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太平洋の島嶼戦と艦砲支援の教訓

 1943年11月20日、タラワ環礁のベティオ島。上陸用舟艇から飛び降りた米海兵隊員たちは、珊瑚礁の上で立ち往生していました。潮位の読み違いで舟艇が礁に乗り上げ、兵士たちは胸まで浸かる海を歩いて前進するしかありませんでした。岸からは、日本軍の銃火が降り注ぎます。

 出撃前、指揮官たちは確信していました。数時間の猛烈な艦砲射撃と航空爆撃の後、日本軍の防御は壊滅しているはずだと。しかし海兵隊員たちが目にしたのは、健在なコンクリート製トーチカと、そこから絶え間なく放たれる銃弾でした。

 太平洋の島嶼戦において艦砲支援をめぐって繰り返された問いは、単純でした「どれだけ撃てば十分か」。そしてその答えは、何度血で学び直されることになったのでしょうか。


艦砲支援とはどういう行為か

 戦艦の主砲が地上目標に向けられるとき、それは通常の砲撃とはまったく異なる性質の行為となります。

 まず、弾薬の重さが桁違いです。16インチ(406ミリ)砲弾1発の重量は約1,200キログラムに達し、小型自動車に相当します。それが超音速で飛来し、地面に激突します。コンクリート製の構造物であれば貫通し、土の陣地であれば数メートルの深さのクレーターを刻みます。一隻の戦艦がその主砲から放つ火力は、砲兵連隊に匹敵するとも言われました。参考までに、第二次世界大戦中のアメリカ陸軍の砲兵連隊は一例ではありますが、105mm榴弾砲が36〜54門程度です。

 ただし、航空爆撃と比べて射撃精度は低く、目標の位置情報も限られています。そのため上陸作戦での艦砲支援は、「陸上前進観測班(Shore Fire Control Party)」と呼ばれる上陸部隊との連携が不可欠でした。観測班が目標を識別して艦船に無線で伝え、艦側は修正射撃を繰り返しながら目標に砲弾を集中させます。

 上陸前の「事前砲撃(preliminary bombardment)」は、これとは少し異なります。観測班がまだ上陸していない段階で艦隊が行う砲撃であり、既知の陣地・施設・兵力集結地をあらかじめ地図情報と航空偵察から割り出して叩きます。この段階の砲撃の有効性は、目標の情報精度と、砲撃に費やす時間に大きく左右されました。


タラワ:判断の代償

 タラワ環礁のベティオ島に対する上陸作戦「ガルバニック作戦(Operation Galvanic)」は、1943年11月20日に実施されました。島の面積は約3平方キロメートルに満たない小島でしたが、日本軍は500基を超えるとも言われる砲座・機銃陣地・トーチカを構築し、約4,500名の守備兵を配置していました。

 上陸前日からの航空爆撃に続き、D DAYの早朝から戦艦・巡洋艦・駆逐艦が砲撃を開始しました。しかし実際に艦砲射撃が行われた時間は予定より短く、しかも砲撃と上陸の間に時間的な空白が生じました。煙幕で目標が見えなくなったことや、潮流の変化への対応に追われたためです。

 そして、上陸した海兵隊が直面したのは、生き残った守備兵が多数を占める島でした。鉄筋コンクリート製のトーチカは艦砲の直撃でなければ破壊できず、それだけの精度で砲弾を命中させることは極めて困難でした。さらに礁の問題が重なり、第一波の多くが礁上で立ち往生して至近距離から集中攻撃を受けました。

 結局、76時間の戦闘の末、ベティオ島は確保されました。しかしアメリカ軍の戦死者は約1,000名にのぼり、当初の予測をはるかに上回る損害となりました。

 タラワが残した教訓は明確です。事前砲撃が短すぎました。そして、短い砲撃が「十分だ」という判断の根拠となった情報精度もまた、不十分でした。


ペリリュー島:繰り返された過信

 タラワの教訓は、一定程度は次の作戦に反映されました。しかし1944年9月のペリリュー島上陸作戦は、教訓の定着がいかに困難かを示す事例です。

 3日間にわたる集中的な艦砲射撃と航空爆撃の後、砲撃部隊の指揮官は島の防御はほぼ無力化されたと報告しました。目に見える砲座や施設は破壊されており、目標がなくなったという判断でした。

 しかし上陸した海兵隊が直面した現実は、まったく異なるものでした。ペリリュー島北部のウムルブロゴル山地には、日本軍が掘り抜いた広大な洞窟陣地が広がっています。砲撃で破壊できるのは地表の施設だけであり、地下深くに構築された坑道と陣地には艦砲も航空爆弾も届かなかったのです。

 当初「4日間で終わる」と予測された戦闘は2カ月以上に及び、アメリカ軍の死傷者は約1万名にのぼりました。目標がなくなったという報告が、地下陣地の存在を見落としていたことは明らかでした。


日本軍の対応

 タラワからペリリューにかけての時期、日本軍の島嶼防衛思想には根本的な転換が生じていました。

 初期の島嶼防衛は「水際撃滅」を基本としていました。上陸しようとする敵を海岸線で迎え撃ち、海に押し戻すという発想です。しかしこの戦術には致命的な弱点がありました。海岸に集中した守備兵は艦砲射撃に対して無防備です。上陸前の数時間、大量の砲弾が集中すれば、海岸の陣地は壊滅します。

