滾る感情を吐き出す(ポートレート撮影 作例の紹介)番外編その33@某繁華街
■ またしても、直近では一番撮影機会の多い知人女性と、別の用事のついでにさくっと撮影
映像制作会社の代表兼プロデューサーが、2024年4月に自社の設備投資としてシネマラインであるSONY FX3やレンズ、その他周辺機材を購入したところ、なぜか「ポートレート<写真>撮影欲」が滾ってしまい、この「滾る感情」を吐き出すために、ポートレート作例をアップしていくシリーズです。
モデルは、直近では一番撮影機会の多い<知人女性>です。
総括記事や複数のモデルを紹介する際には、<知人女性A>として紹介しています(名前を出していない知人女性を撮ることが多いので、個別認識のためにAとBにしています)。
つい先日も「滾る感情を吐き出す(ポートレート撮影 作例の紹介)番外編その31@某繁華街」で書いたように「別の用事のついでにiPhoneでさくっと撮影」したばかりなのですが、私の<知人女性A>に対する「滾る撮影欲」のストッパーは壊れているので、またしても、またしても「さくっと撮影」した次第です。
↓前回も「別の用事のついでにiPhoneでさくっと撮影」
↓前々回は「広大なロケーション(某海岸)でフルサイズカメラでがっつり撮影」した(SONY GMレンズ編)
↓前々回の付随記事:自らの写真をスーパータクマーでセルフオマージュ(オールドレンズ編)
別の用事のついでにiPhoneで撮っていますが、モデル本人に写真を事前確認していただき、公開する許可を得ています。
■ モデル<知人女性A>について
<知人女性A>をモデルに起用して撮影した記事では、何度も書いていることではありますが、この記事から読んでいただく方もいらっしゃると思われるので、一部重複してご紹介します。
<知人女性A>は、モデルや被写体活動をしているわけではない全くの素人なので、「カメラの前で笑顔を作ったり変なポーズはしなくてよい」「むしろ何もしなくてよい」「ただ立っているだけで良い」というディレクションで撮影してきました。
そのため、私のフォトグラファーとしての技術だけでなく、撮影に至るまでの前後のディレクションやプロデュース、そしてプロジェクトの進行管理までトータルで試されることになり、とても難易度が高く、それゆえに「何度でも撮りたくなる(≒滾る感情を刺激する)」モデルなのです。
「フルサイズカメラでがっつりと撮る」ときには「ただ立っているだけでよい」という指示を出していますが(何度も撮ってきたので、最近はこの指示すら出さずに撮りはじめているけど)、撮影会モデルにありがちな「日常的ではない変なポーズはさせない」というだけで、顔や身体の角度、手や足の位置、唇の開き具合、そして目線の位置など、とても細かく指示を出しています。例えば「半歩右に移動、顔を左に5度傾けて、左肩を反時計回りで10度回転、目線の位置は10センチ下、唇は5ミリ開いて」というような指示です。
その反動なのか「別の用事のついでにiPhoneでさくっと撮る」場合は、「Slice of Life=ありふれた日常を描く」のつもりで撮影しています。

