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【歴史探訪】小谷城跡 〜浅井長政が本拠とし、最期を遂げた城〜

平地とその周囲の山一帯が、小谷城の縄張り

 浅井三代(亮政・久政・長政)が居城とし、北近江の要衝に築かれた小谷城。
 城主の1人・浅井長政は、織田信長の妹であるお市の方を妻に迎え、織田家と同盟関係を築きました。
 しかし、元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いを機に長政は信長に背き、両者は敵対関係となります。やがて、小谷城と向かい合う虎御前山に布陣した織田軍との緊張は高まり、姉川の戦いへと発展しました。浅井・朝倉連合軍はこの戦いで敗北しますが、その後も志賀の陣など、各地で激戦が繰り広げられました。
 そして三年に及ぶ攻防の末、天正元年(1573年)に小谷城は落城。浅井長政の自刃し、浅井氏は滅亡しました。
 本記事では、浅井家ゆかりの小谷城跡の登山ルートや、城の遺構とその逸話をご紹介します。

【小谷城の縄張り】

赤線で囲った場所が、本記事で紹介する範囲です。

 小谷城跡は現在の滋賀県長浜市湖北町に位置し、その起源は、大永5年(1525年)に初代・浅井亮政が小谷山の山頂に大嶽の曲輪を築いたことに始まります。その後、東西の尾根に本丸などが築かれていきました。また、山に囲まれた小谷城中央の清水谷には、家臣団の屋敷や寺院が立ち並んでいたといわれています。
 本稿では、主に出丸〜本丸〜山王丸までの道のりをご紹介します(その先に続く、月所丸や大嶽などは、力尽きて断念しました……)。
 清水谷の武家屋敷跡や城下町跡に関しては、以下の記事で紹介しております。

【小谷城跡登城ルート・遺構】

小谷城跡ガイド館「浅井三代の里」

 登山口付近に、小谷城跡ガイド館「浅井三代の里」があります。駐車場が整備されているため、車で訪れる場合はこちらを利用できます。(清水谷から入る登山路もあるようですが、本稿では割愛します。)
 公共交通機関では、最寄り駅としてJR北陸本線の河毛駅がありますが、徒歩で約40分と距離があります。その後の登山を考えると車で訪れることが現実的でしょう。
 なお、車で中腹の番所跡・金吾丸付近まで行くことも可能です。要所のみを効率よく巡りたい場合には便利ですが、道幅が狭いため運転には十分ご注意ください。
 また、行楽シーズンにはシャトルバスが運行され、一般車両は通行禁止となる場合がありますので、事前に観光情報サイト等でご確認ください。

 ガイド館の周辺には、平成23年(2011年)に放送された大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』の放送記念碑も設置されています。

常勝寺跡

 付近には常勝寺という寺院の跡地があります。
 白山を開山した泰澄によって、神亀5年(728年)に創建されたといわれています。戦国時代には、小谷城主・浅井亮政の祈願所として「小谷寺」に寺号が改められました。現在、小谷寺は東へ約300mの位置にあります。

伊部林道入口

 常勝寺跡から舗装道路(伊部林道)沿いに歩きます。

 道中に、出丸跡へ続く入り口階段があります。

 しばらく登ると、2つの道標があります。「歩行者ルート」の案内矢印は、本丸跡の方向を示しておりますが、出丸跡へ向かうには左へ曲がる必要があります。

 こちらの方向へ進みます。 

出丸跡

2026年1月に訪れたため、少し雪が残っていました。

 出丸跡にたどり着きます。平坦な地形に、防御性を高めるために土を盛って築かれた「土塁」があります。
 土塁などで区画された平坦な区域は「曲輪(くるわ)」と呼ばれます。そのうち、本城から突き出て設けられたものを「出丸」といいます。

 小谷城主郭尾根の最先端に位置する独立した砦。2重の土塁と2段の曲輪が見事に残っている。コの字型に囲う点など、月所丸の土塁とも共通性があり、朝倉氏の来援によって築造された可能性が高いだろう。

