【歴史探訪】小谷城跡周辺の浅井家ゆかりの地を巡る

浅井長政を輩出し、小谷城跡を拠点として北近江を治めた浅井家。小谷城跡の麓やその周辺(滋賀県長浜市内)には、浅井家ゆかりの寺院や旧跡が点在しています。
本稿では、以下の4つのパートに分けて浅井家ゆかりの地をご紹介します。
①小谷城跡 清水谷武家屋敷群
②小谷寺(浅井家の祈願寺)
③丁野町(戦国大名・浅井氏発祥の地)
④実宰院(浅井三姉妹 隠匿地)
なお、小谷城跡については、下記の記事にてご紹介しています。よろしければご覧ください。
①小谷城跡 清水谷武家屋敷群

小谷城の起源は、初代・浅井亮政が小谷山の山頂(画像中央の奥にそびえる山)に大嶽の曲輪を築いたことに始まります。その後、東西の尾根に本丸などが築かれていきました。
その山に囲まれた清水谷に、家臣団の屋敷や寺院が立ち並んでいたといわれています。


※前半部分のみ、以下引用。
小谷城は標高495mの小谷山に築かれた城郭で、山上の曲輪郡と谷部の屋敷郡で構成されている。
小谷山は、伊吹山系に連なる丘陵の端に位置しており、概ね独立した山塊の形態をとる山である。 南には独立丘陵の虎御前山が立地し、背後に伊吹山地が控え、姉川・高時川、湖北平野が広がる肥沃な土地に恵まれた地に位置している。城下には、北陸と東海地方を結ぶ北国脇往還が走り、南東 17kmにはり中山道、背後の伊吹山系に越前・美濃への道が続く交通の要衝である。
清水谷は、小谷山の南に開析した谷で開口部幅約180m、奥行約1kmの平地部分と、その奥行約 920mからなる。
清水谷は小谷城の大手と考えられ、中央を南北に走る「清水道」の両側には浅井家家臣の屋敷等があったと考えられる。
(後略)

清水谷の入り口の手前には、堀が築かれています。現在は大手門橋が架けられており、その先に大手門が建っています。
知善院跡

大手門付近には、かつて知善院と呼ばれる寺院ががありました。

知善院跡は清水谷の入口に位置し、西側は山の斜面に、南側は堀跡に接している。
発掘調査で、素掘りの溝跡や、庭園の池と考えられる長方形の池跡が発見された。池跡は中央部に盛り上がった部分があり、島があったと考えられる。島の周辺は大石が散在していた状態であった。池跡からは灯明皿が多く出土している。そのほか、鋸、小札、硯・砥石・碁石、 漆碗・笹塔婆や多数のこけら経が出土している。
こけら経には、「元亀三年 □属七父母法(界) 十一月十四日」と書かれたものと、「(江)州(浅井)郡 元亀三年 為□読禅定 十一日」と書かれたものがあり、共に法華経が書写されている。こけら経は一般的に池などから出土することが多く、折りを込めて書写したのち日付や名前などを記す。
こけら軽が書かれた元亀3年の11月頃は、織田信長が虎御前山に陣をとり、攻防戦が繰り広げられている時期である。11月3日に浅井七郎は虎御前山から宮部までの道を破壊しようと攻撃するが、織田軍の木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)率いる兵に崩されている。こけら経は戦いのさなか無事を祈ったのだろう。しかし、小谷城下町はこの年の7月には放火されるなど、攻撃を受けており、町の被害も大きかったと考えられる。翌年の天正元年(1573) 9月1日には小谷城は織田信長の攻撃を受け落城した。
小谷城落城後、秀吉により知善院は小谷城下から長浜城下(長浜市元浜町)へと移された。

現在は、長浜市元浜町に同寺院があります。

大手門からしばらく進むと、右手に追手道があります。

追手道の途中にあるのは、石田三成の居城であったことでも知られる佐和山城の元城主・磯野員昌の屋敷跡です。
磯野員昌は浅井氏の猛将として知られ、姉川の戦いで織田軍の13段の陣構のうち11段の陣を破ったという「姉川十一段崩し」の伝説が伝わっています。
磯野氏は、磯野山城を本拠とする国人領主で、磯野丹波守員昌は猛将として知られる浅井氏の重臣である。元亀争乱時は佐和山城主として織田軍と敵対した。
元亀2年(1571)織田軍の猛攻を受け、磯野員昌が守備する佐和山城は小谷城とも孤立した。その結果、同年2月24日に降参し、佐和山城を織田軍に明け渡した。浅井長政は城を開城したことを謀反とみなしたので、小谷城へ入れず員昌は浅井氏から離反したと「島記録」に記されている。
その後、磯野丹波守員昌は信長に仕え、高島一郡を与えられる。
小谷城戦国歴史資料館