「底が丸見えの底なし沼」にハマる前は、
ピースの写真はなるべく撮らなかったし、
撮ったとしても使わなかった
いまは、ピースの写真も「写真は写真」だと考えている
むしろフルサイズカメラ&大口径レンズには向けない
表情が撮れていると感じる
■ 「写真とは何か?」と絶賛悶絶中なので、今回の記事もiPhoneで撮った写真だけで構成しています
数ヶ月前から「写真とは何か?」という至って普通の「深淵なる問い」、別名「底が丸見えの底なし沼」にハマってしまい、答えを模索しているうちに「もっと自由に写真について考えたい」、そして「もっと気楽に写真に接していこう」という至って普通の心境に辿り着いてしまいました。
写真への思考を繰り返した結果、フルサイズのカメラでがっつり撮るポートレート写真だけでなく、iPhoneやKODAK CHARMERAでラフに撮った、日常の延長を切り取った写真もnoteやInstagramにあげるようになりました。これまで撮ってきたポートレート写真は、世界で最も厳しいといわれる写真キュレーションサイトの1X.com でAwardを取るために投稿を続けていることもあって、かなりガチガチに構図を整えて現像してきましたが、こうした写真との向き合い方と比較すると、かなり柔軟性は増してきたと自分自身でも感じています。
そして、今回も「底が丸見えの底なし沼」に足をとられながら悶絶しつつ、少しだけ軽くなった頭と足元で、別の用事のついでにさくっとiPhoneで撮影し、真剣にカラーグレーディングしてみました。底なし沼に足をとられているのに足元が軽い、なんて矛盾していますが、心境としてはそんな感じ、なのです。
■ 「滾る撮影欲」が溢れて止まらないのは、私にとっての瞑想なのか? 癒しなのか? それとも・・・
前記事の「滾る感情を吐き出す(ポートレート撮影 作例の紹介)その59@某海岸(SONY GMレンズ編):作例写真多め」で書いたことですが、私の<知人女性A>に対する「滾る撮影欲」のストッパーは、壊れていることは自覚しています。
どれだけ「フルサイズカメラでがっつり撮影」しても、「別の用事のついでにiPhoneでさくっと撮影」しても、「滾る撮影欲」は収まるどころか、益々溢れてくるのです。
どちらの撮影でも、「撮る」「仕上げる」「思考する」を繰り返すことは、「写真に対する訓練」だと感じているわけですが、それは、<知人女性A>を撮影する度に、「写真を撮る難しさ」と同時に「写真を撮る楽しさ」も感じることができるから、「滾る撮影欲」が溢れてしまうのだと思います。
難しいから?
楽しいから?
訓練をすることで上達を感じるから?
思考が深まるから?
今回撮影した写真を仕上げながら、「<知人女性A>ばかり撮りたくなるのは、本当にそれだけなのか?」と、悶々としていたら、ある仮説が生まれました。
「写真を撮り、仕上げ、思考する」という行為は、私にとって「瞑想」となっており、さらに「癒し」になっているのではないか? というものです。
「写真を撮り、仕上げ、思考する」ことに没頭している時間は、我ながら、かなり集中し、研ぎ澄まされている感覚があります。時間の経過を忘れて作業に没頭してしまうわけですが、この時間が「瞑想」に近い状態ではないのか? と考えました。
そして、撮った写真の中からセレクトしてから、仕上げ、書き出す。その後、各種SNSや1X.comにあげる前に、<知人女性A>に送り、事前確認をしてもらいます。
この一連の集中した作業を終えると、張り詰めていたものが緩むのを感じます。それだけ集中していた証拠です。同時にこの段階でようやく疲労感を感じるのですが、それがとても心地よいのです。この感覚は「癒し」なのではないか? と。
この仮説は、今回の写真を<知人女性A>に事前確認のために送った直後に思いついただけなので、次回の記事ではまったく別のことを言っている気がしなくもないです。
あくまで思いつきなわけですが、「撮り続けていなければ辿りつかなかった」思考であるともいえますし、「思考を続けることで何事も確定させない」というのは、前記事で書いた(次項でも書いています)、「あの猫」と同じなわけです。と、ここでも屁理屈を言ってみたりします。まあ、それはそれとして。

撮らないと、仕上げ、思考ができないのだから
とにかく撮る
■ 「Slice of Life≒ふんわりした笑顔」は、「どこにでもあり、どこにもない」ので、「いつでも撮れるし、いつでも撮れない」、、、は?
前記事で、「別の用事のついでにiPhoneでさくっと撮影」する際、徐々に「Slice of Life≒ふんわりした笑顔」が撮れなくなってきたけれど、悲観はしていない、ということを以下のように書きました。
以前は、別の用事のついでにiPhoneで撮った写真たちは、どこかにアップする予定はなく、ただただ撮り続けてきました。それなのに「写真とは何か? という底が丸見えの底なし沼に落ちたから、これからはiPhoneでさくっと撮った写真もアップすることにしたわ」と急に言い出したのですから、表情を作るのも仕方がないと考えています。
公開前に事前にチェックするとはいえ、第三者の目に触れるわけですから、表情の種類が変わるのは当然です。表情を作るということは「Slice of Life」では無くなってきたことになり、「ふんわりした笑顔」は撮れないことになりますが、この状況をマイナスと捉えるではなく、<知人女性A>の意識の中で、「私にiPhoneで撮られ、noteやInstagramにアップされることが普通(≠日常)のことになった」と解釈することにしています。
これは「何事もどこに視座を置くのかと問い続けていれば、なにも確定しない」という思考です。確定しないので「どの視座も正しく、そして正しくない」というわけです。まるで、世界で一番有名な、金属箱に入れられたあの猫のようでもあります。
「ふんわり」は消えたのではなく「どこにでもあり、どこにもない」ので、「いつでも撮れるし、いつでも撮れない」と屁理屈を言ってみたりします。撮ってみるまで、「ふんわり」は確定しない、ということです!
は?
「紀元前6世紀頃に生まれた概念」である「視座」と、「量子力学の思考実験」の「あの猫」は、それぞれ別の概念だったはずですが、近年になって「驚くほど共通点がある」とそれぞれの立場の識者に指摘されています。
<知人女性A>の写真を撮り続けてきたことで、私自身も同じ結論に達してしまうなんて!
補足(?)しておくと、前回記事を読んだ<知人女性A>からも「は? 何言ってんの?(いちおう意訳)」と言われました・・・。