 この教訓を踏まえて策定されたのが「縦深防御」への転換でした。海岸は最小限の戦力で抑え、守備の主力を内陸の洞窟・地下陣地に置きます。敵が上陸し、艦砲支援の射程外もしくは安全地帯に進出した後に、地下から出撃して交戦する。艦砲射撃の火力を受け流すための戦術です。

 この転換を体系化した人物として知られるのが、ペリリュー島守備隊長の中川州男(1898〜1944)大佐です。彼の指揮のもとで構築されたウムルブロゴル山地の陣地体系は、アメリカ軍が経験した中でも最も手強い防御体制のひとつとなりました。

 洞窟・地下陣地の攻略において艦砲射撃が著しく有効性を失う理由は明快です。砲弾が破壊できるのは、砲弾の着弾点とその周囲の限られた範囲です。地下坑道に直撃しなければ、坑道内の守備兵は生き残ります。そして島全体に張り巡らされた地下網に対して一発一発の砲弾を命中させることは、事実上不可能でした。


硫黄島:砲撃の日数をめぐる議論

 1945年2月の硫黄島上陸作戦は、この問題をめぐる議論が最も鮮明に記録された事例です。

 作戦計画段階で、海兵隊の指揮官たちはより長い事前砲撃期間を強く求めました。なかでも第5水陸両用軍司令官のホランド・スミス(Holland M. Smith, 1882〜1967)中将は、9日間から10日間の継続的な艦砲射撃を必要と主張しました。しかし海軍の艦隊側は、その要求を認めませんでした。スケジュール上の制約と、艦艇・弾薬の配分の問題から、事前砲撃は3日間に限定されました。

 硫黄島には、日本軍が掘り抜いた総延長約18キロメートルの地下坑道が走っていました。守備部隊の司令官である栗林忠道(1891〜1945)中将は、縦深防御をペリリュー以上に洗練させた形で実行しました。海岸から飛行場、そして内陸の台地に至るまで、陣地は幾重にも連なり、地下で相互に連絡していました。

 3日間の砲撃では、その地下網を無力化するには程遠い結果に終わりました。上陸した海兵隊はほぼ無傷の防御陣地と向き合うことになり、36日間の戦闘でアメリカ軍の戦死者は約7,000名に達しました。

 「海兵隊員の血で払うことになる」——スミス中将が砲撃日数の短縮に際して語ったとされる言葉は、この戦いの結果を見れば、予言ではなく現実の記録となりました。ただし、10日間の砲撃があったとしても地下陣地を完全に無力化できたかどうかは、現時点では検証しようのない問いでもあります。


戦後への継続:艦砲支援の存続

 第二次世界大戦が終わると、航空機と核兵器の時代において戦艦は時代遅れとみなされ、アメリカ海軍の戦艦は次々と退役・除籍されていきました。しかし戦艦の対地射撃能力は、冷戦期以降も繰り返し必要とされることになります。

 1950年に勃発した朝鮮戦争では、ミズーリをはじめとするアイオワ級戦艦が再就役し、朝鮮半島の沿岸目標に対して艦砲射撃を実施しました。山がちな半島の地形において、艦砲は陸上部隊への火力支援として有効でした。

 1968年にはベトナム戦争への対応として、ニュージャージーが再就役しました。16インチ主砲による支援射撃はベトナムの地上部隊から高く評価されましたが、わずか1年後に再び退役しています。

 1991年の湾岸戦争では、ミズーリとウィスコンシンが派遣され、クウェートのイラク軍陣地に対して艦砲射撃を行いました。この時点で両艦は就役から約50年が経過しており、最終的に1992年に除籍されました。アイオワ級全艦の除籍をもって、アメリカ海軍は戦艦という艦種を正式に手放しました。


結び

 太平洋の島嶼戦が残した問いは、単純な問いのまま答えが出ないままです。「どれだけ撃てば十分か」という問いに対して、現場の指揮官たちが何度も「十分だ」と判断し、何度もその判断が誤りであることが血によって示されてきました。

 誤りの構造は毎回似通っています。確かに、目に見える地表の施設は砲撃で破壊できます。しかし地下に潜った守備兵は生き残っているのです。そして「目に見えない目標」は、砲撃計画の前提に入らず、作戦が次の段階へ進んでしまうのです。

 艦砲射撃が持つ圧倒的な破壊力は、それが届かない場所に構えた敵の前では大幅に減じられます。タラワからペリリュー、硫黄島へと戦場が移るにつれて、日本軍の防御はその弱点を突く方向に洗練されていきました。それに対してアメリカ側がより長い砲撃を求め続けたことは、艦砲支援の可能性と限界の両方を認識した上での、現実的な要求でもあったのでしょう。




参考文献

Morison, S. E. (1951). Aleutians, Gilberts and Marshalls, June 1942 – April 1944 (History of United States Naval Operations in World War II, Vol. 7). Little, Brown.

Hough, F. O. (1950). The Assault on Peleliu. U.S. Marine Corps Historical Division.

Newcomb, R. F. (1965). Iwo Jima. Holt, Rinehart and Winston.

Toll, I. W. (2020). Twilight of the Gods: War in the Western Pacific, 1944–1945. W. W. Norton.

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