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長野県出身の特攻隊員、癟瀬甚吟䞭尉死埌・少䜐ヌ兄の残した回想録に蚘された海軍兵孊校出の特攻隊員ぞの旧友らの思いは「生きおいおほしかった」

 海軍兵孊校72期で1945昭和20幎4月6日、菊氎䜜戊発動初日の最埌の出撃ずしお16時45分に圗星艊爆2機で九州から発進、沖瞄本島北方海䞊の米軍機動郚隊に突入した特攻隊・第䞉埡盟隊の指揮官だった癟瀬甚吟䞭尉死埌少䜐。特攻隊員の倚くは予科緎生や孊埒兵で、海軍兵孊校卒業のいわば海軍゚リヌトでの特攻隊員は数少ないです。長野県出身者の海軍航空特攻においお84人の戊死を数えたすが、海軍兵孊校出は7人のみで、海軍機関孊校卒業生を含めおも人にずどたりたす。その䞭の人が癟瀬甚吟䞭尉でした。以䞋、敬称略

「回想録 故海軍少䜐癟瀬甚吟」より

 孊幎䞊の兄、茪湖歊倫が癟瀬甚吟の䞉十䞉回忌に合わせおたずめた「回想録 故海軍少䜐癟瀬甚吟」を入手したした。個別の特攻隊員にご遺族がきちんず蚘録を残されおいる䟋ずしおは長野県出身者では陞軍航空特攻の䞊原良叞少尉1945幎5月11日戊死の䟋が有名です。癟瀬甚吟に぀いおは、たずたった蚘録も芋圓たりたせん。回想録も非売品で入手しにくいものです。こうした若者が生き、そしお死んだこずを身近に感じおいただくため、ここにたずめさせおいただきたす。

 癟瀬甚吟は1924倧正13幎2月25日、東筑摩郡波倚村埌の波田町、珟・束本垂枕東で父盞十、母さかぞの男ずしお生たれたす。1936昭和11幎、小孊校を卒業し束本第二䞭孊校珟・束本県ケ䞘高校に入孊し、幎間、圓時同じ孊校の幎生の兄、歊倫ず共同炊事をしお幎目を過ごしたす。そしおこの幎に母芪が、翌幎父芪が盞次いで亡くなりたす。
 既に日䞭戊争䞋にあった1940昭和15幎、幎生に進玚。そしおこの幎、海軍兵孊校を受隓し、合栌したす。束本第二䞭孊ずしおも波田村にしおも、初の海軍兵孊校入りずあっお、呚囲を驚かせたす。
 そしお倪平掋戊争䞋の1943昭和18幎9月15日、海軍兵孊校72期を卒業。少尉候補生ずなり、海軍航空飛行孊生ずしお霞ヶ浊航空隊ぞ入隊。11月8日に偵察孊生ずしお癟里ケ原航空隊ぞ異動。1944昭和19幎3月15日、ちょうど20歳の時に少尉に任官、9月15日に䞭尉ずなりたす。

同

 1944幎11月、攻撃第䞉飛行隊指揮官ずしお、フィリピンで戊闘に初めお参加。12月には台湟方面に転戊しおいたす。

 1945昭和20幎2月に内地ぞ垰還し、3月29日、蟞䞖の句を長さメヌトルの絹地に墚曞したす。
 「君が為桜ず共に散り埁かん
   朔き埡楯ず敵ぞ撃ちおん」

同

 1945幎4月3日、沖瞄方面の敵機動郚隊を爆撃、垰途、喜界島に䞍時着。6日、神颚特別攻撃隊第䞉埡楯隊圗星爆撃機線隊隊長ずしお、第䞀囜分航空隊基地より出撃。18時30分、基地無線に「敵艊発芋す。突入䞭」を連絡。南西諞島方面敵艊船に突入しお戊死ず認定。22歳。4月6日、二階玚特進で少䜐に。

同

 癟瀬甚吟の戊死が家を継いだ長男の助康のもずに届いたのは、戊争も終わっおいた、11月に入っおからでした。村葬は1946昭和21幎5月11日に行われおいたす。
          ◇
 回想録では、同玚生や埌茩、恩垫らが文を寄せおいたす。小孊校時代の担任倪田盎幞は「クラスでは背の高い方で、頑䞈そうな䜓の持䞻だったが、運動は䜙り埗意な方ではなく、口数の少ない目立たない児だった」ずしたす。䞀方、クラスの仲間は「あい぀は䞀床怒らすず手が぀けられねヌで、気を付けろ」ずされおいたずのこずです。幎の懇話䌚で父芪から「おらあずこじゃ金がねヌで、あれは䞭孊ぞでもやっお、どっかいいずこぞ逊子にやらっず思っおるが」ず盞談され、束本第二䞭孊ぞの進孊を奚めたず。兄、歊倫も長野垫範孊校卒業間もなく、逊子になっおいたした

 そこで、指導をしたすが、勉匷の仕方を教え、やっおきたら目を通すずいうこずにしたのですが、欠かさず毎日やっおくるので目を通すだけでも倧倉。そしお、6幎の教科曞は早々終了、問題集もそ぀なくこなし、䞭孊の算術の教科曞も2か月ほどで終えおしたい、悠々ず入詊を突砎したず。そしお二䞭に呌ばれお懇談したずき、案内されお癟瀬の぀くった昆虫暙本が玠晎らしいのでどんな指導をされたかず尋ねられたすが、やっずのこずで幎生の時「先生、俺に昆虫の本を貞しおおかねヌかい。先生のおせおくれる名前じゃ、あおにならねヌで」ず蚀われ、昆虫図鑑を貞したこずを思い出したす。癟瀬は図鑑を芋お独力で䜜り䞊げたのでした。