小谷城の歴史を詳しく紹介しているほか、実際に浅井家の書状なども展示されています。日本100名城スタンプを集めている方は、こちらで押印できます。

小谷城戦国歴史資料館よりしばらく進むと柵が立てられている場所がありますが、扉を開けて進むことができます。
獣害防止用の柵のため、開けた後は必ず閉めましょう。
遠藤屋敷跡

柵の先を進むと、浅井長政の重臣・遠藤直経の屋敷跡があります。
浅井長政の重臣遠藤喜右衛門尉直経(?~ 一五七○)の屋敷跡と伝えられている。清水道沿いにあり道側に土塁の痕跡がある。
遠藤直経は浅井長政の信頼が厚く、大依山の守備にあたるなど浅井氏の勇将として活躍した。元亀元年(一五七○)六月二十八日の姉川の合戦で、浅井方の敗北が濃厚となったとき、遠藤直経は信長の首を取るべく、味方の武将三田村氏の頭を持ち、織田の武将を装い単身織田の陣深く乗り込んだ。しかし、信長の本陣近くで竹中重治の弟竹中久作に討ち取られた。

姉川の南(織田軍側)にあります。
御屋敷跡
※2026年5月21日追加更新

さらに進んで清水谷の最奥まで行くと、浅井長政とお市の方、娘たち三姉妹が過ごしたと考えられる御屋敷跡があります。
清水谷屋敷跡の最奥に位置し、浅井氏三代の居館。お市の方とその子供達もこの館で暮らしたと思われる。
天文三年(一五三四年)初代城主浅井亮政が主家の京極高清・高広親子を招き饗応した。
この宴は浅井氏が京極氏の筆頭家老であり、北近江支配の実権を掌握したことを示したとされる。
この饗応した時の記録「天文三年浅井備前守宿所饗応記」には清水谷にあった。館の様子が記されている。
清水谷一帯には多くの曲輪群がある。
小谷城下町

場所は移り、清水谷の大手門から南に約100mの位置に城下町を示す解説板があります。この辺り一帯が城下町であったと考えられています。
奥に見える山は、姉川の戦いの前や、小谷城の戦いの際に、織田信長が本陣を置いた虎御前山です。
小谷城の城下町は、現在の湖北町伊部と小谷郡上町の集落、その中間に当たる清水谷南の田地周辺に存在したと考えられている。「菅浦文書」に残る永禄9年(1566)9月1日の浅井長政撰銭禁止令には、小谷城下に商人が居住する町があったことが確認され、「信長公記」元亀元年 (1570)6月21日の項では、信長軍が「浅井居城小谷へ取り寄せ、・・・町を焼き払うふ」とあり、城下町の存在が知られる。一方、平成元年(1989)に「東本町」の一部が調査され、掘立柱建物の遺構を確認している。また、焼けた鎧の小札、刀の一部、火を受けた陶磁器も出土しており、信長の兵火によって焼失した城下町の遺構と推定できる。
現在も、清水谷前と伊部集落の間には、東本町・西本町・本町・呉服町・大谷市場・横町など、町場であったことを示す地名が残っており、この地には南北に2本の街路が通る城下町の中心部があったことが想定される。最近、この地域の東に大きな沼を想定し、現在の「堀田」 と呼ばれる所にあった水路につながっていたとする説が出されている。
小谷城下町は、天正9年(1581)2月10日の羽柴秀勝文章によれば、この文書が出された頃に長浜への移転をすませたことが分かる。城下町の機能の一部は北国脇往還の伊部宿・郡上宿(両者を一宿とみなし小谷宿とも言われる)に引き継がれた。
②小谷寺(浅井家の祈願寺)