撮れなくても気にならなくなってきた
「ふんわり」はどこにでもあり、
どこにもないのだから
「は?」と言われたけど
今回撮れた写真は笑顔が多かったのですが、私が求める「ふんわり」は撮れませんでした。ただ、「ふんわり」を撮れなくても構わない、という境地なのです。「ふんわり」はどこにでもあり、どこにもないのですから。
■ 1X.comのギャラリーはこちら
■ Instagramのアカウントはこちら
Instagramでも、同じ「Resonance Portrait Project」名義で作例を紹介しています。ぜひご覧ください。
https://www.instagram.com/resonance_portrait/
■ 写真だけでなく小説でも転がり出すために、TALESにて小説を発表しています
本格的なポートレート撮影だけでなく、iPhoneで撮ったラフな日常写真もSNSで発表することで、「どこかに転がり出すきっかけになるかもしれない」という思いを持って公開することにしたわけですが、この思いと同じように、noteの姉妹サイト「TALES」にて、幕末〜戊辰戦争を題材にした歴史小説「闇溜まり」を発表することにしました。
創作物は誰かの目に触れるようにしなければ、どこにも転がり出さないので。
この発表をきっかけに、写真と小説のどちらもどこにどうやって転がってもいいように、私自身もウォーミングアップをはじめました。いつでも転がり出す準備は整いつつあります。
ぜひ、以下のリンクより読んでみてください。

なかなか難しい
影になった庇の下の目元をどこまで持ち上げるべきか
試行錯誤した1枚
■ 使用機材紹介
・iPhone 17 pro
※普段は以下のような機材を使用しています
・Camera:SONY α7 V
・Lens:SONY FE 24-70mm F2.8 GM II
・CFExpressA:NEXTORAGE NX-A1PRO 160GB
・SDXC:SONY UHS-II TOUGH SF 512GB
・Strap:Peak Design SLIDE LITE
・Camera Bag:Manfrotto Advanced Active Backpack III
■ 作例について
これまでは、記事後半に「作例について」という項目を設けて、作例写真をまとめて紹介するフォーマットにしていましたが、私は組み写真を撮るつもりはなく、あくまで写真1枚で成立することを目指しているため、最近は記事の各所に写真を配置して、単体であることを強調しています。
写真の説明としては、iPhoneで撮影した写真を、メインのシリーズと同じように、オリジナルで作ったプリセット「Resonance最高美肌(ずっと仮称だったけど、もうこの名前でいいかもしれない)」を当ててから、各写真に合わせてカラーグレーディング、光量調整、トリミング、バレもの消し、などなどの現像作業をしています。写真によっては、お顔のパーツ単位でマスクを切って調整しました。
また、最近の私の中のブームである、頬の赤みを強調(場合によっては追加)するようなカラーグレーディングをしています。

だけど、「ふんわり」の代わりに、
前記事で書いた「別の何か(の一端)」が
写っているので「これでいい」と思える写真
■ 最後に
「滾る感情を吐き出す(ポートレート撮影 作例の紹介)番外編」をご覧いただき、ありがとうございます。
このアカウントでは、映像・デジタルコンテンツ制作会社の代表兼プロデューサー/プランナーが、自らポートレート撮影のカメラマンとしてクライアントワークを受注することを初期目標に設定し、新規事業化を目指すべく、ポートレート撮影の作例をあげていきますので、よろしくお願い致します。
そして、こちらのnoteと同じく、ポートレート撮影の作例をあげていくInstagram アカウントも開設しました。是非ご覧になってください。
https://www.instagram.com/resonance_portrait/
よろしくお願い致します。
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