現地解説板

 土塁の上から、下向きに撮影した写真です。木々が生い茂り見えづらいですが、雪があるので距離感は掴めるでしょうか。解説板の図のようにもう一段下に、曲輪が構成されていることがわかります。

 出丸跡を後にして、先へ続く山道を下ります。

 しばらく進むと、舗装道路に突き当たります。車で登る場合はここを通ることになります。道路沿いに歩きます。

追手道

 道路の途中に追手道の登山口があります。そちらから登ります。

 しばらく登ると岩肌が露出し、小石が散乱した道となっていきます。足をひねったり、躓いたりしないように注意しましょう。

間柄峠址

 途中に石標と解説板が立っています。初代・浅井亮政の時代の逸話が残る場所です。

 大永五年(一五二五)六角高頼が浅井亮政を討つべく、小谷城を攻めた時、越前より朝倉氏の軍奉行朝倉教景が来援した。
 その朝倉教景に従ってきた真柄備中守が守った所で、その名を取って真柄峠と呼ぶようになったと伝えられている。

 解説板に登場する朝倉教景は、法名「朝倉宗滴」で知られ、いわゆる軍師として名を馳せました。
 また、元亀元年(1570年)の姉川の戦いの際には、真柄備中守と同じ姓である真柄十郎左衛門という武士が、刃長五尺三寸(約160センチ)の大太刀を振るって戦ったといわれています。
 真柄峠での戦いは、その45年前なので同一人物ではないと思いますが、この峠での逸話といい武勇に優れた一族であったのでしょう。

【参考】熱田神宮 剣の宝庫 草薙館
真柄大太刀の実物展示とレプリカ体験コーナーがあります

望笙峠

 追手道と舗装道路が並行する場所があり、展望所となっています。

 峠からは伊吹山を望むことができます。『古事記』や『日本書紀』にも登場し、日本武尊がこの山で神の化身である白猪(『日本書紀』では大蛇)の怒りに触れ、大氷雨に遭って衰弱したという神話の舞台となっています。

 追手道へ歩みを戻します。

 ここで分かれ道となりますが「金吾丸」と刻まれた石標の方を登ります。

金吾丸跡

 登りきると、出丸跡と同じように曲輪となっています。

 大永五年(1525年)六角定頼が小谷城を攻めたとき、六角氏の援軍として朝倉太郎左衛門尉教景(宗滴金吾)がここに陣を布いたと言われ、その名乗りを取って金吾丸と名付けられたと伝わる
 大嶽城を真正面に見る南北に四段の曲輪と土塁からなる 土塁は低めで城郭構造にメリハリはなく
大永五年以降 新たな修築は行っていないようである

 解説板の通り低めですが、雪が残っているところが、ちょうど土塁となっています。

 そして、金吾丸の先を降りると、林道の終着点までたどり着きます。

 要所だけを紹介していますが、実際にはここまで約30分かかっています。車で登る場合は、付近の中腹駐車場に車を停め、そこから登山となります。
 なお、クマ注意の看板もありました。

 熊鈴や熊撃退スプレーを持参しましょう。
全く関連のない自治体サイトからの引用で恐縮ですが、山城を登る際の注意点がよくまとめられている記事リンクを貼らせていただきます。登山に慣れていない方は、ぜひお読みください。

番所跡

 絵図看板より少し進むと、左手は番所跡となっています。

 小谷城の主要部への入口に位置する。通常、番所があった所といわれる。登城道に面して南北に細長く石垣を組み、周辺には腰曲輪が点在する。北側の石垣上に一段高い平地がある。
 現在、北谷から登る林道(自家用車なら通行可)は、この番所跡まで通じている。

虎御前山 展望所

 番所跡から、しばらく登ると展望所に差し掛かります。

 展望所からの眺めです。中央にそびえる山が、虎御前山で、織田信長率いる織田軍が姉川の戦いの前に布陣しました。また、浅井氏の滅亡へとつながった天正元年(1573年)の小谷城の戦いの際にも、虎御前山に城を構築し、再び本陣としています。

