長野県明盛村(現・安曇野市)出身の兵士を送った出征寄せ書きー当方所蔵の戦時資料にあった名前を発見、探ったところ戦時下の若者たちの軌跡が見えて…
こちら、長野県南安曇郡明盛村(現・安曇野市)から出征することになった三澤敦弘君の武運長久を祈っての寄せ書きです。

こうした寄せ書きで出身地などが判明する手がかりは、地名などの記入です。トップに「祷 武運長久」に続けて「明盛村長小松脩」とあり、長野県出身者と確定しました。小松村長は1921(大正10)年から1945(昭和20)年まで村長を務めた人でした。

次いで、ほかに肩書があった署名は「学校長 竹内庄一」がありました。当時明盛村にあった学校は温明尋常高等小学校、1941年度からは温明国民学校で、その校長であれば温明青年学校の校長も兼ねていました。行政と教育のトップがそれぞれ署名していたことになります。

寄せ書きには、女性の名前も何人も見えました。名字のばらつきから血縁関係とは見えない事、校長も同列に書いてあること、親族とみられる三澤姓は一部であることから、同級生が主に集まって書いたものかと推測します。名字は明盛村、梓川を挟んで向き合い学校も同じだった梓村(現・松本市)あたりではよくあった名字が目立ちます。「祈御健康」とありますが、当時よく見られた八紘一宇や米英撃滅といった戦意昂揚の言葉が並んでいないこと、「祈御健康」は無事でいてほしいという思いが詰まっていることから、比較的仲間内の集まりで書かれ、出征兵士の三沢君を大切に思い、生きて帰ってほしいという仲間の気持ちも見えるようです。

そして、オークションに出ていたこの寄せ書きを、ぜひとも入手したいと思ったのは、こちらの「輪湖武夫」の署名を見つけたからでした。

実は、中の人の収蔵品に、この「輪湖武夫」関連の収蔵品があったのです。こちら、軍隊手帳です。

裏に「輪湖武夫」の記名が。

そして、住所は南安曇郡梓村。まさに、明盛村の隣で、縁があったのは間違いありません。輪湖武夫さんは1920(大正9)年1月5日生まれ、温明尋常高等小学校を卒業後、中等学校を経て長野師範学校に入り、1939年3月に卒業。実は元々は百瀬姓で、卒業から間もなく輪湖姓となっているので学校を出た区切りに養子縁組をしたとみられます。
1940(昭和15)年に徴兵検査を受け「第一補充兵野砲兵」となっています。補充兵ですので、兵役で欠員が出れば現役召集されます。が、本人の軍隊手帳には入営の記録がなく、そのまま長野県下高井郡夜間瀬村(現・山ノ内町)の北夜間瀬尋常高等小学校で勤務をしていたとみられます。

1941(昭和16)年3月、長野師範学校に卒業証明と教練検定合格の証明を請求して北夜間瀬小学校に送ってもらっています。おそらく、国民学校に改変するに当たり、あらためて調査されたためと思われます。
卒業証明書は卒業時の百瀬姓、教練検定の証明書は輪湖姓で旧姓百瀬と併記してあります。改姓は、1939年3月の卒業から1940年9月の徴兵検査の間に行われています。寄せ書きを書いたのは、この後のこととなります。


北夜間瀬小学校、1941年からは北夜間瀬国民学校に教員として在籍していたのは間違いありません。そして輪湖さんは1943(昭和18)年に異動して懐かしい明盛国民学校に赴任しています。1943年に梓村の在郷軍人会に入っていること、そして1941年12月8日のコタバル上陸、真珠湾空襲に始まる大平洋戦争の開戦の勅語を手書きで「温明国民学校」の原稿用紙に書いていたことから、1943年4月に着任したとみられます。


これで、先に挙げた日章旗への寄せ書きがいつごろのものか、だいぶ絞れます。1943年4月以降で終戦までに書かれたのは間違いありません。「祝入営」といった書き込みではなく、武運長久とあることから、入営ではなく、赤紙による出征とみられます。1943年当時の輪湖さんは23歳ですので、同世代だった可能性が高いと思われます。
1943年といえば、2月にガダルカナルの撤退、そしてソロモンの激しい戦闘が起きていたころで、4月18日に山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、5月29日にはアッツ島の日本軍守備隊が全滅、初の「玉砕」として大本営報道部から発表されています。次第に敗勢が高まりつつあった時代です。そんな中、いつ召集されてもおかしくないと、輪湖さんは遺言状や遺影用の写真、遺髪などを準備します。


軍隊手帳に特に記載がないことから、召集されず敗戦を迎えたとみられます。送り出した仲間は、無事帰れたのでしょうか。この寄せ書きは経年の汚れなどはありますが、身に着けたような形跡はなく、戦地に行かず三澤君の家に残されたと思われます。
さて、戦後の輪湖さんは、海軍兵学校72期で1945年4月6日、菊水作戦発動初日の最後、16時45分に彗星艦爆2機で九州から出撃して沖縄本島北方海上の米軍機動部隊に突入した特攻隊・第三御盾隊の指揮官だった百瀬甚吾中尉(死後少佐)の事を本にまとめます。元の姓が百瀬で1歳年下だったことから、弟か親類か、深い縁があったのでしょう。戦時下、仲間を寄せ書きを書いて送り出したこと、自分も死ぬ覚悟を固めた事、一方で特攻隊で戦死した近しい人と、生き残った自分。その中で何をなすべきか、真剣に考えられたと思います。
寄せ書きと輪湖さんが残したものから、こんな戦時下の姿が浮かんできました。兵士にも残るものにも、それぞれに人生があり、単なる数字ではない、一個人であることを、今に伝えてくれていると感じます。
百瀬甚吾少佐のことは、また調べたいと思っています。
編注・百瀬甚吾少佐は輪湖武夫の弟であることが判明しましたが、記述時の表記そのままで後世に残します。
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