小谷城下町跡から東へ500mの位置に浅井家の祈願寺であった小谷寺があります。

如意輪山小谷寺は、戦国大名浅井氏の居城だった小谷城の登山口にある真言宗豊山派の寺院。寺伝では、白山を開いた泰澄によって、神亀5年(728)に創建されたとされる。本尊は金銅製の如意輪観世音菩薩、または弥勒菩薩像として尊崇されている(長浜市指定文化財名は、金銅菩薩半跏像、朝鮮からの渡来仏との説あり)。
「淡海木間攫」〔意政4年(1792) 成立〕によれば、もともと「常勝寺」と称したが、中興開山勢伝法印の時に、浅井亮政の祈願寺として「小谷寺」と改めたとされる。また、天正元年 (1573)8月には、織田信長の小谷城攻撃によって、寺内ことごとく焼失したといわれる。
天正元年9月1日、小谷城主だった浅井氏が滅亡し、織田信長から羽柴秀吉に湖北の地が与えられる。本寺は小谷城をしばらく居城とした秀吉によって、手厚く保護された。天正4年(1576)に、秀吉は小谷寺の寺地境界を定め、天正19年(1591)には、高44万余の所領を朱印状で与えている。以後、この所を「朱印地」と呼び、江戸時代を通して小谷寺の中核所領となった。
江戸時代の寺坊は成就院・身性院・明蔵院・円蔵院・普門院、それに学頭・明王院の6坊があり、下司総持寺(長浜市宮司町)の末寺であった。
小谷神社

境内にはかつて、小谷城の山王丸で祀られていた神社があります。

もともと、小谷城主要部の最奥にある山王丸にあった「山王社」である。「山王社」は日吉神社と同意で、比叡山の地主神を指す。天正19年(1591) 12月25日の「豊臣家奉行人算用状」 (称名寺文書)によれば、豊臣直轄領の収入から100石が「小谷山の山王」に支払われており、 小谷落城後も山王丸旧地に存在したことが確認できる。
「淡海木間攫」〔寛政4年(1792) 成立〕によれば、伊部村の項目に、「山王社 社二尺」とあり、「当城(小谷城)内ニアリ、浅井三代ノ産土神ナリ、落城後、小谷寺へ引移ス」とあるが、 明治35年(1902) 4月の「近江宝鑑」に載る小谷寺の図には、小谷寺がある北谷に存在したことが知られる。大正年間(1912~26)には湖北町伊部の古矢眞神社に合祀されたが、昭和19 年(1944)に小谷城登山口に移され、さらに昭和49年(1974) に現地に移された。
本社では、かつて3月9日に「山講 (山開きの神事)」が行われ、周辺の林業関係者が信仰する「山の神」としても知られていた。
③丁野町(戦国大名・浅井氏発祥の地)

小谷城跡から西へ約2kmの場所に、浅井氏の発祥の地である丁野という地域があります。

※前半部分のみ、以下引用。
浅井氏と丁野(長浜市小谷丁野町)の関係を語るには、竹生島に残る2通の文書がある。1通は明応9年(1500)3月12日に、 浅井氏の後室(未亡人)慶集が、子どもの浅井直政と共に、竹生島弁才天に土地を寄進したもの。もう1通は、翌10年2月9日に、 陽徳院住持総充と浅井直政が、丁野郷の田地を竹生島弁才天に寄進したものである。陽徳院は丁野(丁野山北部)にあった、代々浅井氏の女子が出家し仏門に入った寺院で、総充は16世紀初めの住職であった。また戦国大名となる前の土豪・浅井直政(戦国大名浅井氏初代・亮政の養父)が、竹生島へ土地を寄進し、また丁野にあった尼寺と密接な関係にあった事実からは、戦国大名となる以前の浅井氏が丁野を本質としていたことは確実である。
一方、丁野集落では、亮政の4代前の祖が三条公綱という公卿だとする伝承が根強く存在する。集落の東西に流れる川は、三条公綱に因み「東三条川」・「西三条川」と呼び、公綱が高時川からの取水口を造り導いたとする伝えがある。また、公綱が京都から乗ってきた牛車の牛の墓が、「牛塚」として伝承され、その東には「浅井家産湯の池」跡も現存する。さらに、氏神の岡本神社境内には、公綱のお手植えという銀杏の巨木も現存する。
浅井氏の本来の屋敷は「浅井家産湯の池」が所在する辺りに広がる所ではないかと推定されている。これらの伝承も、浅井氏本貫が丁野であったことを示す根拠となろう。
小谷丁野観音堂