 展望所を後にして、先を進みます。

御茶屋跡

 登城路の途中の左側に、御茶屋と呼ばれる曲輪があります。

小谷城主郭部最先端の曲輪である。中央にあるL型の土塁が特徴であるが、その内部には小規模な御殿があったと思われる。 西側の隅には庭が存在したと考えられる。

 曲輪上に庭石らしき、大きな岩が点在していました。

 御茶屋跡から、山道に戻ります。

御馬屋跡

 御茶屋跡の上にも、曲輪があります。

 高い土塁が三方を囲んだ特徴的な構造を持つ曲輪である。名称通り馬小屋があったかは意見が分かれるところである。 北東にある馬洗池は、文字通り馬を洗った池と解するよりは、桜馬場下の石垣に取り付くことを防ぐための水堀と考えたほうがよい。中央に井戸があったことが確認されている。

馬洗池

 こちらが馬洗池です。周囲は石垣で囲われており現在も水が溜まっていました。

 登城路に戻り、本丸跡方面に向かいます。

横山城址・姉川古戦場 展望所

 途中に横山城址と姉川古戦場の展望所があります。

 

 青丸で囲った部分が、姉川の戦い直前に浅井・朝倉軍が一時陣を置いた大依山です。一方、赤丸で囲った部分が横山城跡の山です。戦場の中心となった姉川は視認できませんでしたが、戦いは概ね横山城跡と大依山の間の一帯で、展開されたとみてよいでしょう。
 『浅井三代記』などによれば、浅井氏家臣の間では、織田信長軍に包囲された横山城を救援するため、大依山から姉川方面へ進軍すべきか、それともそのまま小谷城へ撤退すべきかをめぐって議論があったとされます。最終的に姉川方面への進軍が決定され、浅井・朝倉軍は南進して、姉川合戦が始まりました。

首据石

 展望所の側には、ただならぬ逸話が残る大石があります。

 黒金門跡の手前にあり、天文二年(一五三三年)一月、初代亮政は六角氏の合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り神照寺に誘殺し首をここにさらしたと伝えられる

 首据石より先へ進むと、写真の石標・解説板に突き当たります。左手は本丸跡方面ですが、あの武将の足跡を辿ってここまで来たのであれば、右へ進みましょう。

 細い道が続きますので、ご注意ください。

赤尾屋敷跡

 浅井氏重臣の赤尾屋敷跡に着きます。そして、その先には……。

浅井長政自刃の地

 浅井長政が、最期を遂げたと伝わる場所があります。

 天正元年(一五七三)九月一日最後の攻撃のため黒金門から討って出た長政は信長の兵に攻められ、本丸(鐘ヶ丸)に帰る事ができずやむなく重臣赤尾美作守の屋敷に入り自刃した。享年二十九歳であった。


 さらに信長公記には、以下の内容が記載されています。

 浅井父子の首は京都へ送り、これまた獄門に掛けさせた。また、浅井長政の十歳になる嫡男がいるのを捜し出し、関ガ原というところで磔に掛けた。信長は年来の無念を晴らしたのであった。

『現代語訳 信長公記』
太田牛一著 中川太古訳
新人物文庫出版    

 
 浅井長政と父・浅井久政、さらに嫡男・万福丸の死によって、浅井氏は滅亡します。
 一方で、妻・お市と三人の娘たち(茶々、初、江)は救い出されています。彼女達にも、さらなる過酷な試練が待ち受けておりますが、長政の血脈は後世へと受け継がれ、現在の皇室まで続いています。

 本丸東側を取り巻く腰曲輪下にあるで3段構造をとる。浅井氏の重臣である赤尾の屋敷と言われ。 天正元年(1573)9月1日に浅井長政が自刃した場所でもある

 赤尾敷跡から本丸へ続く登城路へ戻ります。

黒金門跡

 

