龍樹『中論』15.2
龍樹『中論』15.2
「自性が"作られたもの"であるなどと、いったいどうしてありえようか。自性とはまさに、作られたものではなく、他のものに依存しないものだからである。」
訳語:
自性(svabhāva);
作られたもの(kṛtakaḥ)[語註];
作られたものでない(akṛtrima);
他のものに(paratra);
依存しない(nirapekṣaḥ)。
[語註]
語 kṛtakaḥ を"作られたもの"と訳すことについて..
アビダルマ的立場では、因縁により生起・即滅するプロセスとして理解される刹那滅の過程ということに目を向ければ"作られるもの"ではないということになるが、この偈において龍樹は各瞬間に"作られる"(刹那滅)という事実そのことをその都度"作られた"に「還元」して論じていると見られるのでそのように"作られた"と訳す。
投稿者註:
この偈は直前の偈15.1からの続きである。前の偈の後半の文は、自性が因と縁とから生じるのならばそれは作られたものとなるということであった。それを引き継いで、ここではその自性というのは作られたものでもなく、他に依存するものでもないと言っている。どういうことかと言うと、前の偈からの続きにおいて、法(dharma)が縁起によるとすれば法の固有の本性としての自性も縁起生ということになり、自性ということが作られたものということになってしまう。しかしながら、自性(svabhāva)という語の成り立ち(svo bhāvaḥ:sva<固有の>+bhāva<あり方>)から見て、それは帰謬となるという論証をしているのである[補註]。
論理の急所は、アビダルマ実在論が"縁起所生(hetupratyayasaṃbhūta)の諸法が自性を持つ"と説くところ、つまり作られたものでありながら自性(ほぼ同義で自相)を保つとするその矛盾点、その点にあり、龍樹は"自性とは本来 作られざるもの(akṛtrima)"のはずだという共通了解を梃子として有部アビダルマに向けると見るものである。この解釈は龍樹の論述スタイルから見て十分なりたちうるであろう。
他方で、そうであるとしても、ここでは自性ということの龍樹による定義的特徴が述べられていると見ることも可能ではあり(月称の註釈はその面をも指摘する)、その受け止め方は上述のことと排他的ではない。解釈の相違点は、自性の定義(すなわち法に固有の不変の本質)は一旦既知としつつ龍樹が帰謬法を用いたと見るのか、それとも後半文で龍樹が積極的に(ただし否定の形で)自性の定義づけをしたとするのか、というそこのところにある。いずれの意味にも読めるし、ともに議論の方向性としては矛盾しない。なお月称の『プラサンナパダー』での註釈は 1)帰謬の前提と、2)定義の提示、という両面を併せもつ形で読めるとするものである。
[補註]
ただし、"svabhāva(自性)"という語の語源分析(svo bhāvaḥ:sva<固有の>+bhāva<あり方>)は月称の註釈によるもので龍樹がそれを明示しているわけではない。龍樹の流儀としては語源分析(nirukta)というのは分別に陥るということから明示的にそれをすることは避けていたとも考えられる(推測)。他方でインド古来のヴェーダ解釈等における思考の伝統・流儀としての語源分析(nirukta)というのは、龍樹の場合においても背景にはあったはずであり、龍樹が明示しなかったとしても、そのインド的背景を考えれば語源分析に通じる意識はあったと見ることは自然であろう。月称の場合は龍樹の内容面での意図を汲んであえて語源分析をたびたび明示的に行なっている。
[投稿者按]
龍樹は結局は自性ということを退けるのであるから(後出偈15.6)、自らが積極的にその語("自性")を定義して後にその自性ということを棄却したというよりは、既存の(アビダルマの)用法を仮に認めてそれに対する帰謬論法を行いて矛盾を指摘し、さらに後に至ってその自性ということを棄却したと見るのが自然であろうと投稿者は考える。ただし、龍樹は論理的厳密性から独自の再定義を行なって論じたのだとすることも十分考えうる。解釈の問題である。
文脈:
この偈の収められている第15章は「自性の考察(svabhāvaparīkṣā pañcadaśamaṃ prakaraṇam)」と名付けられている。ものごとの固有のあり方としての自性という考え方についての検討である。龍樹はこの偈でその"自性"ということの"作られたもの"(法:dharmaが縁起生とされることから含意される)であるという特徴づけを批判的に考察している[下記補足参照]。
[補足]
月称(チャンドラキールティ)は『プラサンナパダー』の註釈において、自性を、語源的には"自らのありかた"(svo bhāvaḥ:sva<固有の>+bhāva<あり方,存在>)としており、さらにまた"他に依存せず、作られたものでなく、それ自身に固有のあり方として在ること"という性格を与える。すなわち自性とは、三時(現在・過去・未来)を通じて変異しない(kālatraye 'py avyabhicāri)固有の本性であり、それゆえ縁起し生滅変化する一切の存在はこれを満たし得ず、自性を欠くということになる。
[補足(続)] -自性すなわち無自性という以下の月称註は注目点-
他方で月称は注目されるべき同じ註の続きで、自性の語をもう一つの意味で考えてみている。諸法の法性(dharmatā)=本性(prakṛti)=空性(śūnyatā)=無自性性(naiḥsvābhāvya)=真如(tathatā)=不生(anutpāda)を、<他に依存せず・作られざる>がゆえに"自性"と呼ぶことにするが、ただしこの自性もまた"何ものでもない単なる非存在以上ではないもの"であって結局は asvabhāva(自性ならざるもの)であり、かくて"ものの自性は存在しない(nāsti bhāvasvabhāvaḥ)"と結ばれる。
この後段は、要約的に"真如(=空性=不生)としての'自性'は、それ自体が無自性性(naiḥsvābhāvya)であり、非存在未満(非存在以上ではないもの)として'自性ならざるもの(asvabhāva)'である"とまとめても良いであろう。ただしこの場合の"自性"は、同じ語でありながら、アビダルマ的実在論が諸法に帰する固有の本性(svalakṣaṇa)としての"自性"とは指すところを異にし、むしろその否定にほかならない。("指すところを異に"と先に書いたがそもそも指すところがない。)
[Sanskrit Original]
svabhāvaḥ kṛtako nāma bhaviṣyati punaḥ katham .
akṛtrimaḥ svabhāvo hi nirapekṣaḥ paratra ca .
