潰してでもおのれが生存したいという、いわば生命力の闘争の話なのだ。その闘争が、外から見えない密室の中だからこそ行われている。世間に丸見えの、ガラス張りの部屋ではできないことがあるのだ。
人間というのは個々で見れば誰もが素晴らしい部分を持っている、愛するに値する存在だ。だが、その人間が集団を形成すると、途端にそこには力の勾配が生まれる。自らを守りたいがために、相手を奈落へと追いやることすら厭わなくなる。暴力は、もっとも低コストで、もっとも手っ取り早い手段だ。自分の望み通りに相手を従わせたいという意思のもとにおいて、それは行われる。
人間は、個別に見れば愛すべき存在でありつつ、集団となれば残酷な存在になる。この両極端な二つは人間の持つとある一つの特性で説明できる。それは「弱さ」ということだ。人間は弱いのだ。弱いからこそ愛されなければ生きていけないし、弱いからこそ集まったときに流される。自分の意見を失い、ときには残酷になる。これは表裏一体、背中合わせの話なのだ。
また、そこまで悪意があからさまでない場合も多い。むしろその方が大多数なのではないだろうか?人は自らを「いい人間」の側に置きたがるものだ。やっていることがどれほど過酷でも、陰湿でも、残酷でも、薄情でも、自分をとにかく正当化したがる。
家族は簡単には離れられない。そう、家族が厄介なのはそこなのである。
子どもであれば尚更だろう。親の持つ価値観、親の作った空間、家に染み付いた生活習慣の中で、子は生まれ、そして育つ。子が精神的に自立して、親を否定しうる年齢に達するまでには、あまりにも長い時間がかかる。その頃にはすでに、子どもにとって取り返しのつかない十分な傷を負っている可能性が高いのだ。
私は、子どもは親のものではないという概念を持っている。親のものでなければ、子どもは誰のものなのか?それは、世界のものである。私は本気でそう思っている。親は、運命的な巡り合わせによって、その子を養育する立場に置かれたに過ぎない。だから、大切に育てて世界へ解き放ってあげるべき存在なのだ。自分の価値観に染めてやるだの、言うことを聞かないから暴力で躾けるだの、とんでもない話だ。ここで言う暴力とは、殴る蹴るといった物理的なものばかりではない。そんなことを書いているだけでも、すでに吐き気がしてくる。
子どもって本当に本当に可愛い。なぜあんなに可愛いのか。それは、世界に愛されるためにだ。なのに、親が極端に未成熟で、子どもよりも自分が可愛がられたい、愛されたい、といった幼稚な心性を持ったとき、不幸な逆転現象が起こる。そこには、もともと大好きだった親との関係を壊さずに支えたいという、子どものいじらしい心が垣間見えるようで、誰の話であっても私は本当につらい。
人生を自らダメにしようという人はあまりいないだろう。人はそれぞれの価値観や優先順位の中で、自分なりに最善だと思う選択をしている。その結果、人と人とがぶつかり、摩耗し合い、ときには取り返しのつかないほど反目してしまうことがある。
私が今回、吉本ばななのエントリを読んで思ったのは、「生きるとは、関係とは、こんなに苦しい」というものだった。
読みながら、多くの人は一度はこう考えるのではないだろうか。なぜそんなにお姉さんにお金を使うのか。なぜお姉さんに関わり続けるのか。
この文章の中で吉本ばななは徹頭徹尾、母のことを悪く書いても、姉についてはどこか憐憫の情が強く滲んでいる。彼女は、母のことはすでに切り捨てていたが、姉については完全に見捨ててはいない。「せめてこれを書くことで、少しでも姉が救えたら、母の名誉なんてどうでもいい、そう思っている。」と綴る。ただ「多分この原稿を読んだら、姉は激怒するだろう。」とあるが、これは姉に対する吉本ばななの最後通牒のようにも読めるし、最後の救済のような文章にも読める。
家族。それは時として呪いですらある。その関係には血の管が通っている。離れようとして管を切ると血が吹き出す。痛みもある。それほどまでに濃く近い関係性でありながら(「肉親」とはよく言ったものだ)、まったく別の価値観を持つ「他人」であるという矛盾がある。家族というものの恐ろしさは、その濃密さだけではない。そこが、もっとも壊れやすく、そしてもっとも外から見えにくい密室であるということだ。
「機能不全家族」などというソフトな言葉では足りない壮絶さがそこにはあると思う。他人のことを軽々しく「わかる」とは言いたくない。だが、程度はともかく、そうした家庭で育った私には、少しだけ理解できるような気がするのだ。
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