 石段とその両側に石垣に築かれた場所となります。

大広間に設けられた重要な門である。「黒金門」と呼ばれているところから、鉄を打ち付けた扉であったと考えられる

 先に紹介した解説板によれば、ここが浅井長政が討って出たとされる場所です。この先は本丸跡へ通じています。

桜馬場

 黒金門跡から引き返す形となりますが、門跡から南は桜馬場という曲輪となっています。

 大広間黒金門の南に存在した曲輪。南北に長い曲輪で、東西2段で構成される。西側の細長い曲輪は特徴的で、その南西端は信長の本陣があった虎御前山を見張る最適の地であった。また、馬洗池周辺は石垣が突出しており、横矢懸けの構造を持っていた。東側の登城路からは、赤尾屋敷方面に向かう道が分岐し、その手前には今井秀信の首を据えたという首据石が存在する。

浅井氏乃家臣供養塔

 桜馬場に、浅井氏家臣の供養塔があります。

 気象条件の関係で、空と色が同色となってわかりづらいですが、陸地の先に琵琶湖が広がっています。

大広間跡

 「大広間」の名前の通り、広大な曲輪にたどり着きます。そして、その先へ進むと…。

本丸跡

 遂に本丸跡へたどり着きます。

本丸【ほんまる】 大広間【おおひろま】
本丸は、古絵図では鐘丸とも天守とも記される。南北40m、東西25mを測り、南北2段の構造で、北側の上段に橋を附属する中心建物が建っていたと考えられる。東西の石垣下には土塁が築かれ、敵が側面を回れない構造を持っていた。 北側の大堀切で、小谷城主要部は二つに分断される。南側には石垣が積まれ、その下の大広間は南北85m、東西35mを測り、山上の小谷城内で最大の曲輪となっている。大広間には御殿が建ち、井戸や土蔵が存在したことが分かっている。 大広間南側には黒金門があった。

 本丸跡の側面に石垣が築かれています。
 日本の城といえば石垣がイメージされますが、通説では織田信長が安土城を築いた後に普及したと考えられています。そして、それ以前の城は、土塁や堀を中心とした「土の城」が主流でした。
 しかし、小谷城は、安土城築城以前の城であるにもかかわらず、石垣が存在している点が興味深いところです。
 さらに2026年4月に、小谷城に当初から石垣が築かれていたことを裏付ける書状が発見されました。浅井長政が小谷城で石垣用の石を運ぶ「石引き」を行うにあたり、父・久政が家臣に協力を命じた内容の書状です。
(参考:読売新聞オンラインの記事リンク)

 なお、元々浅井氏は、六角氏に従属していたのですが、その六角氏の居城・観音寺城跡にも石垣があります。石垣構築の着想をそこから得ていたのかもしれません。

(参考:公益財団法人滋賀県文化財保護協会の記事リンク)


 石垣横の石段を上がります。

 本丸の中心部にあたりますが、かつて存在した建物の構造は、現在のところ明らかになっていないようです。ただ、画像のように地面が一段高くなっており、建物の構造と関連がありそうです。

 江戸時代中期の小谷城跡絵図に「天守共 鐘丸共」と記されており、鐘丸がその機能を表していると考えられている。構造については不明であるが、何層かの建物であったことが想定される。

 本丸跡の見学で満足して、そのまま帰途につきたくなりますが、さらに先には、織田軍のあの武将が攻め上ったとされる場所が残っています。もうひと踏ん張りして進みましょう。
 本丸跡の西側の道を進みます。

