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龍樹『中論』17.30

龍樹『中論』17.30
「業がなく作り手もないならば、どうして業より生じた果がありえようか。さらに、果がないとき、享受者がいったいどうしてあるであろうか。」
訳語:
作り手(kartā);
業より生じた果(karmajaṃ phalam);
享受者(bhoktā)。

投稿者註:
ひとつ前の偈(17.29)では勝義の観点から、業は縁からも非縁からも生じたものではなく、ゆえに作り手もまた自性としては存在しないことが論じられた[補註]。この偈ではその論理的帰結がさらに推し進められ、業と作り手が(自性としては)存在しないならば果も享受者もありえないという連鎖的否定となっている。"自性としては存在しない"と読むというのは月称の註釈に従っている。

論理は次の四段階の否定的連鎖である。すなわち、(1) 業が存在しない、(2) 作り手が存在しない(以上は17.29まで)、(3) ゆえに業より生じた果(karmaja phala)もありえない、(4) ゆえに果の享受者(bhoktā)もありえない。これは
作り手 ↔ 業 → 果 → 享受者
という因果系列の全体を一挙に否定しており、この第17章全体の結論部としてのまとめのひとつである。

⚪︎ この偈はもちろん業果の一般論ではあろうが、より限定的に見れば、この章の偈13 - 偈20において提示された不失法(avipraṇāśa)の理論、すなわち業は生起の直後に滅する(刹那滅)がその後も存続して果を保証するのは不失法(=証文)であり、喩えるならば業は弁済されるべき負債のようなものであり残るのは証文(=不失法)だとする説、この説への反駁をなすと見るのが見やすいように思われる。不失法の理論の提唱者については、正量部への帰属が従来しばしば言及されるが、月称(チャンドラキールティ)の『プラサンナパダー』は明示的に部派名を挙げていない。いずれにせよ、龍樹はここでその不失法の理論をも含めて、業の効力の実体的存在を前提とするあらゆる立場を否定している。この偈では業・作り手・果・享受者という因果系列の全項目を否定したことになる。

[補註]自性の『中論』での定義とみなされる叙述は既出偈15.2にある。参考リンク:
https://note.com/s7ryu/n/n95a7f200736b

[Sanskrit Original]
karma cen nāsti kartā ca kutaḥ syāt karmajaṃ phalam
asaty atha phale bhoktā kuta eva bhaviṣyati

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