丁野観音堂由緒
本尊は、全国的にも珍しい六臂の十一面観音坐像で行基の作と伝えられ 堂字は 往古 比叡山延暦寺の末派欽明山長教寺の本堂であった
嘉吉年間に三条公綱卿が勅勘を蒙って 当丁野の地に左遷され その時は 卿は境内地三反歩を寄進し 今村氏や村人が帰依していたこの観音を本尊として 五間六間半の大堂を再建する
次第に盛大を極めるが 文明三年 時の住職が蓮如に帰依改宗し また 無住となったことにより以後 観音は村佛として山王大権現(岡本神社)と共に村人によって信仰護持され今日に至る
現在の堂宇は明和年間 第三度目の建立にかかるものである 堂前と堂後の銀杏の木は公綱卿のお手植て 境域石垣は浅井氏二代目久政公の寄進と伝える
岡本神社


岡本神社由緒
当社は延喜式内神名帳所録 近江国浅井郡十四座の一にして元岡山に鎮座せり 往古より大門の地に祭供田と称する祭田あり
是京極持清の奉納する所にして免除地なり
嘉吉二年(一四四二)三条大納言公網卿丁野に配流の際、当社に祈請する所ありて 拝殿一棟献納せらる 又舞楽堂は藤原公の寄進なり 中古浅井氏代々の祈願所なり
天正元年(一五七二)織田氏兵乱の際 朝倉義景勢、(堀甚助 久保十郎 玉泉坊等)此所岡山に立龍る 兹に戦利あらず 拝殿一棟を残し 社殿その他古文書尽く焼失す 同年十二月神官 脇坂和泉尉霊夢を感じ 現在の地に再建遷座す 豊臣氏よりも祭供田奉納あり 徳川氏検地の際も免除地となれり
明治九年(一八七六)村社に列す
主祭神 素盞嗚命 大山咋命
浅井比咩命
合祀神 応神天皇(元八幡神社)
天児屋根命(元天神社)
境内社 稲荷神社(宇迦之御魂神)
境内地 観音堂(観世音菩薩)
地蔵堂(地蔵菩薩)
例祭日 四月十四日
稲荷神社

稲荷神社の右側に「浅井亮政出生の地」碑、「三條公卿御手植樹」碑とその銀杏があります。
④実宰院(浅井三姉妹 隠匿地)

小谷城跡から南東へ約2.5kmの場所に、かつて浅井長政とお市の方の三人娘、茶々・初・江が匿われたと伝わる寺院があります。

実宰院と昌安見久尼の由来
本寺は、鎌倉以前の創建といわれ、実才庵と称し天台宗であったが、その後、 小谷山実宰院と改められ、曹洞宗に属している。
小谷山に居城を構えた浅井の二代目久政の長女、阿久姫は仏道修行を志し、出家され昌安見久尼と申した。父、久政は当村庄屋平野左近助にたのみ状をつかわし、 天文11年3月5日、当時無住と化していたこの庵を再興させた。
寺伝によると、ご本尊は宇多天皇のご持物観世音菩薩であり、尼の座像は豊臣秀吉の室、淀君の寄進のもので、ともに寺宝として衆人の拝むところである。また、 長政とお市の方の間に生まれていた悲運の茶々、おはつ、おこうの三人の姫は、戦国の乱世この庵に匿われ、また、浅井家終焉の際には尼自らが養育されるところとなった。
当時、村人は幼い姫たちの悲しみや寂しさを村の行事の中にお誘いし、分ち合ってなぐさめたと伝え聞いている。また、苔むす庭園は、室町時代の築造である。
昭和61年9月吉日建之
平成19年8月吉日再建
小谷城移築裏門(実宰院山門)

小谷城の裏門から移築されたと伝わっています。
(番外編)道の駅 浅井三姉妹の郷

実宰院からさらに東へ1.5kmの場所に、道の駅「浅井三姉妹の郷」があります。飲食店や物産品店等があり、休憩場所に最適です。

道の駅敷地内に、2026年2月1日(日)~12月20日(日)の期間、「義と絆館」が開館されています。
戦国大名・浅井氏の歴史や、浅井三姉妹の生涯などを、パネルや映像で展示されています。