御局屋敷跡

(注意)撮影地点からさらに下の曲輪です。

 西側の道のさらに下に曲輪があります。

本丸の西下にある曲輪である。御馬屋跡から続く帯曲輪で本丸を守るために設けられたから曲輪筋には何本かの竪堀が配置されている。

大堀切跡

 本丸跡の北側へ進むと、大きな「堀切」と呼ばれる遺構があります。

 本丸跡の北にある大規模な堀跡で尾根を大きく削ってある。番所跡から本丸跡までとその上を区切るためのものである。

解説板

 堀切は、尾根伝いの敵の侵入を防ぐために設けられた、山城によく見られる構造です。

虎口

 大堀切を越えると、中丸跡の石垣と石段で築かれた「虎口」(敵の侵入を防ぐため、わざと狭く造られた入口)となっています。ここを進みます。

中丸跡

 中丸跡と呼ばれる曲輪に着きます。奥へ向かって段状の地形が連なっていることが分かります。

 南北3段から成り、最上段に刀洗池がある。この池の縁を通って、上段の京極丸につながる。3段目と2段目の間や、1段目の南側正面には小規模な 「石垣が現存し、この曲輪も基本的には石垣で固められていたと見られる。虎口を中央に設置しているのは、中丸より上部の郭だけで、ここより下の郭は、 敵がまっすぐ突き抜けられないよう側面から入る構造になっている。本丸との間に大土木工事によって造られた大堀切がある。清水行側には御局屋敷と通称される腰曲輪が附属する。

 真ん中に、次の段に上がる虎口があります。

 上がった後の写真です。さらに次の段が続きます。

 ここからは敵から一直線に侵攻されないように中央ではなく側面に虎口があります。また、側には刀洗池があります。

 次の段に上がると、地面に横たわる道標があります。その方向に従い、次の曲輪である京極丸の虎口へ向かいます。

 一段低くなっている区画がありますので、そこへ下ります。急坂となっているので、足元にご注意ください。

京極丸虎口跡(羽柴秀吉軍進軍ルート)

 盛り上がった土塁と石が散らばっている箇所にたどり着きます。ここが京極丸の虎口です。ここから、かつて羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍が京極丸へ攻め上がりました。

 元亀四年(一五七三) (天正元年)八月二十七日夜中清水谷 水の手より羽柴秀吉軍が この虎口へ攻め上り小丸と本丸との連絡を遮断し 小丸にいた長政の父久政を自害に追い込んだ

 中丸跡の虎口と比べると、石垣が散らばっており、虎口の構造がわかりにくいのですが、当時の破城(意図的に取り壊し、軍事機能を損なわせること)の跡かもしれません。

 虎口から再び上がります。

 そして、次の虎口を進みます。こちらも石段や石垣が残っています。

京極丸跡

 京極丸跡の主要部に着きます。土塁が高く築かれており、大広間に次ぐ広大な曲輪となっています。

 虎口から攻め上った秀吉がこの京極丸を占拠しました。

京極氏の屋敷があったと伝えられている。大広間に次ぐ広大な曲輪である天正元年(一五七三)八月二十七日夜半羽柴秀吉によって攻め落とされ、久政の守る小丸と長政の籠もる本丸との間を分断された。

 なお、『信長公記』には、織田信長が自ら京極丸に入ったことも、記載されています。

羽柴秀吉は浅井久政の首を取り、虎御前山の信長の陣へ持参し、実検に供した。 翌日、信長もまた京極丸に入り、浅井長政・赤尾清綱を切腹に追い込んだ。

『現代語訳 信長公記』
太田牛一著 中川太古訳
新人物文庫出版    

 最終局面にあったとはいえ、大将自ら敵陣に踏み込むのは、相応のリスクが伴います。
 信長は、勝機をみて士気高揚を狙ったのか、はたまた積年の長政への怨恨ゆえか、それとも妹・お市への救出のためか。ここは、さまざまな解釈ができそうです。

小丸跡

 京極丸に続く曲輪が小丸です。ここで長政の父・浅井久政が自刃したと伝わります。

二代城主久政が引退した後に居住した所と考えられている。天正元年(一五七三)八月二十七日に京極丸より羽柴秀吉に攻められ、鶴松太夫の介錯により四十九歳を一期として自刃した。

 北側(画像左手)は次の曲輪の側面で、東側(画像右側の中央)の地形が少し高くなっていることがわかります。
 解説板によれば、小谷落城の際に久政が自刃した場所は、そこであったとされています。