 そしお倪田は「圌の戊死はどう考えおも『勿䜓ないこずをした』ずいう蚀葉に尜きる。䞖間には、甚吟君のような前途有為の若人が数知れず、お囜の為ず死んで行っお呉れたおかげで、今日の繁栄があるんだず申しお慰めの蟞ずする人が倚い。事実その通りかもしれないが、僕には玍埗できない。そんな蚀い方は第䞉者の無責任な倖亀蟞什に過ぎないず、敢お反発をしたくなる。ず蚀っおどう考え、どう思っおみおも、還るこずのない甚吟君だ。それでも、勿䜓ないこずをしたず蚀わないではおれない次第だ」ず振り返りたす。
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 束本第二䞭孊校時代。玚長、副玚長は成瞟順で、癟瀬は䜍を争っおいたずいう。枩良、寡黙、たじめで謹厳な颚栌があったず教垫が衚しおいたす。同玚生の座談䌚で、「圌の垜子はあちこちミシンの跡があっおさ、い぀もアミダにかぶっお肩をいからしおいた」「バンカラ振りで堂々ずしおいた」「クラスでいたずら連䞭が調べられるず、圌は、さっず手を挙げお俺も仲間であるずいったり、先に立っお匁護しおくれる男だった」「癟瀬君は萜曞きをしなかったのに起立したでな」「こたった問題が組に起きるず自分から背負っお『よし俺がやる』ず買っお出たもんだ」「副玚長の立堎ずはいえ、勇気があったよ」

 同玚生、塚原豊喜は、「垞に積極的に挙手発蚀を為し、その解答発蚀が的確であるず共に、その発蚀態床が極めおきびきび」しおいたず話したす。そしおきびきびした態床ず決断の良さは奜感をもたれ、垞にクラス委員ずしお掻動しおいたず。そしお塚原は匁護士の道に入りたすが、癟瀬が生きおいたら「法秩序の維持、基本的人暩䞊びに民䞻䞻矩の擁護に貢献」しおいたのではないかずし、貎重な人材を喪倱したず嘆きたす。そしお間違った為政者が囜政を握るず人生を狂わされる危険性を再認識し、民䞻䞻矩を守るこずこそ、癟瀬の死を無駄にしないこずではず述懐したす。

塚原豊吉の思い

 やはり䞭孊の同玚生、近藀正䞉は、癟瀬は生埒の半自䞻的な颚玀取り締たり組織「興颚䌚」の圹員を終始兌ねお、巊袖䞊郚には圹員の印のワッペンがい぀も぀いおいたず振り返りたす。「垜子のひさしをぷいっず䞊ぞ匕っ匵り䞊げたように被り、倏は霜降り、冬は小倉の制服を着、黒の線み䞊げ靎か時には地䞋足袋を穿いた」姿だけが思い浮かぶず。そしお蟞䞖の句に「歊人ずしお完党に玔化されきっおいるのを感じ、ある皮の枅々しさず圌特有の気魄ずが䌝わっおくる」ずしたす。そのうち、自分が君倩皇のために死ぬ気にはどうしおもなれなかったこずを思い出し、癟瀬のいう「君」は誰だったのかず思いを巡らし、だれが「甚吟さ」を死なせたず。

近藀正䞉の思い

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 本をたずめた兄、茪湖歊倫は、あずがきに耇雑な思いを茉せおいたす。䞉十䞉回忌、1978昭和53幎のこずです。その䞭で、この䞀節を玹介させおいただきたす。

 「倪平掋戊争は寧ろ囜家政策の行き詰たりを、戊争ずいう解決方法にゆだねる以倖に方策を芋出し埗なかった圓時の指導者局の貧困さにあったのであろう。こうした䞭にあっお、甚吟もひずりの軍人ずしお、その心身を囜家に捧げた。それは玔真無垢な至誠からであった略。その姿はあたりにも矎しかったが故に、逆に気の毒でもあった。もし圌等若き戊没者の死を無駄にしないためには、囜際的な問題、囜内問題、略これらの問題に察し䜕等かの圢で解決ぞの担い手になるよう努力しなくおはならないず考える」

䞉十䞉回忌に合わせお䜜られた碑

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 かように癟瀬甚吟を玹介させおいただきたした。䞭の人も、いろんな思いがありたすが、既に亡くなられた方の胞䞭など、理解できようもありたせん。ただ、戊争がなければ、癟瀬甚吟をはじめずした倧勢の若者たちが、その才を発揮し、奮闘されたであろうずいうこずだけ、觊れおおきたいです。

 そしお、こうした人生をしっかり歩んでいた䞀人の人間が、ただ、敵艊に突っ蟌んでいく。そんな戊闘に远いやった者ぞの怒りが沞きたす。たじめで䞀培な人ほど、それは癟瀬甚吟のように、玔化しおしたうのですから。為政者は䞀人ひずりの呜など、考えないのでしょう。しかし、その呜を奪う暩利は、どこにもありたせん。囜家の郜合で振り回されるのはごめんです。

いいなず思ったら応揎しよう

信州戊争資料センタヌ(ただ斜蚭は無い ) ここたで蚘事を読んでいただき、感謝したす。責任を持っお、正しい情報の提䟛を続けおいきたす。あなた様からサポヌトをしおいただけたすず、さらにこの発信を充実し、出版なども継続できたす。よろしくお願いいたしたす。