小丸【こまる】
 山王丸と京極丸の間にあり、東西2段の構造を持つ。東側が高いが、小谷落城の際に久政が自刃した場所はここであろう。

京極丸【きょうごくまる】
 浅井氏が守護京極氏の居所として用意した曲輪といわれる。南北4段の構造を持ち、清水谷側(西側)に枡形虎口がある大きな曲輪を附属する。この虎口は清水谷から登る「水ノ手」につながるが、小谷落城の際に秀吉が攻め上がった道である。須賀谷側(東側)に 造られた高さ3mほどの土塁は小谷城最大の規模を誇る。

 小丸の先をさらに登ります。

山王丸

 大きな石が点在した場所にたどり着きます。

 元は石垣だったとみられますが、現在は崩落している様子です。現地の解説板によれば、破城の痕跡とのことです。

 標高約400mに位置する小谷城の詰の丸。南面に馬出を配し、鎌刃城と同形態の石垣で固められた虎口を二重に備える。南側の虎口は、破城の痕跡が現在も明瞭に残り、石垣が散乱して登山の障害となっている。中央の曲輪には山王社を祀っていた。 南側正面石垣の石は、小谷城でも最大の大きさを誇り、この図の裏に当たる東斜面には、今も大石垣が残っている。

 登るのは後とし、右側にも道が続いてるので、一旦そちらを進みます。道中に石が転がっているのでご注意ください。

大石垣

 しばらく進むと、人の身長を大きく超える大石垣がそびえる場所にたどり着きます。

小谷城でもっとも壮大な石垣である。比較的大きな石を用いた石垣で高さ約五mを測り、その規模は本丸を上回る。現在は崩壊しているが、東面に残る石垣に住時に姿を偲ぶことができる。

 この自然石を積む工法は、「野面積み」とみられます。実際に目の当たりにして、私の脳裏に浮かんだのは「穴太衆」の存在でした。
 穴太衆といえば、もともと近江国・坂本(現在の滋賀県大津市)を拠点に活躍した石工集団です。穴太衆は信長の安土城の石垣を築いたといわれ、その後も高度な石積みの技術を全国へと広めました。
 そして、彼らが最も得意とした工法こそ、「野面積み」です。小谷城の石垣も穴太衆の一派が手掛けていたかもしれません(直接的な関連を紐付ける史料は無いので、あくまで筆者の考察です)。

【参考】安土城(滋賀県近江八幡市)

 なお、信長も安土城以前に築いた小牧山城や岐阜城で、すでに石垣を取り入れていたことが分かっています。
 岐阜城では、かつて美濃国を治めた斎藤氏時代の石積みも確認されており、筆者は、信長が石垣技術をまず美濃国から取り入れたのではないかと推察しています(過去の岐阜城の記事でも触れていますので、参考までにリンクを貼ります)。 

 ただ、この時期の城では、小〜中規模の石垣を築く、あるいは巨石を横一列に並べる程度にとどまり、人の背丈を優に超えるような大規模に石垣を高く積み上げる技術は、まだ確立されていなかったように見受けられます。
 その後、小谷城の戦いにおいて、織田信長は自ら京極丸へ乗り込んだとされますが、その際、野面積みによって築かれた壮大な大石垣を実見したであろうことは想像に難くありません。
 そして、浅井氏を滅ぼして近江国を掌握した後、信長は美濃国で培われた石垣による築城術に、近江国の穴太衆による野面積みの手法を融合させ、さらに発展・昇華させていった。その到達点こそ、安土城の総石垣だったのではないでしょうか。

 話が脱線しましたが、大石垣から戻り、崩れていた石を上がると山王丸の中心部に着きます。
 ここで祀られていたといわれる山王社は、小谷寺境内へ遷座しています。

 土塁の部分にも、石垣が用いられています。

六坊〜大嶽への山道

 山王丸跡の先に、六坊・大嶽の曲輪へ繋がる山道が続きますが、筆者はここで体力が尽き、撤退となりました。
 登山道には足跡が残っており、雪が残る中、さらに先へ進んだ猛者がいたようです。
 体力に自信のある方は、安全に注意した上で、挑戦してみてください。

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